***第一章 沈黙の訪問者***
神保町の裏路地にひっそりと佇む古書店「時雨堂」。その店主である水島健太は、埃とインクの匂いが染みついた静寂の中で、本の背表紙を眺めるのが日課だった。両親を幼い頃に事故で亡くし、無口な祖父に育てられた彼は、人付き合いが苦手で、この古書の世界だけが唯一の安息の地だった。
その平穏な日常に、奇妙な波紋が立ち始めたのは半年前のことだ。毎週水曜日の午後三時、店の古びた扉が軋み、決まって一人の老婆が姿を現す。背の低い、上品な佇まいの老婆は、店内を一瞥するでもなく、まっすぐに店の奥にあるガラスケースへと向かう。
彼女の目当てはいつも同じだった。手書きの装丁が施された、一冊の古い童話集。『星屑の舟』。それは、健太の祖父が亡くなる間際に、「これだけは、絶対に誰にも売るな」と固く言い遺した、たった一冊の非売品だった。
老婆はガラスケースの前に立つと、ただじっと、その本を見つめる。そして、おもむろに健太の方を向き、震える指で本を指差すのだ。その眼差しには懇願の色が浮かんでいるが、言葉はない。
「申し訳ありません。これは売り物ではないんです」
健太が何度目になるか分からない台詞を口にすると、老婆は小さく頷き、何も言わずに店を出ていく。その背中は、秋風に舞う枯れ葉のように頼りなかった。
最初はただの物好きな老人だと思っていた。しかし、雨の日も風の日も、毎週欠かさず繰り返されるその沈黙の訪問は、健太の心に少しずつ、しかし確実に、無視できない棘となって突き刺さっていった。なぜこの本なのか。この老婆は、祖父と何かしらの関係があるのだろうか。祖父は自身のことをほとんど語らない人だった。健太にとって、祖父は分厚い本のように、開かれることのない謎の存在だった。
そして、ある水曜日、彼女は来なかった。午後三時を過ぎ、四時になり、閉店の時間を迎えても、あの静かな訪問者は現れなかった。安堵するはずの心に、ぽっかりと穴が空いたような、奇妙な喪失感が広がっていた。
***第二章 栞の中の面影***
老婆が来なくなって一週間が過ぎた。時雨堂の静寂は元に戻ったはずなのに、健太の耳には、あの軋むドアの音が幻聴のように響いていた。彼はついに、ガラスケースから『星屑の舟』を取り出した。
ざらりとした手触りの表紙には、銀色のインクで夜空と一艘の小舟が描かれている。祖父の手によるものだろうか。ページをめくると、色褪せた紙の上に、優しいタッチの挿絵と、今は使われない古い活字が並んでいた。ありふれた、少年が星の海を冒険する物語。
読み進めるうちに、健太はいくつかのページに、鉛筆で書かれた小さなメモ書きが残されていることに気づいた。「この花の名は、忘れな草」「彼女の好きなコバルトブルーの空」。それは、間違いなく祖父の筆跡だった。無口で、感情を表に出すことのなかった祖父の、知られざる一面がそこにはあった。まるで、大切な何かを忘れないように、必死に書き留めたかのような、切実な響きがあった。
物語の最後のページ。主人公が故郷の港に帰り着く場面で、一葉の写真がはらりと床に落ちた。セピア色に変色したその写真には、軍服を着た若き日の祖父と、その隣で、はにかむように微笑む一人の若い女性が写っていた。風に揺れるワンピース、優しげな目元。健太は息を呑んだ。その顔には、毎週店を訪れていたあの老婆の面影が、はっきりと残っていた。
心臓が大きく脈打った。祖父と彼女は、知り合いだったのだ。それも、ただの知り合いではない。写真の中の二人は、未来を夢見る恋人そのものの空気をまとっていた。
なぜ、祖父は彼女のことを一言も話さなかったのか。なぜ、彼女はこの本を求め続けたのか。そして、なぜ祖父は「売るな」と遺言したのか。謎は解けるどころか、さらに深く、健太の心を掴んで離さなかった。彼は、この物語の続きを知らなければならないと強く感じた。それはもはや、ただの好奇心ではなかった。
***第三章 星屑の約束***
健太は行動を起こした。近所の古い写真館の主人や、祖父の代からの常連客に、写真を見せて尋ねて回った。そして、数日後、老婆の名前が「藤宮千代」であること、そして彼女が住んでいた古いアパートの場所を突き止めることができた。
