神保町の片隅に佇む古書店「墨影堂(ぼくえいどう)」。その主である黒崎宗佑(くろさきそうすけ)は、埃と古紙の匂いに包まれ、客が来ぬのをいいことに帳面と睨めっこをするのが常だった。しかし、その物静かな男には、もう一つの顔があった。幕府若年寄の密命を受け、歴史の記録から不都合な真実を抹消する「影改め方」という裏の顔が。
その日、墨影堂の引き戸を鳴らしたのは、見慣れぬ鋭い目つきの侍だった。若年寄・水野忠清(みずのただきよ)からの密命である。
「三年前、謀反の咎で取り潰しと相成った越後・椎名(しいな)藩。かの藩に関する巷の記録、一切を闇に葬れ」
内容は簡潔にして、冷徹。宗佑はただ一礼し、墨と筆を懐に忍ばせ、店を閉めた。
椎名藩の名は、宗佑も聞き覚えがあった。藩主・椎名正親(まさちか)は稀代の名君と謳われながら、突如として幕府への謀反を企てたとして、一族郎党、断罪された。あまりに不可解な事件として、江戸の噂好きたちの記憶に新しい。
宗佑は、かつての藩邸に出入りしていた商人、縁者、果ては瓦版屋まで訪ね歩き、巧みな話術で日記や書付を買い集めていく。表向きは、好事家の古物集め。だが、彼の目は紙の染み一つ、筆の癖一つ見逃さない。
集めた記録を突き合わせるうち、宗佑は奇妙な事実に突き当たる。椎名藩の領地には、従来の製法を覆すほどの良質な砂鉄が採れる鉱脈があったらしい。そして、藩主・正親が最後に残したとされる辞世の句。それは、謀反人のものにしてはあまりに潔く、まるで何かを告発しているかのようにも読めた。
「これは、単なる謀反ではない」
宗佑の胸に、冷たい確信が芽生える。この密命そのものが、巨大な欺瞞を隠すための蓋なのではないか。
その夜、墨影堂に闇が落ちた。宗佑の背後を襲った刺客の刃を、彼は本棚の陰から抜き放った仕込み杖で受け止める。紙の匂いとは不釣り合いな、鉄の匂いが立ち込めた。
「幕府の手練れか。随分と手荒い真似をする」
刺客は数合打ち合っただけで、闇の中へと消えた。口封じだ。自分が真実に近づきすぎたことを、宗佑は悟った。
刺客が残した微かな薬草の匂いを頼りに、宗佑は江戸の隅にある薬屋に辿り着く。そこで彼は、椎名藩の最後の生き残り――藩主正親の娘、千早(ちはや)と出会った。父亡き後、彼女は身分を隠し、独り強く生きていた。
「幕府の犬め。父の名をこれ以上、辱める気か」
鋭い瞳で睨みつける千早に、宗佑は静かに語りかけた。
「拙者は歴史を消す者。だが、消すためにはまず、そこに何が書かれていたかを知らねばならぬ。姫、あなたが見た真実をお聞かせ願いたい」
宗佑の真摯な眼差しに、千早は心を揺さぶられる。彼女は懐から、父が遺した最後の日記を取り出した。そこに記されていたのは、驚くべき真相だった。
椎名藩の鉱脈を私物化しようと画策した者こそ、若年寄・水野忠清その人であった。水野は正親に鉱脈の譲渡を迫り、断られるや謀反の濡れ衣を着せて藩を取り潰したのだ。宗佑への密命は、自らの罪の証拠を完全に消し去るための、最後の仕上げだったのである。
「すべては、あの男の仕業……!」
千早の震える声が、墨影堂の静寂を切り裂いた。
その瞬間、戸板が蹴破られ、水野が手勢を引き連れて踏み込んできた。
「鼠が嗅ぎつけたようだな、影改め方。その日記ごと、ここで消えてもらうぞ」
不敵に笑う水野。宗佑は千早を背に庇い、仕込み杖を構えた。
「若年寄。あなたが私に命じたのは『記録を消すこと』。ならば、私も役目を果たさねばなりますまい」
言い放つや、宗佑は刺客たちの渦中へと躍り込んだ。それはもはや古書店主の動きではなかった。最小の動きで敵刃をいなし、峰打ちで的確に急所を打つ。その剣は、まるで流れる水か、あるいは紙に走る筆のようだった。
数刻の後、息を切らして立つのは宗佑ただ一人。水野は顔を歪ませ、自ら刀を抜いた。
「ならば、力づくで……!」
斬りかかってくる水野に対し、宗佑は懐から筆と紙を取り出した。そして、驚くべき速さで、水野の筆跡を完璧に模倣し、こう書き付けた。
『椎名藩ノ鉱脈ヲ私有化セントスル計画、滞リナク進メ。幕閣ノ同志ニモ然ルベク伝エヨ』
「水野様。これをあなたの政敵である堀田様へお見せしたら、どうなるでしょうな」
それは、水野の罪を水野自身が認めたかのような、完璧な偽書だった。
「なっ……貴様、いつの間に!」
「影改め方は、ただ消すだけではござらん。時に、創り出すこともある。これぞ拙者の……墨の刃」
絶句する水野。その一瞬の隙を突き、宗佑の振るった峰が水野の意識を刈り取った。
数日後、若年寄・水野忠清は「病」を理由に全ての役職を辞した。
椎名藩の記録は、宗佑の手によって新たに「改竄」された。謀反の事実は消され、「藩政の乱れにより、お取り潰し」という、小さな名誉だけが残された。
「これで、少しは父上も浮かばれましょう」
江戸を去る日、千早は宗佑に深く頭を下げた。
一人、墨影堂に戻った宗佑は、店先を掃き清め、空を見上げた。
消された歴史。書き換えられた真実。その狭間で、彼は今日も筆を執る。人の魂が宿る記録を守り、そして葬るために。
彼の戦いは、まだ終わらない。
墨の刃(すみのやいば)
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