ありふれたコンクリートの校舎と、退屈なチャイムの音。それが、俺、相田湊(あいだみなと)にとっての日常の全てだった。唯一の特技は、この迷路のように入り組んだ私立碧海(へきかい)学園の構造を、隅々まで記憶していること。無意味な特技だと思っていた、ついさっきまでは。
「これより、伝統の特別行事、全校オリエンテーリングを開始します!」
拡声器から響く生徒会長、七瀬玲(ななせれい)の凛とした声。彼女の完璧すぎる美貌と、氷のような冷静さに、全校生徒の視線が注がれる。優勝賞品は「一年間宿題免除権」。誰もが色めき立つ中、俺は欠伸を噛み殺していた。
「湊、行くぞ! 今年こそは俺たちが頂点だ!」
親友の健太に背中を叩かれ、俺は渋々スマホの専用アプリを起動した。地図上に最初のチェックポイントが表示される。多くの生徒が正面玄関から一斉に走り出すが、俺の目には違うルートが見えていた。
(中庭を突っ切り、美術準備室の脇にある通用口を抜ければ、三号館の渡り廊下に直結する。あそこなら五分は短縮できる)
頭の中の設計図が、最短経路を弾き出す。俺たちは誰も気づかない裏道を駆使し、驚くほどの速さでポイントを重ねていった。
「すげえよ湊! お前、ナビより正確だな!」
健太の賞賛もそこそこに、俺はふと、奇妙な光景を目にした。生徒会長の七瀬玲が、集団から離れ、一人で普段は施錠されている旧図書館の扉へ向かっていく。その動きには、競技を楽しむ様子など微塵もなかった。まるで、何か使命を帯びたエージェントのように。
好奇心は、時に退屈を殺す毒になる。俺は健太に「先に行っててくれ!」と叫ぶと、息を潜めて七瀬会長の後を追った。
軋む音を立てて開かれた旧図書館の扉。その奥は、カビと古い紙の匂いが充満する空間だった。彼女は巨大な書架の一つを、慣れた手つきで操作する。ゴゴゴ、と重い音を立て、書架が横にスライドすると、暗い地下へと続く螺旋階段が現れた。
(嘘だろ……こんな場所に……)
俺はゴクリと唾を飲み込み、後を追った。階段の先には、信じられない光景が広がっていた。壁一面に青白い光を放つ幾何学模様が刻まれた、巨大なドーム状の遺跡。中央の祭壇には、古びた羅針盤のようなオブジェが鎮座していた。
七瀬会長がそれに手を伸ばした、その瞬間だった。
「――ッ!?」
羅針盤が甲高い共鳴音を発し、眩い光を迸らせる。壁の回路が赤く染まり、空間そのものがゼリーのようにぐにゃりと歪んだ。目の前に、建設中の学園の幻が映り、次の瞬間には蔦に覆われた廃墟の未来が明滅する。
「まずい……『クロノ・コンパス』が暴走を……!」
七瀬会長が弾き飛ばされ、苦悶の声を上げる。「このままでは学園全体が、安定しない時間軸に飲み込まれる……!」
パニックになりかけた俺の脳裏に、閃光が走った。壁を走る赤い光の奔流。そのパターンは、俺がいつも頭の中で描いていた、学園の構造図――隠し通路や配管まで含めた「裏の設計図」と、寸分違わず一致していた。
「会長!」俺は思わず叫んでいた。「その光、止められるかもしれない! あれはエネルギーの回路だ! この学園の構造そのものが、暴走を抑制する装置になってるんだ!」
七瀬会長は驚愕に目を見開いたが、すぐに俺の瞳の奥にある確信を読み取ったようだった。「……あなた、何者なの?」
「ただの生徒だよ! でも、この学校の地図なら、全部頭に入ってる!」
彼女は一瞬だけ唇を噛み、そして決断した。「分かったわ。あなたに賭ける。あそこの制御盤に行って。私が指示する。いいえ……あなたが、指示して。私はあなたを守る!」
彼女が両手を前に突き出すと、淡い光のシールドが展開され、荒れ狂う時間の奔流から俺を守った。俺は制御盤に駆け寄り、目の前の無数のタッチパネルを見据える。これらは学園の各区画に対応している。どの順番でエネルギーを流せば、暴走は収まるのか。
頭の中の地図が、かつてない速度で回転する。旧図書館、理科実験棟、体育館裏のボイラー室、屋上の貯水槽……。点と点が繋がり、一本の美しい流れになっていく。これだ!
「第一系統、音楽室の床下から、第二体育倉庫へ! 次に第三系統を、旧校務員室の地下水路に接続!」
俺の指示に、七瀬会長が驚きながらも正確にエネルギーを誘導していく。暴走していた赤い光が、まるで飼い慣らされた獣のように、俺の示すルートを辿り始めた。時間の歪みが少しずつ収まっていく。
「最後は……あそこしかない!」
俺が指さしたのは、学園創立時に埋められたタイムカプセルのある、中庭のクスノキの真下。すべてのエネルギーの終着点。
俺が最後のパネルに触れた瞬間、地下遺跡を揺るがした振動が、ピタリと止んだ。赤い光は青い輝きに戻り、穏やかに壁の回路へと吸収されていく。羅針盤は静かに沈黙し、空間の歪みは完全に消え失せていた。
息を切らす俺の前に、七瀬会長が歩み寄る。その氷のようだった表情は、今は驚きと、ほんの少しの賞賛に彩られていた。
「ありがとう。あなたのおかげで助かったわ。それにしても……信じられない才能ね」
彼女はフッと息をつくと、悪戯っぽく微笑んだ。
「碧海学園へ、本当の意味でようこそ、相田湊君。私たちは、あなたのような『地図を描ける』人間を探していたの」
数日後。オリエンテーリングの結果、俺はぶっちぎりで優勝していた。だが、「宿題免除権」は、もはや色褪せて見えた。
放課後の教室。窓から差し込むオレンジ色の光の中、七瀬会長が俺の席にやってきた。彼女は小さな封筒を差し出す。
「これは、あなたへの本当の賞品よ」
中には、一枚のカードキー。そして、メモが一枚。
『放課後、生徒会室にて。新しい“部活動”への、正式な勧誘よ』
俺はカードキーを強く握りしめた。胸の高鳴りが止まらない。退屈だった日常が、音を立てて崩れ去っていく。
ここから始まるんだ。俺だけの、誰も知らない学園の冒険が。
碧海学園クロノス・ハント
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