震える手でアパートの呼び鈴を押すと、中から現れたのは、四十代くらいの落ち着いた雰囲気の女性だった。健太が事情を話すと、女性は彼を静かに部屋へと招き入れた。
「母は、先日亡くなりました。眠るように、穏やかな最期でした」
女性は、千代の一人娘だという。彼女の口から語られたのは、健太の想像を遥かに超える、切ない愛の物語だった。
若き日の祖父、壮介と千代は、深く愛し合い、将来を誓い合った婚約者だった。時雨堂はもともと壮介の実家で、二人はそこでよく会っては、『星屑の舟』を一緒に読むのが何よりの楽しみだったという。しかし、戦争が二人を引き裂いた。戦地へ赴いた壮介は、頭に怪我を負い、戦後、故郷に戻ってきたときには、記憶の一部を失っていた。それは、千代に関する記憶、そのすべてだった。
「母は必死に父に呼びかけました。でも、父は母を、まるで知らない人を見るような目で見ていたそうです」
壮介は、自分の記憶にぽっかりと空いた穴を埋めることができず、苦しんだ。その後、別の女性、つまり健太の祖母と出会い、結婚した。千代は、愛する人の幸せを願い、静かに身を引いた。生涯、独身を貫き、一人娘を育て上げた。
そして晩年、千代はアルツハイマー病を患った。新しい記憶から失われ、過去へと遡っていく病。皮肉なことに、彼女の記憶の中で最後に、そして最も鮮明に残ったのは、壮介と過ごした若き日の思い出だった。
「母は、記憶が混濁する中で、唯一の確かな場所として、あの古書店に通っていたんです。壮介さんと過ごした、思い出の場所へ。あの本を買いに来ていたのではありません。あの本が、あの場所にまだあることを確認しに行くことで、自分の記憶が、壮介さんとの愛が、確かに存在したのだと、自分自身に言い聞かせていたのです」
健太は言葉を失った。あの沈黙の訪問は、薄れゆく記憶の縁で、愛の証を確かめるための、切実な巡礼だったのだ。祖父は記憶を失っても、無意識の奥底で、この本だけが持つ特別な意味を感じ取っていたのかもしれない。「売るな」という言葉は、失われた記憶の、最後の欠片を守るための叫びだったのだ。
無口で不器用だと思っていた祖父。その心の奥底には、忘れてしまってもなお消えない、深い愛情が眠っていた。その事実が、津波のように健太の胸に押し寄せ、熱いものが込み上げてきた。
***第四章 時雨堂の夜明け***
健太は時雨堂に戻ると、もう一度、『星屑の舟』を手に取った。それはもはや、ただの古い童話集ではなかった。戦争に引き裂かれ、記憶に翻弄されながらも、確かに存在した二人の人間の、愛の物語そのものだった。
翌日、健太は『星屑の舟』を丁寧に布で包み、再び千代のアパートを訪ねた。
「これを、お母様のもとへ」
娘に本を差し出すと、彼女は驚いたように目を見開いた。
「でも、これはあなたのお祖父様の大切な…」
「これは売り物ではありません。だから、誰かに売ることはできません。でも、本来あるべき場所へお返しすることはできます。この舟は、長い旅を終えて、ようやく港に帰り着いたんです」
娘の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。彼女は深く頭を下げ、震える声で「ありがとうございます」と何度も繰り返した。
数日後の朝、健太は時雨堂の雨戸をすべて開け放った。いつもは薄暗い店内に、朝の柔らかい光が差し込み、埃がきらきらと舞い踊る。彼は店の窓も開け、新しい風を招き入れた。それは、今まで固く閉ざしていた彼自身の心を開く、小さな儀式でもあった。
カラン、とドアベルが鳴った。若いカップルが、楽しそうに話しながら店に入ってくる。
「いらっしゃいませ」
健太が発した声は、自分でも驚くほど、自然で、少しだけ温かい響きを持っていた。
祖父と千代の物語は、誰にも知られずに終わるはずだった小さな物語だ。しかし、その物語を知ったことで、健太の世界は確実に変わった。人と関わることの温かさ、目に見えない繋がりの尊さ。彼の心の中には今、一つの小さな星屑が灯っている。それは、過去から未来へと受け継がれていく、切なくも美しい、希望の光だった。時雨堂に、新しい夜明けが訪れようとしていた。
星屑の舟を待つひと
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