鋼鉄のノクターン

鋼鉄のノクターン

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リクの指が叩くのは、もはや音楽ではなかった。正確無比な鍵盤の打刻音。それを聴きながら、父は冷たく言い放った。
「魂がないな。まるで機械だ」
その一言が、リクの胸に深く突き刺さった。父は有名な指揮者だった。その息子である自分に、父は完璧以上の何か――魂を求めた。だが、リクにはそれが何なのか分からなかった。

悔しさと苛立ちに任せて家を飛び出し、降りしきる雨の中をあてもなく走った。たどり着いたのは「ガラクタの谷」と呼ばれる市の廃棄物集積所。錆びた機械部品や旧式の家電が、巨大な墓標のように積み上がっている。
その山の麓に、それはあった。
雨に打たれ、泥にまみれた一体のヒューマノイド。片腕は無惨にもぎ取られ、胸の装甲は割れていた。けれど、なぜかリクはその場を動けなかった。そのロボットの、静かに閉ざされた瞳が、何かを訴えかけているように思えたからだ。

リクは我知らず、そのロボットを家に運び込んでいた。祖父が遺したガレージで、埃をかぶった工具を手に取る。何日もかけて泥を落とし、配線を繋ぎ直し、壊れた装甲を磨き上げた。
そして、電源を入れた瞬間。奇跡が起きた。
ロボットの胸の小さなディスプレイに、かすかな光が灯ったのだ。
『ARMA』
そして、その下に途切れ途切れの楽譜が表示された。リクは吸い寄せられるように母屋のピアノに向かい、そのメロディを弾いてみた。拙い演奏だったが、弾き終えた瞬間、ガレージから「ピコン」という電子音が聞こえた。
慌てて戻ると、アルマのディスプレイに、にっこりと笑う顔文字が表示されていた。
「君、音楽が分かるのか……?」
アルマは言葉を話さない。けれど、その日から二人の対話が始まった。リクがピアノを弾くと、アルマはディスプレイに様々な楽譜や記号を表示して応える。それは、リクが学校で習うような音楽理論ではなかった。
『もっと速く! 稲妻のように!』
『ここは静かに。夜の湖に落ちる雫の音を』
文字や絵で示されるアルマのレッスンは、まるで詩のようだった。アルマは、かつて伝説のピアニスト、クロード・シュタインの伴奏者として作られた、感情表現に特化した旧式の音楽ロボットだったのだ。
リクは夢中になった。父に言われた「魂」の意味が、少しだけ分かる気がした。楽しい、悲しい、嬉しい。その気持ちを音に乗せること。アルマと過ごすうちに、リクのピアノは機械の打刻音から、確かな熱を帯びた音楽へと変わっていった。

「そんなガラクタにうつつを抜かして。コンクールはどうするんだ」
父は、リクがアルマを修理していることを快く思わなかった。
「出るよ。アルマと一緒に」
リクは宣言した。この街で最も権威のある「ネオ・クラシック・コンペティション」。前代未聞の、人間と片腕のロボットによる連弾での挑戦だった。リクが右手パートを、アルマが残された左腕で左手パートを弾く。
周囲は嘲笑した。だが、リクは揺らがなかった。アルマとの音楽を、世界に聴かせたかった。

そして、決勝の日。
ホールは静まり返り、スポットライトが二人を照らす。リクの隣で、磨き上げられたアルマが静かに佇んでいた。
曲は、アルマがかつてクロード・シュタインと奏でたという「星屑のプレリュード」。
リクの右手が、星の瞬きのように繊細なメロディを紡ぎ出す。それに呼応するように、アルマの左手が、夜空の深さを示すような重厚な和音を奏でた。
人間と機械。その垣根を越えた完璧な調和に、聴衆は息をのんだ。客席の父が、固い表情のまま身を乗り出すのが見えた。
いける。僕たちの音楽は、届いてる――!
リクが高揚した、その瞬間だった。
曲がクライマックスに差し掛かった時、アルマの全身のランプが激しく明滅し始めた。ディスプレイにノイズが走る。
「アルマ!?」
悲鳴のようなリクの声と同時に、プツン、と音がして、アルマの全ての光が消えた。左手パートの音が、ぴたりと止む。
ホールが絶望的な静寂に包まれた。演奏中断。失敗だ。
リクの頭が真っ白になる。だが、その時、彼の脳裏に、機能停止する直前のアルマのディスプレイに映っていた映像が蘇った。それは、いつもの、にっこり笑う顔文字だった。
――最後まで、君の音を信じてる。
そう言われた気がした。
リクは、ぐっと奥歯を噛みしめた。終わらせない。終わらせるものか。
次の瞬間、リクの右手が鍵盤の上を爆発するように駆け巡った。止まってしまった左手パートのメロディを即興でアレンジに加え、超絶技巧で一人二役の演奏を始めたのだ。
それは、楽譜にはない、魂の叫びだった。
アルマへの感謝。音楽への愛。絶対に諦めないという意志。リクの全てが、奔流となって鍵盤から溢れ出す。一音一音が、熱い生命を持ってホールを満たしていく。

演奏が終わった。
一瞬の静寂。そして、地鳴りのような拍手がホールを揺るがした。スタンディングオベーション。観客の誰もが涙を流していた。リクの目から見えた父は、その両手で顔を覆っていた。

結果は、優勝ではなかった。「最も聴衆の心を揺さぶった演奏者に」として、特別賞が贈られた。
楽屋に戻ったリクは、動かなくなったアルマをそっと抱きしめた。
「ありがとう、アルマ。君のおかげだ。僕の音、やっと見つかったよ」
その時だった。
沈黙していたアルマの胸のディスプレイに、最後の力を振り絞るように、かすかな光が灯った。
そして、たった一言、表示された。

『...RIKU』

それは、アルマが初めて表示した、リクの名前だった。
涙が頬を伝う。でも、リクは笑っていた。彼の本当の音楽は、まだ始まったばかりなのだから。

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