君がいた光の残像

君がいた光の残像

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***第一章 ファインダー越しの幻***

高槻湊にとって、カメラのファインダーは世界との唯一の接点であり、同時に完璧な遮蔽物だった。写真部に籍を置きながら、彼がレンズを向けるのは決まって無人の風景。ざわめく教室、笑い声が響く廊下、そういうものから逃げるように、彼は放課後の校舎の片隅で、光と影が織りなす静寂だけを切り取っていた。

その日も、湊は旧校舎の三階、今は使われていない音楽室から中庭を見下ろしていた。秋の陽光が、色づき始めたケヤキの葉を透かし、地面に琥珀色のモザイク模様を描いている。完璧な構図だ。彼がそっと息を吸い込み、シャッターに指をかけようとした、その瞬間だった。

ファインダーの中に、ふわりと人影が入ってきた。

中庭の古いベンチに、一人の女子生徒が腰を下ろした。腰まで届くほどの、艶やかな黒髪。白いブラウスに、見慣れた制服のスカート。彼女は膝の上に広げた分厚い本に視線を落としており、その横顔は彫刻のように整っていたが、表情は読み取れない。

(誰だ……?)

湊の通う高校は全校生徒千人を超えるマンモス校だが、それでも三年間もいれば、大抵の顔は見覚えがある。だが、彼女には全く見覚えがなかった。まるで、今日初めてこの世界に現れたかのように、その存在は周囲の風景から浮き上がって見えた。

何かに憑かれたように、湊は彼女にピントを合わせる。風が彼女の髪を優しく揺らし、数本の髪が頬にかかる。その瞬間、彼女がふと顔を上げた。澄み切った瞳が、真っ直ぐにこちらを見ている。ファインダー越しに視線が絡み合った、と錯覚した。

心臓が跳ねる。湊は無意識のうちに、シャッターを切っていた。
カシャッ。
乾いた音が、静かな音楽室にやけに大きく響いた。

しまった、と思った。人を撮らないと決めていたのに。慌ててカメラを下ろすと、彼女はもう湊の方を見てはいなかった。再び本の世界に没入している。

罪悪感と、正体不明の好奇心に胸をざわつかせながら、湊はその場を立ち去った。だが、翌日も、その次の日も、彼女は同じ時間の同じベンチに現れた。まるで定点観測の被写体のように。湊は撮らないと心に誓いながらも、気づけばレンズを彼女に向けてしまう自分を止められなかった。

一週間が過ぎた放課後。湊がいつものように音楽室の窓辺に佇んでいると、背後で不意に声がした。
「あの、高槻くん」
振り返ると、そこに彼女が立っていた。息が止まる。いつの間にここに?
「私の写真、消してくれないかな」
彼女の声は、風鈴の音のように涼やかで、どこか儚げだった。
「どうして、僕が君の写真を……」
しらを切ろうとする湊の言葉を遮り、彼女は静かに続けた。
「私、写真には『写らない』はずだから。君のカメラは、特別みたいだね」

その言葉は、湊の日常を根底から覆す、謎めいた響きを持っていた。

***第二章 二人だけの書庫***

彼女の名前は、月白栞(つきしろしおり)といった。
「写らないはず、ってどういう意味なんだ」
湊の問いに、栞は困ったように微笑んだ。
「言葉の通りだよ。私は、ほとんどの人の目には映らない。認識されないの。まるで、空気か、壁のシミみたいなもの」
信じがたい話だった。だが、思い返せば、中庭で彼女の周りを通り過ぎる生徒たちは、誰一人として彼女に視線を向ける者はいなかった。まるで、そこにベンチしかないかのように。
「君だけなんだ。私をちゃんと見てくれたのは。……そして、写真に撮れたのも」

栞は湊に、自分の存在を秘密にしてほしいと頼んだ。誰にも知られず、静かに日々を過ごしたいのだと。湊は戸惑いながらも頷いた。この不思議な少女の秘密を共有しているという事実が、彼の心を奇妙に高揚させた。

