絡繰り人情剣(からくりにんじょうけん)

絡繰り人情剣(からくりにんじょうけん)

1
文字サイズ:

神田の裏長屋に、風変わりな男が住んでいた。名は平賀源内。もっとも、かの有名な蘭学者とは縁もゆかりもない、ただのからくり師である。子供だましの玩具から、年寄りのための便利な仕掛けまで、彼の手にかかれば鉄と木片が命を宿したかのように動き出す。だが、その腕を見込んで、時折「表沙汰にできぬ厄介事」が舞い込んでくることは、ごく一部の者しか知らない。

その日、源内の仕事場に駆け込んできたのは、日本橋の大店・越後屋の一人息子、孝太郎だった。血相を変えた若旦那は、人払いをするなり畳に手をついた。
「源内殿、どうかお力添えを! 我が家の蔵から、”開かずの箱”が盗まれました!」
聞けば、その黒漆塗りの箱は、越後屋の初代当主から「何があろうと決して開けるな。家が潰えるほどの災いを招く」と厳しく言い伝えられてきたものだという。蔵の錠前は壊されておらず、まるで煙のように消えたのだと孝太郎は声を震わせた。
「内密に、箱を取り戻していただきたい。お礼は、いくらでも」
源内は、作りかけの自動茶運び人形の手を止め、ニヤリと笑った。
「面白そうだ。その話、乗った」

源内は早速、越後屋の蔵を検分した。頑丈な土蔵には、たしかに侵入の形跡がない。だが、源内の目はごまかせなかった。彼は鼻をくんくんと鳴らし、壁の一点を指差す。
「ここだ。微かに油の匂いがする。それも、ただの油じゃない。蛇の脂と薬草を混ぜた、特殊なもんだ」
それは、忍びが音を立てずに戸や錠を動かすために使う油だった。さらに源内は、自らが「響き板」と呼ぶ薄い桐の板を床に置き、その上に耳を着けた。土蔵の床下から、かすかな空気の流れを感じ取ったのだ。
「犯人は、蔵の外から床下を掘り進み、この真下から板を寸分違わず切り抜いて侵入し、事を終えたあと、元通りに塞いで消えた。相当な手練れの仕事だ」

源内は腰に下げた革袋を探り、小さな竹筒を取り出した。中には、光に当たるとかすかに煌めく特殊な砂が入っている。これを蔵の床下に撒くと、犯人が残した微かな足跡が青白く浮かび上がった。足跡は、近くの川へと続いている。
「さて、鬼が出るか蛇が出るか」
源内は、背中に背負った細長い風呂敷包みを担ぎ直し、闇夜の江戸へ溶け込んでいった。

足跡を追ってたどり着いたのは、柳森の奥にある荒れ果てた廃寺だった。境内は不気味なほど静まり返っている。だが、源内の耳には、常人には聞こえない布の擦れる音や、潜めた息遣いが届いていた。
「ようこそ、からくり師殿。お前の噂はかねがね聞いている」
本堂の暗闇から、痩身の男がぬっと姿を現した。その身のこなし、ただ者ではない。
「”影喰い”の玄斎とでも名乗っておこうか」
影喰い。かつてある藩に仕え、謀略の末に潰された忍びの一団。今は江戸の闇で汚れ仕事を請け負う、恐るべき暗殺者集団だ。
「箱を返しちゃもらえねえか。中身が何だろうと、人様のものを盗むのは感心しねえ」
源内の軽口に、玄斎は冷たく笑う。
「あの箱は、我らの悲願。貴様のような俗人には渡せん」
言うが早いか、玄斎の姿が掻き消えた。次の瞬間、源内の首筋に冷たい鋼が迫る。源内は咄嗟に身をかがめ、懐から小さな玉を床に叩きつけた。パンッ!という乾いた音と共に、強烈な閃光と煙が広がる。目潰し玉だ。
「小賢しい真似を!」
煙の中から飛び出してきた玄斎の足が、床板に仕掛けられていた強靭な糸に絡め取られた。体勢を崩した玄斎の頭上から、天井に吊るしておいた網が降り注ぐ。
「忍びの技は闇に紛れてこそ。光と音、そして仕掛けの前じゃ、赤子同然よ!」
源内が言い放った。しかし、玄斎は網を苦無で切り裂くと、獣のような速さで体勢を立て直す。
「面白い! ならば、その絡繰りごと、お前を地獄に送ってくれる!」

玄斎の猛攻が始まった。体術を極めたその動きは、源内の仕掛けをことごとく見切り、かわしていく。もはや小細工は通用しない。追い詰められた源内は、背負っていた風呂敷包みを解いた。中から現れたのは、一見するとただの竹光にしか見えない、奇妙な刀だった。
玄斎が嘲笑う。
「そんな玩具で、この俺が斬れるとでも?」
源内は答えず、柄頭にある小さな突起を押し込んだ。すると、カシャリ、という音と共に刀身が三つに割れ、それぞれが強靭な鎖で繋がった三節棍のような武器へと変形した。
「こいつは”龍哭剣(りゅうこくけん)”。俺の最高傑作だ。泣いてもらうぜ、玄斎殿!」
変幻自在に動く刃が、鞭のようにしなり、玄斎に襲いかかる。刀でも槍でもない、予測不能な攻撃に、さすがの玄斎も戸惑いを見せた。金属音が激しく鳴り響き、火花が散る。一瞬の隙を突き、龍哭剣の先端が玄斎の小手を打ち据えた。たまらず刀を落とす玄斎。勝負は決した。

源内は、本堂の奥に置かれていた”開かずの箱”を手に取った。
「なぜ、この箱を?」
観念した玄斎が、静かに語り始めた。箱の中身は、金銀財宝ではない。かつて影喰いの一族が幕府から拝領した、故郷の土地の権利書なのだという。藩の裏切りで全てを失った彼らにとって、それは唯一の誇りであり、いつか帰るべき場所の証だった。越後屋の初代当主は、影喰いと縁のあった人物で、彼らのためにその証文を今まで守ってくれていたのだ。
「だが、時が経ち、越後屋も代替わりした。我らのことを忘れ、あの箱を不吉なものとして蔵に眠らせていることが許せなかったのだ」

長屋に戻った源内は、孝太郎に箱を返した。事の次第を話すと、孝太郎は深く頭を下げ、初代当主の日記を探し出し、そこに記された真実を知った。

数日後。源内は、越後屋から受け取った礼金で新しい材料を買い込み、仕事場で鼻歌を歌っていた。そこへ、戸口に小さな包みが置かれているのに気づく。中には、干し柿と一枚の書き付けがあった。

『いつか故郷の土を踏む日まで、箱は越後屋殿に託す。礼を言うぞ、からくり師』

源内は干し柿を一つ口に放り込み、夜空を見上げた。
「人情ってやつも、なかなか複雑なからくりでできてらあ」
そう呟くと、彼は新しい発明品の設計図に目を落とした。それは、鳥のように大空を舞うための、巨大な翼の図面だった。江戸の夜は、まだ退屈させてくれそうにない。

TOPへ戻る