彩陵学園と幻影のグラフィティ

彩陵学園と幻影のグラフィティ

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僕らが通う彩陵(さいりょう)学園の生徒は、全員が特殊能力者だ。
といっても、空を飛んだり、炎を出したりするような大層なものではない。思春期に発現するその力は「彩能(さいのう)」と呼ばれ、そのほとんどは「触れたものの温度を正確に言い当てる」とか、「半径三メートル以内の忘れ物の位置がなんとなくわかる」といった、日常を少しだけ彩る程度のものだ。

そして、僕、水無瀬湊(みなせみなと)の彩能は、控えめに言って呪いだった。

「音を視る」。それが僕の彩能だ。人の声、風の音、遠くで鳴るチャイム。あらゆる音が色と形を伴って、僕の視界に暴力的なまでに流れ込んでくる。だから僕は、ノイズキャンセリングヘッドホンが手放せない。静寂という名のシェルターに閉じこもり、カラフルなノイズの洪水から逃れるのが僕の日常だった。

そんな学園で、奇妙な事件が起き始めた。「幻影の落書き魔」の出現だ。
深夜、誰もいないはずの校舎の壁に、一夜にして巨大で美しいグラフィティアートが出現する。防犯カメラには何の痕跡も残っていない。まるで幽霊の仕業だと、生徒たちは噂した。透明人間の彩能か、はたまた空間転移か。そのミステリアスな事件は、退屈な学園生活の格好のスパイスとなり、皆をワクワクさせていた。

僕を除いては。

その日、事件は僕の聖域にまで侵食してきた。美術部の部室の壁、僕がいつも使っているイーゼルの真後ろに、幻影は現れた。渦を巻くような青と、星屑のような黄金で描かれた、巨大な翼。そのデザインは、僕がスケッチブックの隅に描き、誰にも見せたことのない空想の翼と瓜二つだった。
ぞわり、と背筋が粟立つ。誰かが僕の心の中を覗き、それを壁にぶちまけたような感覚。これはただの悪戯じゃない。

「――水無瀬くん、だよね?」
背後からの声に、僕はびくりと肩を揺らした。ヘッドホンをずらして振り返ると、そこにいたのは生徒会書記の朝比奈陽菜(あさひなひな)だった。太陽みたいな笑顔がトレードマークの、学園の人気者。僕とは住む世界が違う人間だ。
「生徒会で、この落書き事件を調べてるんだ。何か気づいたこと、ないかな?」
彼女の彩能は「嘘の匂い」。人が嘘をつくと、腐った果物のような甘ったるい匂いを感じるらしい。彼女の前では、誰も嘘をつけない。
僕は首を横に振る。「何も」
陽菜は僕の目をじっと見つめた。そして、ふわりと花の香りのような息を吐く。「うん、本当だね。匂いがしない」
彼女は壁の翼を見上げ、それから僕の顔を覗き込んだ。
「ねえ、水無瀬くん。あなたの彩能、『音を視る』んでしょ? あなたのその目でなら、何か特別なものが見えたりしない?」

最初は断った。これ以上、やっかいな色彩の世界に深く身を投じるなんてごめんだった。だが、陽菜は諦めなかった。僕のスケッチブックを偶然見てしまったこと、壁の翼が僕のものだと直感したことを打ち明け、真っ直ぐな瞳で僕に言った。
「犯人は、あなたの心を盗んだんだよ。悔しくないの?」
その言葉は、僕の心の硬い殻をいとも簡単に打ち砕いた。

僕は覚悟を決め、ヘッドホンを外した。
途端に、世界が爆発した。生徒たちの話し声が赤や黄色の矢となって飛び交い、廊下を駆ける足音が青い波紋となって広がる。体育館から聞こえるボールの音は、緑色の球体となって弾けていた。頭が割れそうだ。
「大丈夫!?」陽菜が僕の腕を支える。
「……平気だ」僕は歯を食いしばり、意識を集中させた。ノイズの奔流の中から、幻影が描かれた場所――中庭の壁、旧校舎の廊下、そしてこの美術室――に残る「音の残響」を探す。

そして、見つけた。
どの現場にも、共通の音が残っていた。それは、人間には聞こえないはずの高周波。ガラスの弦を指でなぞるような、か細く、しかし凛とした「歌」。それはまるで、壁そのものが歌っているかのようだった。

「犯人は、音を使ってる」
僕の言葉に、陽菜は目を見開いた。
僕らは、事件当日に現場近くにいた生徒たちに話を聞いて回った。陽菜が「嘘の匂い」で証言の真偽を確かめ、僕は彼らの声が放つ「色と形」を観察する。
そして、最後のピースがはまったのは、生徒会室だった。

そこにいたのは、品行方正、成績優秀、誰もが慕う生徒会長、橘一誠(たちばないっせい)だった。
「僕に何か?」彼は穏やかに微笑む。陽菜の鼻はぴくりとも動かない。彼は嘘をついていない。だが、僕には視えた。彼の声から放たれる音の粒子が、あの壁に残っていた「歌」と全く同じ、澄んだ白銀の色をしていたのだ。

「会長、あなたの彩能は?」
僕の問いに、橘会長の顔から笑みが消えた。
「……共鳴伝播。僕のイメージを、特定の周波数の音に乗せて、物質に転写する能力だ」
彼は全てを告白した。完璧な生徒会長を演じるプレッシャー。誰にも言えない創作への渇望。そのはけ口が、誰にも気づかれずにアートを描き出す「幻影の落書き」だった。僕のデザインを使ったのは、僕のスケッチブックに描かれた翼に、彼の心が激しく「共鳴」したからだという。

「君にだけは、気づかれたくなかった」
追い詰められた会長が叫んだ瞬間、彼の彩能が暴走した。白銀の「歌」が絶叫に変わり、生徒会室の壁、床、天井から、無数の黒い棘のようなアートが凄まじい勢いで生まれ、僕らに襲いかかった。

「きゃっ!」
陽菜の悲鳴。僕は彼女をかばいながら、自らの音を解き放った。
「会長の音は、綺麗だけど、悲しすぎる色だ!」
僕は叫んだ。ノイズの洪水の中で鍛えられた僕の集中力が、自分の喉から放つ声を、鮮やかな一つのイメージに収束させる。それは、静かで、どこまでも深い、夜明けの空のような「青い音」。
僕の青が、会長の黒い棘にぶつかる。音と音が視覚的に混ざり合い、黒は和らぎ、棘は丸みを帯びて花のように開いていく。絶叫の白銀は、僕の青と溶け合い、やがて校舎を覆い尽くそうとしていた歪なアートは、巨大で美しい一枚の協奏画へと姿を変えた。

静寂が戻った時、床に膝をつく橘会長の頬を涙が伝っていた。

事件はそれで幕を閉じた。会長は処分を受けたが、彼の描いたアートは学園の許可を得て、今も校舎の壁に残されている。「幻影のグラフィティ」は、彩陵学園の新たな伝説になった。

あの日以来、僕はヘッドホンを外す時間が増えた。隣を歩く陽菜の快活な声は、キラキラしたオレンジ色のシャボン玉みたいだ。世界は相変わらずうるさい。でも、その一つ一つの音に意味と彩りがあることを、僕は知ってしまった。

呪いだと思っていた僕の彩能は、誰かの心を救い、世界をほんの少しだけ美しく変えることができるのかもしれない。
空は青く、風は歌う。カラフルな喧騒に満ちたこの学園が、僕は少しだけ、好きになっていた。

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