星降る夜のシンフォニア

星降る夜のシンフォニア

3
文字サイズ:

相葉律の世界は、いつだって音で彩られていた。ドアの軋む音は錆びたオレンジ色、雨だれの音は透明な青色のビーズ、人々の話し声は無数の色の糸が絡み合うタペストリー。彼は、音を色として「見る」共感覚の持ち主だった。

その特異な感覚は、彼に豊かな音楽的才能を与えたが、同時に深い孤独ももたらした。誰も彼と同じ世界を見ることはない。その寂しさを埋めるように、律は放課後になると決まって、丘の上に立つ古びた天文台へ通っていた。今はもう使われていないその場所は、彼の聖域だった。

ある日、ドーム状の観測室で彼がいつものようにポータブルキーボードを弾いていると、不意に人の気配がした。そこに立っていたのは、同じ制服を着た少女だった。凛とした横顔、静寂を纏ったような佇まい。水瀬静。クラスは違うが、名前は知っていた。

律は慌てて演奏をやめた。「ご、ごめん。うるさかった?」

静はゆっくりと振り返り、律の口の動きを読むと、小さく首を横に振った。そして、ポケットから取り出したメモ帳に、さらさらと文字を綴る。

『聞こえないから大丈夫。ここの静けさが好きなの』

その瞬間、律は理解した。彼女の世界には、音がないのだと。色で溢れる自分の世界とは正反対の、完全な静寂の世界。それなのに、彼女の瞳は不思議なほど澄みきっていた。律は、音のない世界に立つ彼女の強さに、どうしようもなく心を惹かれた。

「俺の音、君に届けたい」

衝動的に口から出た言葉だった。静は少し驚いたように目を見開いたが、やがて困ったように微笑んだ。律は本気だった。自分の見ているこの色鮮やかな音の世界を、どうにかして彼女に伝えたい。伝えなければならない。

その日から、律の挑戦が始まった。彼は科学部の旧友である健太を巻き込み、とんでもない計画を打ち明けた。「音を、光に変えるんだ。俺が見ている色と、まったく同じ光に」

健太は最初、SF映画じゃあるまいしと笑っていたが、律の真剣な眼差しに根負けした。二人の秘密のプロジェクトが、天文台で始まった。古いプロジェクター、音響センサー、大量のケーブル。夜な夜なハンダごてを握り、プログラムを書き換える日々は、まるで秘密基地を作る子供のようにワクワクするものだった。

数週間後、試作品が完成した。律がキーボードを弾くと、鍵盤の音に反応して色とりどりの光が壁に投影される。しかし、それはただの光の明滅に過ぎなかった。

静を呼び、披露する。彼女は光の点滅を静かに見つめていたが、その表情は動かない。メモ帳には、優しい言葉が書かれていた。

『きれい。ありがとう』

だが、律には分かった。届いていない。彼の見ている、感情が爆発するような色の洪水は、そこにはなかった。ただの技術的な変換ではダメなのだ。焦りと無力感が、律の心を蝕んでいく。何が足りないんだ?

答えは、意外なほど近くにあった。ある夜、月明かりの下で静が、かつてバレエを踊っていたことを知った。音を失って、踊ることもやめてしまったのだと。彼女は寂しそうに、でもどこか懐かしむように、星空の下でつま先を立てる真似をした。

その姿を見た瞬間、律の中で何かが弾けた。そうだ。俺が届けたいのは、単なる音じゃない。音に乗せた「心」そのものだ。喜び、悲しみ、そして、今この胸に溢れている静への想い。それを色に変換しなければ意味がない。

律は、最後の調整に取り掛かった。楽譜を捨て、自分の内側から湧き上がるメロディだけを信じた。一つ一つの音に、静との出会い、彼女の笑顔、共に過ごした時間の輝きを織り込んでいく。

そして、満月の夜。律は静を再び天文台へ招いた。
「今夜、君のためだけに演奏会を開く」

静が中央に立つと、律は深呼吸をして、鍵盤に指を置いた。

最初の音が鳴る。それは、夜明けの空を思わせる、淡く柔らかなピンク色の光となって、ドーム状の天井に広がった。続くメロディは、無数の星屑のような金色の粒子となり、天井を駆け巡る。律の感情が高ぶるにつれて、光は激しさを増し、青い悲しみは深い河となり、燃えるような赤い喜びはオーロラとなってドーム全体を包み込んだ。

それはもはや単なる光ではなかった。感情の波であり、壮大な物語だった。律の魂そのものが、シンフォニアとなって空間を満たしていた。

静は、息を飲んでその光景を見上げていた。彼女の耳に音は届かない。だが、光のうねり、色の変化が、音楽の鼓動を、リズムを、そして律の想いを、確かに彼女の心に伝えていた。

不意に、静の体がふわりと動いた。導かれるように腕を伸ばし、ゆっくりとターンをする。一歩、また一歩。それは、音を失って以来、封印していたはずのバレエだった。彼女は光のオーケストラの中で、舞っていた。星降る夜のシンフォニアに身を任せ、歓喜に満ちた表情で踊り続ける。

律の指から紡がれる光と、静の体から生まれる光の軌跡が、観測室の中で一つに溶け合っていく。言葉はいらない。音もいらない。二人の魂が、光を通して完璧な対話をしていた。

やがて、最後の一音が静寂と共に光の残滓となり、消えていく。しばしの沈黙。律の荒い息遣いだけが響く。

静が、涙に濡れた頬のまま、律に向き直った。そして、震える指で、ゆっくりと手話を紡いだ。

『聞こえたよ。全部。君の心の色が、すごく、すごく綺麗だった』

律の目からも、一筋の涙がこぼれ落ちた。届いたのだ。音のない世界と、色に満ちた世界が、今、確かに繋がった。星々の見守る古い天文台で生まれた小さな奇跡は、二人だけの、しかし何よりも雄弁な「感動」のシンフォニアだった。

TOPへ戻る