江戸の片隅に、神業と謳われる絡繰師がいた。名を源内(げんない)という。表向きは子供らに玩具を売る好々爺だが、その真の腕は、大名屋敷の秘密の仕掛け扉から、劇場の宙乗り装置まで、およそ「動くもの」なら何でも作り上げるというものだった。
「源内殿、お頼み申す」
ある月夜、源内の工房を訪れたのは、朽木(くつき)藩の若き家老、橘右京(たちばana うきょう)と名乗る涼やかな目の侍であった。
用件は、藩の財政を牛耳る悪徳商人、但馬屋(たじまや)の屋敷に忍び込み、不正の証拠である「裏帳簿」を盗み出すこと。
「お断りだ。儂は人を欺き、傷つけるための道具は作らん」
源内は、作りかけの木彫りの鳥を置き、きっぱりと断った。彼の絡繰は、人を喜ばせるためにある。それが信条だった。
しかし、右京は静かに語った。但馬屋の私利私欲のために年貢は吊り上げられ、朽木藩の民は飢えている。明日をも知れぬ命が、この江戸にも流れてきているのだと。
「我らが求めるは、血ではない。裁きのための証のみ。どうか、あなたの力で、無辜の民を救ってはくれまいか」
右京の目に宿る真摯な光に、源内の心が揺れた。工房の外で聞こえる子供たちの屈託のない笑い声が、やけに胸に沁みた。
「……誰も、死なせん。斬らせん。一滴の血も流させん。それがお守りなされるなら、この源内、知恵を貸しましょう」
かくして、前代未聞の「無血の盗み」が計画された。
源内に引き合わされたのは、朽木藩が抱える忍び、くノ一の茜(あかね)であった。黒装束に身を包んだ、野生の獣のような鋭い目をした女だ。
「こんな爺の作った玩具で、あの但馬屋の屋敷に忍び込めると? 笑わせる」
茜は、源内が差し出した道具の数々を鼻で笑った。
「これは『蜘蛛手(くもで)』。膠(にかわ)を塗った吸盤で、音を立てずに壁を登れる。こっちは『眠り蝉(ねむりぜみ)』。羽音に似せた微かな音と共に、人を深く眠らせる香を放つ。そしてこれは……」
源内は構わず、一つ一つの絡繰を説明していく。茜は半信半疑だったが、その精巧な作りに次第に言葉を失っていった。人を殺傷するためではなく、ただ眠らせ、欺き、出し抜くためだけに磨き上げられた技術。それは、茜がこれまで生きてきた裏の世界とは全く異なる光を放っていた。
決行は三日後の新月。
闇が江戸を飲み込んだ頃、茜は但馬屋の屋敷を囲む高い塀の前に立った。源内は少し離れた物陰で、茜の持つ小さな耳当てに繋がる伝声管を握りしめている。
「まずは塀だ。蜘蛛手を使え。慌てず、ゆっくりと吸盤を押し当てるんじゃ」
源内の落ち着いた声が、茜の耳に届く。茜は指示通り、蜘蛛手を壁に当てた。驚くほど静かに、そして強力に吸着し、彼女の身体を闇の中へと持ち上げていく。
屋敷の庭には、踏むと警鐘が鳴る「鳴子砂利」が敷き詰められていた。
「軒下を伝え。屋根裏に抜ける道があるはずだ。儂の作った『浮雲足袋(うきぐもたび)』なら、瓦一枚鳴らさん」
茜は、まるで猫のように音もなく屋根を渡り、屋根裏への小さな入り口を見つけ出した。中は埃と闇の世界。そこかしこに、侵入者を捕らえるための罠が仕掛けられているのが気配でわかる。
「右へ三歩、左へ二歩。そこに板がある。それを持ち上げろ」
源内は、事前に右京から手に入れた屋敷の見取り図を元に、寸分の狂いもなく茜を導く。まるで、源内自身がその場にいるかのようだ。茜は、この老獪な絡繰師に、いつしか全幅の信頼を寄せていた。
