ガラクタだらけの祖父の工房は、僕、湊(みなと)にとって唯一の城だった。学校にも家にも居場所を見つけられない僕は、油と埃の匂いが混じるこの場所で、古い機械を分解しては組み立てる、そんな日々に安らぎを見出していた。
ある雨の日、棚の奥でずっしりと重い木箱を見つけた。中に入っていたのは、古びたブリキの人形だった。ぜんまい仕掛けでもなさそうだし、電池を入れる場所もない。ただ、その胸には、まるで時計の文字盤のような複雑な模様が刻まれていた。僕はそれを「クロノグラフ」と名付け、作業台の隅に飾った。
変化が起きたのは、その数日後の夜だった。僕が何気なく、祖父の形見である古い懐中電灯に触れたままクロノグラフを手に取った瞬間、人形の胸の模様が淡い光を放ったのだ。
「うわっ!」
驚いて手を放すと、光は部屋の空間に拡散し、無数の光の粒子となって漂い始めた。そして、それはやがて像を結んだ。工房の椅子に座る、優しい目をした祖父の姿。幻のように透けた祖父は、懐中電灯を愛おしそうに磨きながら、誰に言うでもなく呟いた。
『――百年に一度の、流星雨。……約束だ、一緒に見よう。あの丘で』
声は囁きのようで、映像はすぐに砂絵のように崩れて消えた。呆然とする僕の手には、まだ温かいクロノグラフが握られていた。こいつは、ただの人形じゃない。触れた物に宿る「記憶」を映し出す、魔法の映写機なんだ。
僕は急いでスマホで調べた。「百年に一度の流星雨」。信じられないことに、その記事はすぐに見つかった。ペルセウス座超流星群――観測のピークは、まさに今夜。
約束って、誰と? あの丘って、どこだ?
心臓が早鐘を打つ。祖父は二年前に亡くなった。でも、その約束はまだ生きている。果たされなければならない約束が。気づけば僕は、クロノグラフをリュックに詰め、祖父の懐中電灯を握りしめて、夜の街へと飛び出していた。
最初のヒントは、祖父の日記だった。工房の机の引き出しから見つけ出した古い手帳。クロノグラフをそっと触れさせると、パラパラとページがめくれる光の映像が現れ、あるページで止まった。『妻と初めて日の出を見た丘。幸福のクローバーを贈った』。
幸福のクローバー。そうだ、リビングに飾ってある押し花の額だ。僕は家に忍び込み、その額縁にクロノグラフを触れさせた。すると今度は、風にそよぐ草原と、遠くに見える一本の大きな樫の木の映像が浮かび上がった。若き日の祖父が、楽しそうに笑う祖母に四つ葉のクローバーを渡している。
「樫の木……あの丘だ!」
街の郊外にある、見晴らしの良い公園。子供の頃、一度だけ祖父に連れて行ってもらったことがある。僕は錆びついた自転車にまたがり、ペダルを必死に漕いだ。
だが、丘の麓に着いた時、クロノグラフの光が弱々しく点滅し始めた。エネルギー切れが近い。どうしよう。焦る僕の目に、坂道の入り口にある自動販売機の明かりが飛び込んできた。ダメ元だった。僕はクロノグラフを自販機の側面に押し当てる。すると、機械が放つ微弱な電磁波を吸い上げるかのように、胸の模様がゆっくりと力強い光を取り戻していく。やった!
息を切らして丘を駆け上ると、そこには約束の樫の木が、満天の星を背負って静かに立っていた。そして、その根元に、誰かが座っている。
「……お母さん?」
そこにいたのは、仕事で疲れているはずの母だった。母は驚いたように僕を見つめた。
「湊……どうしてここに?」
「おじいちゃんの、約束を……」
僕がリュックからクロノグラフを取り出した、その時だった。人形が、これまでで最も強く、そして優しい光を放った。最後の力を振り絞るように、僕たちの目の前に、祖父と祖母の記憶を映し出した。
若い二人が、この樫の木の下で寄り添っている。
『百年後も、その先も、ずっと一緒に星を見ような』
『ええ、約束よ』
幸せそうな二人の光の幻。その頭上で、現実の夜空から、すうっと一筋の流れ星が尾を引いた。それを合図にしたかのように、無数の光の雨が、次から次へと夜空を駆け抜けていく。百年に一度の、奇跡の夜。
「お父さん、毎年この日にここに来てたの。お母さんとの、約束だからって」
母の震える声が、星降る音に混じる。母もまた、父である祖父の約束を知っていた。そして今日、父の代わりにこの場所に来ていたのだ。
過去と現在が、光の映像と本物の流星雨が、僕たちの目の前で一つに重なる。時を超えて果たされた、愛の約束。僕と母は、言葉もなく空を見上げ、頬を伝う温かいものを止めることができなかった。
やがて流星雨が落ち着く頃、クロノグラフの光は完全に消え、ただの冷たいブリキの人形に戻っていた。でも、僕にはわかっていた。これはもう、ガラクタなんかじゃない。祖父の想いを、家族の絆を繋いでくれた、かけがえのない宝物だ。
帰り道、僕は母の隣を歩いた。ぎこちなかった僕たちの間に、今は確かな温もりが流れている。
「なあ、お母さん。僕、おじいちゃんの工房、継いでもいいかな」
見上げた母の顔は、星の光を浴びて、とても優しく微笑んでいた。僕の新しい物語が、今、始まろうとしていた。
クロノグラフの流星
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