二人の奇妙な交流は、図書館の奥にある古い書庫で続いた。そこは生徒たちの誰も寄り付かない、埃と古い紙の匂いが満ちる場所で、栞のお気に入りの隠れ家だった。湊は、いつしか風景ではなく、書庫の窓から差し込む光の中で本を読む栞の姿を、ファインダー越しに追いかけるようになっていた。

「どうして、人を撮らないの?」
ある日、栞が尋ねた。湊は言葉に詰まる。それは、彼自身が蓋をしてきた心の傷だった。
「……人を撮るのが、怖いんだ。僕のせいで、大切な人が……」
そこまで言って、口をつぐんだ。一年前の、あの雨の日の事故。写真部のコンテストに向かう途中、モデルになってくれた親友を撮った最後のショット。それが、彼女の生涯最後の写真になってしまった。シャッターを切った直後、交差点に飛び出してきた車。ファインダー越しに見た絶望の光景が、今も瞼の裏に焼き付いている。

「そっか」
栞は深く詮索せず、ただ静かに頷いた。その沈黙が、どんな慰めの言葉よりも湊の心を軽くした。
「だったら、私を撮ればいいよ」
栞は、ふわりと微笑んだ。「私は、ここにいるようで、いないんだから。君が怖いと思う『人』とは、少し違うでしょ?」

その日から、湊は正式に栞を被写体にした。栞は最初こそ硬かったが、湊の真剣な眼差しに応えるように、次第に自然な表情を見せるようになった。古書の森で微笑む姿、窓の外を眺める憂いを帯びた横顔、光の粒子の中で微睡む姿。湊のカメラは、その一つ一つを愛おしむように記録していく。

ファインダーを覗く時間は、もはや恐怖ではなかった。栞という存在を通して、世界が再び色鮮やかに見え始めた。彼女の存在の証明。それが、いつしか湊の写真のテーマになっていた。学園祭の写真コンテストが近づく頃、湊の心は決まっていた。栞の写真を、彼女が「ここにいる」証を、多くの人に見てもらおう、と。

***第三章 ここにいる君***

学園祭当日。展示スペースとなった廊下は、生徒たちの熱気でむせ返るようだった。湊は、人いきれをかき分けるようにして、自分の作品が展示された壁の前に立った。

一枚だけ、引き伸ばされた大きなパネル。
タイトルは『ここにいる君』。

それは、書庫の窓辺に座り、柔らかな光を浴びてこちらに微笑みかける栞の姿を捉えた、湊の最高傑作だった。写真の中の栞は、息を呑むほど美しく、確かな存在感を放っている。これを見れば、誰もが彼女の存在を認めざるを得ないはずだ。

だが、写真を見つめる生徒たちの反応は、湊の予想とは全く違うものだった。
「なあ、この写真、何が撮りたかったんだろうな?」
「ただの窓辺の写真……?でも、なんか、すごい惹かれるんだけど」
「誰かいるような気配がするのに、誰もいない。不思議な写真だね」

――誰も、いない?

湊の血の気が引いていく。何を言っているんだ。こんなにもはっきりと、栞が写っているじゃないか。彼は隣にいたクラスメイトの肩を掴んだ。
「おい、見えるだろ?この写真に写ってる、女の子が!」
クラスメイトは、怪訝な顔で湊を見た。
「高槻?何言ってんだよ。誰も写ってないぞ。綺麗な光の写真だけど」

世界から音が消えた。耳鳴りがする。パニックに陥る湊の肩を、そっと叩く人がいた。写真部の顧問で、心理カウンセラーの資格も持つ、斉藤先生だった。
「高槻くん、少し話をしようか」

先生に連れられてカウンセリング室に入った湊は、取り乱しながら訴えた。
「先生、みんなおかしいんです!栞は、月白栞は確かにいるんです!僕がずっと撮っていた……!」
斉藤先生は、悲しげな、それでいて慈しむような瞳で湊を見つめ、静かに口を開いた。
「高槻くん。一年前の事故のことを、覚えているかい?君の、たった一人の親友だった子の名前を」

雷に打たれたような衝撃が、湊の全身を貫いた。
忘れるはずがない。毎日、心の中で呼びかけていた名前。
「……あやの。相沢、彩乃だ」
「そうだね。じゃあ、彼女のこと、君はなんて呼んでいた?」