幾重にも張り巡らされた罠を、源内の奇想天外な絡繰が次々と無効化していく。巡回する番人の足音を察知すれば「眠り蝉」で眠らせ、複雑な錠前は水銀の重みで開ける「静寂破り」で突破した。
そして、ついに目当ての土蔵にたどり着く。分厚い漆喰の扉の前に立ち、茜は息を呑んだ。
「……源内殿。この扉、鍵穴がない」
「落ち着け、小娘。それこそが最後の罠じゃ」
伝声管の向こうで、源内が静かに告げた。
「その扉は、音に反応する。僅かでもこじ開けようと音を立てれば、壁に仕込まれた無数の鉄砲が一斉に火を噴く。蔵の中も外も、蜂の巣よ」
絶望的な状況に、茜の額を汗が伝う。
「どうする……!」
「案ずるな。お前に渡した最後の絡繰を使う時が来た。『天女の羽衣』じゃ」
茜は懐から、手のひらほどの大きさに畳まれた、極めて薄い絹の布を取り出した。
「蔵の扉の前に、それを広げろ。そして、布に向かって思い切りこれを投げつけろ!」
源内が叫ぶ。茜は、同時に渡されていた小さな鉄球を握りしめた。半信半疑のまま、言われた通りに羽衣を広げ、鉄球を投げつける。
次の瞬間、信じられないことが起きた。
鉄球が羽衣に触れた瞬間、絹の布はまるで意思を持ったかのように、鉄球の衝撃を吸い込み、波打ち、一切の音を消し去ったのだ。音を吸収する絡繰布。鉄球は完全に無音のまま、扉に仕掛けられた小さな的(まと)に吸い込まれるように当たった。
ギィィ……と、重々しい音を立てて、鉄壁の扉が内側から開いていく。
「やった……!」
茜は歓喜の声を上げ、蔵の中に飛び込んだ。そして、厳重な箱に収められた裏帳簿を手に入れる。
その時だった。
「曲者じゃっ!」
背後で怒声が響き、屋敷中がにわかに騒がしくなった。どうやら、見張りの一人が目を覚ましたらしい。
「茜! 急げ! 裏口へ走れ!」
源内の声が飛ぶ。茜は裏帳簿を懐にねじ込み、闇を駆けた。追いすがる番人たち。茜は壁を蹴り、屋根に飛び乗る。
「屋根の上だ! 囲め!」
四方から松明の光が迫る。絶体絶命かと思われたその時、
「今じゃ!」
源内の声と共に、屋敷の屋根のあちこちから、一斉に煙が上がった。それはただの煙ではない。見る者の目を眩ませ、方向感覚を狂わせる「幻惑の煙」。さらに、夜空に花火のような光が打ち上がり、番人たちの注意を天に向けさせた。
「な、なんだありゃあ!?」
敵が混乱する一瞬の隙を突き、茜は闇に紛れて屋敷から脱出した。
夜明け前、源内の工房に茜と右京が戻ってきた。
「源内殿、あなたのおかげだ。これで民は救われる」
右京は、裏帳簿を手に深々と頭を下げた。
茜は何も言わず、ただ源内の前に進み出ると、懐から傷一つない木彫りの鳥を取り出した。それは、源内が最初に作っていた玩具だった。潜入の際、お守り代わりに茜がこっそり懐に入れていたのだ。
「……礼を言う。あんたの絡繰は、大したもんだ」
ぶっきらぼうにそう言うと、茜は鳥を源内の作業台に置き、風のように去っていった。
後日、但馬屋の悪事は白日の下に晒され、朽木藩に平穏が戻ったと風の噂が運んできた。
源内の工房では、今日も子供たちの笑い声が響いている。彼は木彫りの鳥を優しく撫でながら、独りごちた。
「やはり、儂の作るもんは、人を斬る刃(やいば)じゃねえ。人の笑顔を守る盾(たて)でなきゃな」
その顔には、江戸一番の絡繰師だけが知る、誇りと満足の色が浮かんでいた。
絡繰師、夜陰を駆ける
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