影法師と絡繰(からくり)時計

影法師と絡繰(からくり)時計

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江戸八百八町の夜を騒がす噂があった。「影法師」と呼ばれる盗人の話である。大名屋敷や豪商の蔵を狙う神出鬼没の怪盗だが、奇妙なことに金銀財宝には目もくれない。ただ、そこにある「物」を一つだけ盗み、煙のように消えるのだという。

橘兵馬(たちばな ひょうま)は、その噂を耳にしながら、欠伸を一つこぼした。江戸の裏通りで古道具屋「からくり堂」を営むこの男、無精髭に気の抜けたような目つきで、およそ怪盗とは無縁に見える。彼の仕事は、壊れた長持の蝶番を直し、動かなくなったからくり人形の歯車を調整すること。その腕は確かだったが、商売熱心とは言い難く、店はいつも閑散としていた。
兵馬こそが、その「影法師」の正体であった。だが、彼が盗むのはただの物ではない。不正の匂いが染みついた「絡繰(からくり)」――人を欺き、陥れるために作られた仕掛けだけを狙い、その仕組みを白日の下に晒しては無力化する。それが彼の流儀だった。

しかし、近頃江戸で起きている連続盗難事件は、兵馬の仕業ではなかった。名うての絡繰師・一番斎(いちばんさい)が作った人形が、大名屋敷から次々と盗まれているのだ。犯人は「影法師」を名乗っているという。
「ふざけた真似を…」
兵馬が舌打ちしたその夜、からくり堂の戸を叩く者がいた。息を切らして立っていたのは、凛とした佇まいの娘、お凛(おりん)。彼女は一番斎の娘だった。
「影法師様にお願いがございます」
お凛は震える声で言った。父が作った人形が盗まれ、それに隠された「密書」も消えていること。そして、父自身が何者かに脅され、様子がおかしいことを。
「偽物の影法師を捕らえ、父をお救いください」
真っ直ぐな瞳に射抜かれ、兵馬は面倒そうに頭を掻いた。
「…人違いだ。俺はただの古道具屋だよ」
「存じております。貴方様が、壊れた物を直すだけでなく、『壊れた人の心』も直してくださると…噂で」
その言葉に、兵馬の目がわずかに動いた。彼はため息をつくと、お凛を店の中に招き入れた。

兵馬の調査は早かった。盗まれた人形が納められた屋敷は、いずれも幕府の要職を狙う老中・水野監物(みずの けんもつ)と対立する藩ばかり。水野が一番斎を脅し、人形に各藩の弱みを記した密書を仕込ませ、それを己の手下を使って「影法師」の名で回収させている。筋書きは読めた。
「最後の密書は、今宵、南蛮渡来の技術で作られた大時計を持つ、堀田家の屋敷に納められるはず…」
兵馬は手製の煙玉や鉤縄、そして歯車の動きを狂わせる特殊な油を懐に忍ばせ、夜の闇へと溶けていった。

堀田家の屋敷の象徴である大時計は、三層の櫓(やぐら)ほどの高さがあった。内部は無数の歯車と振り子が、地響きのような音を立てて時を刻んでいる。兵馬が潜入すると、そこには黒装束の忍びが待ち構えていた。偽の影法師、水野配下の黒羽(くろはね)である。
「貴様が本物か。名を騙る不届き者を始末しに来た」
黒羽の振るう忍者刀が、闇を切り裂いて兵馬に迫る。兵馬は身を翻し、腰の脇差で受け流す。キィン、と金属音が響き、火花が散った。
剣技では黒羽が上だ。兵馬は斬り結びながらも、戦場を巨大な時計の絡繰内部へと移していく。
「小賢しい真似を!」
黒羽が追う。兵馬は巨大な歯車を足場に跳び、揺れる振り子を盾にして刃を避ける。ここは彼の庭だった。物の仕組み、力の流れ、その全てが掌の上にある。
「そらよ!」
兵馬は蒸気機関の圧抜き弁に細工をし、熱い蒸気を黒羽の顔面に噴出させた。一瞬怯んだ隙に、懐の油を黒羽の足元の歯車に注ぐ。
ギギギッ、と嫌な音を立て、歯車の回転が狂い始めた。黒羽が体勢を崩したその瞬間、兵馬は彼の刀を、噛み合わさる巨大な歯車の隙間へと誘い込んだ。
ガッシャァァン!
凄まじい音と共に、黒羽の刀は歯車に喰われ、砕け散った。武器を失い、動きを封じられた黒羽を見下ろし、兵馬は最後の仕上げにかかる。時計の心臓部である脱進機(だっしんき)に小さな楔を打ち込んだ。
途端に、時計の制御が効かなくなり、時を告げる鐘が狂ったように鳴り響いた。ガン、ガン、ガン!けたたましい鐘の音が屋敷中に轟き、人々が叩き起こされる。
黒羽が呆然とする中、兵馬は目当ての絡繰人形から密書を抜き取ると、混乱に乗じて闇へと消えた。

後日、水野監物の悪事は暴かれ、失脚した。一番斎は自由の身となり、娘のお凛と穏やかな日々を取り戻した。
数日後、からくり堂の前に小さな包みが置かれていた。中には、見事な細工が施された手鏡。裏には、触れると花が開く小さな絡繰が仕込まれていた。
兵馬はそれを手にして、いつもの気だるげな表情のまま、ふっと口元を緩めた。
「…修理代には、ちと高すぎるな」
呟きが、がらんとした店に溶けていく。江戸の空は今日も青く、そして街のどこかでは、また新たな悪巧みの絡繰が、静かに時を刻み始めているのかもしれなかった。

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