路地裏の埃っぽい光が差し込む「時田計店」のガラス窓は、いつも半分だけ磨かれていた。店主の健太は、祖父から受け継いだこの小さな城で、黙々と時計の心臓部と向き合う日々を送っている。客のまばらな店内に響くのは、壁に掛けられた古時計たちの、それぞれに違う速さの秒針の音だけだ。
ある日の午後、カラン、とドアベルが乾いた音を立てた。そこに立っていたのは、背筋をしゃんと伸ばした、品の良い老婆だった。彼女はゆっくりとカウンターに歩み寄ると、大切そうに抱えていた小さな布の袋を置いた。
「これを、直していただけますでしょうか」
しわくちゃの手が解いた袋の中から現れたのは、美しい銀細工が施された懐中時計だった。しかし、その輝きとは裏腹に、針は固く止まり、ガラスには細かな傷が無数に入っている。まるで、遠い昔の時間をそのまま封じ込めてしまったかのようだった。
健太はルーペを目に当て、慎重に裏蓋を開けた。内部は想像以上に酷かった。細かな歯車は錆びつき、軸の一部は摩耗して欠けている。見たこともない古い機構だ。交換できる部品のあてなど、どこにもない。
「…申し訳ありませんが、これは」
修理は不可能です、と告げようとした健太の言葉を、老婆の静かな声が遮った。
「主人の、形見なのです」
彼女――千代と名乗った――は、遠くを見るような目で語り始めた。それは、若くして戦地に散った夫から、プロポーズの言葉と共に贈られたものだという。
「あの方が最後に時間に触れたのが、この時計でした。もう一度だけでいい。この時計が刻む音を、もう一度だけ聞きたいのです。あの方と過ごした、あの時の音を」
その声に含まれた深い愛情と、長い歳月を越えてもなお消えない悲しみに、健太は胸を突かれた。いつも心に置いている祖父の言葉が、脳裏でささやく。『時計はただ時間を刻むだけじゃない。持ち主の時間を、想いを刻むんだ』。
健太はルーペを外し、千代の目をまっすぐに見つめた。
「…やってみます。ですが、お時間をいただくことになるかもしれません」
千代の目に、ふわりと光が灯った。
それから、健太の孤独な戦いが始まった。古い文献を漁り、海外のオークションサイトを巡り、夜を徹して欠けた歯車の設計図を引いた。しかし、精密な部品を自作する技術はあまりに難しく、作った歯車は何度も空転し、そのたびに健太の心も削れていった。もう無理かもしれない。諦めの念が黒い染みのように心を覆い始めた、そんな嵐の夜だった。
気分転換に、と開かずの間になっていた祖父の書斎を片付けていると、棚の奥から古びた桐の箱を見つけた。中には、祖父が使っていたであろう工具や、作りかけの部品、そして一冊の分厚い日記帳が収められていた。
インクの掠れた文字を追っていく。そこには、若き日の祖父が、一人の青年から受けた依頼のことが詳細に記されていた。
『恋人に贈る、世界で一つの懐中時計を作ってほしい。彼女と過ごす未来の時間を、この時計に閉じ込めたいのだ』
日記に添えられたスケッチ。その銀細工の意匠、文字盤の繊細なデザインは、まさしく千代の懐中時計そのものだった。
健太は息を飲んだ。ページをめくる指が震える。日記は、戦争の影が濃くなる中、青年の出征が決まった日の記述で終わっていた。
『彼の想いが、どうか彼女に届きますように。そして、万が一この時計が止まることがあっても、いつか未来の誰かが、この想いを繋いでくれることを願って』
日記の最後のページに挟まれていたのは、あの特殊な歯車の精密な図面と、予備として作られたらしい、小さな真鍮の歯車だった。
時を超えた祖父からのメッセージ。健太は、自分が挑んでいる仕事の意味を悟った。これは単なる修理ではない。祖父が込めた願いと、名も知らぬ青年の愛を、未来へ繋ぐための使命なのだ。窓の外では、いつの間にか嵐が過ぎ去り、静かな月光が差し込んでいた。
数日後。店内に、澄み切った音が響き渡った。
チク、タク、チク、タク……。
それは機械的な音ではなく、まるで温かい生命の鼓動のようだった。健太は、蘇った懐中時計をそっと絹の布の上に置いた。
約束の日に、千代が店を訪れた。健太が黙って差し出した時計を、彼女は震える手で受け取る。蓋を開け、時を刻み始めた針を見た瞬間、千代の目から大粒の涙が零れ落ちた。彼女は時計をそっと耳に当てる。
「……聞こえるわ」
その頬を伝う涙は、もはや悲しみのものではなかった。
「あの人の声がする……。『ただいま』って。おかえりなさい、あなた」
安らかな微笑みを浮かべる千代に、健太は祖父の日記の話をした。この時計が、自分の祖父によって作られたものであることを。
千代は驚きに目を見開いた後、慈しむように時計を胸に抱いた。
「そうでしたか……。あの方の想いも、あなたのおじい様の想いも、ずっとこの中で生きていてくれたのですね」
彼女は健太に向き直り、深く、深く頭を下げた。
「ありがとう。時を……私たちの想いを、繋いでくれて」
千代が帰った後、健太は一人、静かになった店内に佇んでいた。壁の時計たちが刻む音が、いつもより優しく聞こえる。夕日が差し込み、壁に掛けられた祖父の穏やかな遺影を照らし出す。
自分はただの時計職人ではない。人々の「時間」に込められたかけがえのない想いを、未来へと繋いでいく者なのだ。
健太の胸に、静かで、しかし確かな感動が満ちていく。明日からは、店の窓を全部、綺麗に磨こう。そう、心に決めた。
時を繋ぐ音
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