時鐘学園のラスト・リグレット

時鐘学園のラスト・リグレット

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僕たちの通う私立時鐘(じしょう)学園には、一つの古くさい伝説がある。
一年に一度、創立記念日の夜だけ、校舎のどこかに『過去の扉』が現れる。その扉に触れた者は、人生で最も後悔している瞬間に一度だけ戻ることができる、と。

「馬鹿げてる」
創立記念日を三日後に控えた放課後、僕は図書館の窓から夕日に染まるグラウンドを眺めながら呟いた。隣で分厚い郷土史のページを必死にめくっている幼なじみ、水瀬遥(みなせはるか)には聞こえなかったらしい。
「拓海(たくみ)、こっちの文献にも載ってた!『扉は最も孤独な場所に、月の光を浴びて現れる』だって!」
「それ、先週読んだオカルト雑誌の受け売りだろ」
「違うもん!これは学園の百年史!」
遥が突きつけてきた本のページは黄ばみ、インクは掠れていた。確かに、そこには古風な文体で扉の伝説が記されている。だが、僕に言わせれば、それは生徒の興味を引くために学園が作ったおとぎ話に過ぎない。

遥がこんなにも伝説に固執するのには理由があった。一年前のピアノコンクール。最終選考に残った僕は、本番直前に遥が差し出した水を飲んだ。その直後、激しい腹痛に襲われ、結果は散々だった。ただの偶然。僕はそう割り切ったが、遥は自分のせいだと信じ込んで、あの日からずっと心を痛めている。

「もし、あの日に戻れたら……」
そう呟く遥の横顔は、いつも太陽のように笑う彼女からは想像もつかないほど、儚く見えた。だから僕は、彼女の馬鹿げた『扉探し』に文句を言いつつも、こうして付き合ってしまっているのだ。

「そんなものに頼らなくても、次のコンクールで優勝すればいいだけの話だ」
「でも……!」
遥が何かを言いかけた時、僕らの背後にすっと影が落ちた。
「面白い話をしているね。僕も混ぜてくれないか」
声の主は、一週間前に転校してきたばかりの月城蓮(つきしろれん)。色素の薄い髪と、全てを見透かすような蒼い瞳が印象的な男だ。彼は僕たちの前の椅子に音もなく腰掛けると、テーブルの上の百年史に目をやった。
「『過去の扉』か。君たちも探しているんだな」
まるで、他にも探している人間がいるかのような口ぶりだった。
「別に。こいつが勝手に騒いでるだけだ」
僕がぶっきらぼうに答えると、月城は僕の目をじっと見つめた。
「本当に?君にだって、消し去りたい後悔の一つや二つ、あるんじゃないか?」
彼の言葉に、心の奥が小さく軋んだ。僕にだってある。遥には言えない、僕だけの後悔が。だが、それを認めることは、遥の責任を肯定することに繋がる気がして、僕は首を横に振った。

創立記念日の夜。学園祭の後片付けも終わり、生徒たちがほとんど帰路についた頃、僕と遥は校舎に残っていた。月城も、なぜか僕たちと行動を共にしていた。
「『最も孤独な場所』って、どこだと思う?」
遥の問いに、僕は一つの場所を思い浮かべていた。旧校舎の屋上にある、今はもう使われていない時計台だ。学園の誰もが忘れ去った、孤独な場所。
「行ってみるか」
僕の提案に、遥はこくりと頷いた。

錆びた螺旋階段を上り、時計台の内部に足を踏み入れる。埃っぽい空気の中、巨大な歯車が静寂を守っていた。そして、文字盤の裏側、床に嵌め込まれた円窓から、満月が青白い光を投げかけていた。
その光が床に円を描いた、まさにその瞬間だった。
空間がぐにゃりと歪み、光の円の中に、古い木製の扉が音もなく現れた。彫刻が施された重厚な扉。伝説は、真実だったのだ。
「あった……!」
遥が歓喜の声を上げ、震える足で扉へと歩み寄る。彼女の白く細い指が、真鍮のドアノブに伸びていく。
その時だった。
「待て!」
鋭い声で制止したのは、月城だった。彼は遥の腕を掴み、その瞳には今まで見せたことのない真剣な光が宿っていた。
「その扉を開けてはいけない。代償が大きすぎる」
「代償……?大切な記憶を失うってことでしょう?それでも私は……!」
「違う!」月城は叫んだ。「失うのは、ただの記憶じゃない。『未来の最も大切な可能性』そのものだ!」
彼の言葉に、僕と遥は息を呑んだ。
「扉を使った者は、過去を修正する代償に、未来で得るはずだった最も輝かしい幸福を失う。友情、愛情、夢……君がこれから手にするはずだった、かけがえのない何かをね」
月城は静かに続けた。
「僕も……かつてこの扉を使った。幼い頃に亡くした妹を助けるために。結果、妹は助かった。だが、僕の未来から『誰かを愛する』という感情がごっそりと抜け落ちてしまった。どんなに素晴らしい人に出会っても、心が動かないんだ」
衝撃の告白だった。彼は、未来から来た監視者でも、オカルトマニアでもなかった。ただの、孤独な経験者だったのだ。

遥は立ち尽くしていた。その瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
「そんな……じゃあ、私は……拓海との未来を……?」
そうだ。彼女が失うのは、僕との未来の可能性かもしれない。共に笑い、支え合い、同じ音楽を愛する未来。その全てが、たった一度の過去改変で消えてしまうというのか。

僕は、震える遥の肩を抱き寄せた。
「遥。俺は、あのコンクールの一件を後悔なんてしてない。むしろ、あれがあったから、お前の大切さに気づけた。腹痛の原因は、前日に食った激辛ラーメンだ。多分」
僕の精一杯の冗談に、遥は泣きながら小さく噴き出した。
「お前が後悔している過去も、今の必死な顔も、全部含めてお前なんだ。そんな未来を失ってまで、過去に戻るな。俺は、これからの遥と一緒にいたい」
僕の言葉に、遥は嗚咽を漏らしながら頷いた。彼女が扉から手を離すと、まるで役目を終えたかのように、扉は月光の中に静かに溶けて消えていった。

「それでいい」
月城が穏やかに微笑む。その顔は、少しだけ救われたように見えた。

伝説の夜が終わり、僕たちの日常が戻ってきた。月城は相変わらず掴みどころのない転校生のままだが、時折僕たちに混ざって馬鹿話をするようになった。
そして僕と遥は、もう過去を振り返らない。あの日、時計台で失いかけた未来を、これからは二人で大切に紡いでいく。
時鐘学園の鐘が、新たな一日の始まりを告げていた。僕たちの、後悔のない未来の始まりを祝福するように。

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