旧図書館のクロマティシズム

旧図書館のクロマティシズム

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柏木湊にとって、世界は耐え難いノイズで満ちていた。人の声、足音、ボールが跳ねる音、そのすべてが彼の網膜の上で汚らしい色彩のシミとなって爆ぜる。甲高い笑い声は毒々しいマゼンタに、囁かれる悪意は澱んだコールタールのような黒に。だから湊は、いつもヘッドフォンで耳を塞ぎ、世界の彩度を落として生きていた。分厚いフィルター越しでなければ、彼は正気でいられなかった。

高校二年の春。教室の隅、窓際の席が彼の定位置。そこから見える空の青だけが、唯一、彼の心を乱さない純粋な色だった。
「柏木、お前もなんか部活入れよ」
クラスメイトの声が、ヘッドフォンの隙間から侵入してくる。粘ついた黄緑色のインクが、湊の視界の端に飛び散った。彼は小さく首を振り、誰とも視線を合わせずに俯いた。孤独は、醜い色を見なくて済むための、彼の鎧であり、シェルターだった。

その日、古典のレポート課題で古い資料が必要になり、湊は仕方なく「旧図書館」へと足を運んだ。新校舎の隅に追いやられるようにして建つ、蔦の絡まる煉瓦造りの建物。生徒たちのほとんどが寄り付かないその場所は、シンと静まり返っていた。重い木製の扉を開けると、カビと古い紙の匂いが、彼の鼻腔を穏やかにくすぐる。そこは、ノイズのない世界だった。不快な色がどこにもない、セピア色の静寂。湊は、ここが少しだけ好きになった。

カウンターの奥に、一人の女子生徒が座っていた。長く艶やかな黒髪、白い肌。色素の薄い瞳が、静かに湊を捉える。
「何かお探しですか」
その声は、驚くほど滑らかで、夜明けの湖面に広がる波紋のような、澄んだ藍色をしていた。湊は初めて、人の声に美しい色を見た。
「あの、郷土史の……古い資料を」
「二階の奥です。ご案内しますね」
彼女は橘詩織、三年生の図書委員だと名乗った。詩織は湊の大きなヘッドフォンに一瞥をくれたが、何も尋ねることはなかった。その配慮が、乾いた心に染み渡るようだった。

それから湊は、放課後になると旧図書館に通うようになった。目的もなく書架の間を彷徨い、埃をかぶった本の背表紙を眺める。詩織はいつもカウンターで静かに本を読んでいて、時折、目が合うとふわりと微笑んだ。言葉を交わすことは少ない。だが、同じ静寂を共有する時間は、湊にとって何よりの慰めだった。

ある雨の日、湊は図書館の最も奥に、重厚な鍵がかけられた扉を見つけた。扉の隙間から、微かに何かが聴こえる。音、というよりは気配に近い。しかし、湊の目にははっきりと見えた。それは、溶かした純金のような、眩い光の粒子だった。今まで見たどんな色とも違う、神々しいほどの輝き。
「あの部屋は?」
カウンターの詩織に尋ねると、彼女は少しだけ目を伏せた。
「『開かずの間』。誰も入れないんです」
その声に、ほんのわずかに影のような色が混じるのを、湊は見逃さなかった。金色の音の正体が、彼の心を掴んで離さなかった。

文化祭が近づくにつれ、学園は狂騒的な色彩に包まれた。廊下を駆け回る生徒たちの歓声はけばけばしいオレンジに、バンドの練習が奏でる歪んだギターの音は、鋭い赤色の棘となって湊に突き刺さる。色の洪水が彼の許容量を超え、世界がぐにゃりと歪んだ。息が苦しい。頭痛がする。湊はたまらず教室を飛び出し、唯一の避難場所である旧図書館へと逃げ込んだ。

扉を開けると、詩織が心配そうな顔で立っていた。
「大丈夫?」
その優しい声色ですら、今の湊には乱反射する光の粒に見えてしまう。彼は壁に手をつき、喘ぐように言った。
「僕には……音に色が見えるんです」
堰を切ったように、言葉が溢れ出した。世界がどれほど醜い色で満ちているか。ノイズから逃れるために、どれほど心を殺してきたか。
「僕の世界は、めちゃくちゃなんです。壊れてる……」
詩織は黙って聞いていた。そして、すべてを話し終えた湊の前に立つと、静かに言った。
「壊れてなんか、ない」
彼女はポケットから一本の古びた鍵を取り出した。それは、『開かずの間』の鍵だった。
「来て」
導かれるまま、湊は重い扉の先へと足を踏み入れた。部屋の中央には、一台のグランドピアノが、月の光を浴びて静かに佇んでいた。
「これは、私の曾祖母のピアノです」
詩織はピアノにそっと触れながら語り始めた。彼女の曾祖母もまた、湊と同じように音に色を見る人だったこと。その感覚を誰にも理解されず、孤独の中で作曲を続けたこと。そして、このピアノだけが、彼女が遺した唯一の「本当の言葉」なのだと。
「お願い、湊くん。弾いてみてほしい。このピアノが、どんな色を奏でるのか……私に教えて」

湊は、震える指で鍵盤に触れた。ド、と鳴らした一つの音。それは、一点の曇りもない、澄み切った空の青色をしていた。彼の内側から、何かが湧き上がってくる。彼は弾き始めた。即興のメロディ。幼い頃に感じた悲しみは深い藍色の川となり、詩織と出会った時の穏やかな喜びは輝く檸檬色の光となって舞う。彼の内面に渦巻いていた混沌とした感情が、次々と美しい色彩のハーモニーへと変わっていく。
醜いノイズだと思っていた世界が、彼自身の指先から、秩序だった美しい光景として再構築されていく。メロディがクライマックスに達した時、すべての色が混ざり合い、夜明けの空にかかる壮大な虹となって部屋中を満たした。
演奏を終えた時、湊の頬を涙が伝っていた。それは、温かい色をしていた。
詩織は、その幻想的な光景に息を呑み、涙ぐみながら、静かに拍手を送った。
「……きれい。ありがとう。曾祖母も、きっとこんな世界を見ていたのね」

翌日、湊はヘッドフォンを外さなかった。けれど、それは耳を塞ぐためではなく、首にかけるためだった。まだ、世界のノイズは怖い。でも、ポケットの中には、詩織から託された旧図書館の合鍵が、確かな重みをもって入っている。彼には、自分の色で、自分の音楽を奏でられる場所がある。
教室の窓から差し込む光が、いつもより少しだけ、鮮やかに見えた。世界の片隅で、小さなメロディが生まれようとしていた。

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