――栞。

その二文字が、脳内で閃光のように弾けた。そうだ、彼女の愛読書がいつも栞だらけだったから。自分だけの、特別な愛称。
「君が心を閉ざしてしまったのは、無理もないことだ。親友を失った喪失感と、自分が撮った写真が最後のものになってしまった罪悪感。君の心は、それらから自分を守るために、もう一人の『栞』を創り出したんだ。誰も認識できない、君だけに見える、理想の友達を」

月白栞。
それは、湊の孤独と悲しみが創り出した、あまりにも精巧な幻影だった。写真に「写らない」のではなく、最初から「いなかった」。ただ、湊のカメラだけが、彼の強い想いを光の残像としてフィルムに焼き付けていただけだったのだ。
「ああ……あ……」
声にならない嗚咽が漏れる。楽しかった日々、交わした言葉、二人だけの秘密の場所。そのすべてが、砂の城のように崩れ落ちていく。僕が話していたのは、僕がレンズを向けていたのは、一体、誰だったんだ?

絶望の淵で、湊はただ泣き崩れることしかできなかった。

***第四章 光の残像***

数日が過ぎた。湊は学校を休み、自室のベッドの上で抜け殻のようになっていた。カメラに触れる気力もなかった。ファインダーの向こうに広がっていた色鮮やかな世界は、今やモノクロームの悪夢に変わってしまった。

コンコン、とドアがノックされ、母親がそっと一枚の封筒を差し出した。学園祭の写真コンテストの結果通知だった。開ける気にもなれず、湊はそれを机の隅に放った。

さらに数日後、斉藤先生が家まで訪ねてきた。
「無理に来いとは言わない。だが、これだけは見てほしくてな」
先生が差し出したのは、一枚の写真。それは、コンテストに出した『ここにいる君』だった。
「君の作品は、金賞を受賞したよ」
「……意味がありません。誰も、写っていない写真なんて」
湊は力なく呟いた。
「そうかな」
先生は写真を湊の目の前にかざした。
「多くの生徒が、この写真に心を動かされた。『理由は分からないけど、涙が出そうになる』『大切な人を思い出した』……そんな感想ばかりだった。誰も見えていないかもしれない。でも、君が彼女を見ていた時間は、彼女を想っていた気持ちは、本物だったんだ。この写真には、君の心が写っている。だから、こんなに人の心を打つんだよ」

湊は、震える手で写真を受け取った。
確かに、そこには誰もいない。ただ、書庫の窓辺に、柔らかな光が満ちているだけだ。
しかし、その光は、信じられないほど温かかった。誰かがそこに座り、優しく微笑んでいた気配が、確かに宿っている。幻の栞がくれた、温もり。そして、その幻を生み出すほどに深く愛していた、本当の栞――彩乃への想い。それらがすべて、この光の中に溶け込んでいるように見えた。

涙が、写真の上にぽたりと落ちた。それは絶望の涙ではなかった。
幻だったとしても、栞との出会いが、自分を救ってくれたのは事実だ。彼女のおかげで、もう一度カメラを握り、人を撮る喜びを知った。閉ざされた心に、光を灯してくれた。

失ったものを取り戻すことはできない。だが、失ったものがあったからこそ、得られたものがある。

翌日、湊は久しぶりに制服に袖を通した。首からカメラを下げ、校門をくぐる。ざわめき、笑い声、様々な音が耳に飛び込んでくる。もう、それらは不快ではなかった。
彼は、写真部員の集まる中庭へ向かった。仲間たちが、心配そうに、そして温かく彼を迎える。
「高槻、大丈夫か?」
「……ああ」
湊は短く答え、カメラを構えた。ファイン-ダーの先には、仲間たちの笑顔があった。

カシャッ。

硬質で、けれど希望に満ちたシャッター音が、秋晴れの空に響き渡った。
ファインダーの中の笑顔は、もう幻じゃない。
君がいた光の残像を胸に、僕は今、ここにいる世界を撮り始める。

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