からくり師源内と開かずの箱

からくり師源内と開かずの箱

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江戸八百八町にその名を知らぬ者はいない。からくり師、源内。彼の手にかかれば、茶を運ぶ人形はお辞儀までこなし、木彫りの鳥は本物さながらにさえずる。その腕は神業とまで言われ、特に彼が作る「仕掛け錠」は、いかなる鍵師も、天下の大泥棒でさえも開けることは叶わぬと評判だった。

「ごめんください」

工房で独楽に仕込む煙幕の具合を調整していた源内の耳に、鈴を転がすような声が届いた。戸口に立っていたのは、紫の振袖に身を包んだ武家の娘だった。年は十六か七か。憂いを帯びた大きな瞳が、源内をじっと見つめている。

「南町奉行所与力、榊原が娘、お琴と申します。源内様にお願いがあって参りました」

差し出されたのは、見事な螺鈿細工が施された手箱だった。しかし、源内はその箱を一目見た瞬間、背筋に冷たいものが走るのを感じた。客人がいるにも関わらず、無意識に額の汗を手の甲でぬぐう。

「こ、これは……見事な細工ですな。して、お願いとは?」
「この箱を、開けていただきたいのです」

お琴の言葉に、源内は息を呑んだ。この箱に見覚えがあった。かつて己が身を置いた、闇の仕事師集団「影風(かげかぜ)」が用いる、決して開けてはならぬ『封魔箱(ふうまばこ)』。内部に仕掛けられた恐るべき罠は、無理にこじ開けようとした者の命を確実に奪う。

「お嬢様、こいつぁいけねえ。どんな職人が作ったか知らねえが、下手にいじればあんたの手まで……」
「父が、三日も前から姿を消しております。この箱は父の書斎で見つけました。これが、唯一の手がかりなのです。どうか、お願いでございます!」

お琴は目に涙を溜め、畳に手をついて頭を下げた。その必死な姿に、源内の脳裏に、血と裏切りにまみれた過去がよぎる。五年前、「影風」を抜け、からくり師として得たこの穏やかな暮らし。それを壊したくはない。だが、この箱を放置すれば、江戸に災厄が訪れる。源内は静かに覚悟を決めた。

「……わかりやした。ただし、今宵のうちに仕掛けてみますんで、明日の朝、またお越しください。決して、誰にも口外しねえように」

その夜、源内は工房の床板を外し、地下の隠し部屋へと降りた。そこには、封印していた「疾風(はやて)」と呼ばれた頃の忍び装束と、特殊な道具の数々が眠っていた。

『封魔箱』と対峙した源内は、聴診器のような道具を箱に当て、内部の歯車の音に全神経を集中させる。わずか一寸のズレが命取りになる。指先で特定の箇所を寸分違わぬ力で押し込み、細い針金を鍵穴に差し込む。カチリ、と小さな音が響いた。罠を、一つ解除した。額から玉の汗が流れ落ちる。それを何度も繰り返し、夜明け前、ついに最後の仕掛けが外れる音が響いた。

箱の中にあったのは、一枚の古びた絵図。江戸城の地下水路を克明に記した地図だった。そして、その隅には「闇鴉(やみがらす)の刻、水門にて」と墨で記されていた。

「闇鴉の刻……新月の夜か!」

暦を確認すれば、新月はまさに今夜。連中は今夜、江戸城に忍び込み、何かを仕出かすつもりなのだ。与力の榊原は、この計画に気づいたために拉致されたに違いない。

もはや一刻の猶予もない。源内は、お琴に「親戚の家に身を寄せろ」とだけ書いた手紙を残し、己が作り上げた最高の「からくり」を身に纏った。煙幕を噴き出す独楽、連射式の小さな手弩(しゅど)、目くらましの光を放つ八咫烏(やたがらす)の手鏡。

「俺はもう疾風じゃねえ。江戸のからくり師、源内だ。俺の居場所を、てめえらに好き勝手させてたまるか!」

漆黒の闇に覆われた江戸城大手門下の水路。源内は音もなく水に潜り、内部へと侵入した。そこには、かつての仲間である「影風」の忍びたちが、水門の仕掛けに爆薬を設置している最中だった。

「お前は……疾風!裏切り者が、何の用だ」
見つかった。だが、今の源内はただの忍びではない。

源内は懐から独楽を放つ。独楽は高速で回転しながら床を走り、追っ手の足元で濃密な煙幕を噴き上げた。視界を奪われた敵が混乱する隙に、壁を駆け上がり、天井の梁から手弩を放つ。矢の先には眠り薬が塗ってあり、敵を次々と無力化していく。

奥に進むと、爆薬の束を抱えた頭領の幻斎が待ち構えていた。
「戻ってきたか、疾風。再び我らと天下を望むか?」
「寝ぼけたことを言うな、幻斎。榊原殿はどこだ」
「あの与力か。水門の底にでも沈めてやろう。この江戸城と共にな!」

幻斎の抜き放った刀が、闇を切り裂いて源内に襲いかかる。源内は仕込み杖でそれを受け流すが、純粋な剣技では頭領に分が悪い。体勢を崩されたその瞬間、源内は最後の切り札である手鏡を投げた。

「喰らいやがれ!」

手鏡は幻斎の顔の間近で強烈な閃光を放った。一瞬、視力を奪われ怯んだ幻斎の懐に、源内は電光石火の速さで飛び込み、峰打ちでその意識を断ち切った。

数日後。源内の工房には、子供たちの明るい笑い声が戻っていた。そこへ、無事に救出された榊原与力がお琴を連れて礼に訪れた。

「源内殿、此度の働き、なんとお礼を言ったらよいか……」
榊原は、源内の正体に気づいているようだった。だが、何も問いただすことはせず、ただ深々と頭を下げた。

「へい、お代は見ての通りで。それより旦那、今度はどんなからくりをお作りやしょう?驚いてひっくり返るような、とっておきのやつをね」

源内は悪戯っぽく笑った。闇を駆けた疾風は、もういない。ここにいるのは、江戸の平和と人々の笑顔を愛する、ただのからくり師だ。彼の新たな戦いは、今日も子供たちをワクワクさせる、最高のからくりを作ることなのだから。

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