江戸絡繰(からくり)草紙 影喰いの刃

江戸絡繰(からくり)草紙 影喰いの刃

1
文字サイズ:

陽炎の立つ夏の江戸。南町奉行所の縁側で、一人の同心が大口を開けて舟を漕いでいた。結城新十郎(ゆうきしんじゅうろう)。仕事をしない、腕も立たない、ただ居眠りするのみ。付いたあだ名は「居眠り新十郎」。同輩の侮蔑も、上役の叱責も、どこ吹く風と受け流すのが彼の日常だった。

しかし、夜の帳が江戸の喧騒を包む頃、新十郎はもう一つの顔を覗かせる。法では裁ききれぬ巨悪を、闇から闇へと葬り去る仕置人――『影喰い』。父から受け継いだその裏稼業こそ、彼の本性であった。

「また近江屋(おうみや)か……」
月明かりの下、新十郎は手にした調書に目を落とす。ここ一月で三人目。大店・近江屋に睨まれた職人や商人が、ことごとく不審な死を遂げている。表向きは病死や身投げ。だが、死体の状況には僅かな、しかし確かな違和感があった。まるで、見えぬ刃に命を刈り取られたかのような。

近江屋の主人・儀兵衛(ぎへえ)は、人の生き血を啜る守銭奴として名うての男だ。その背後には、鬼神の如き腕を持つ用心棒がいるという。名は、斑鳩一徹(いかるが いってつ)。

「ただの剣客ではあるまい」
新十郎は工房へと姿を消した。そこは彼の城であり、武具蔵であった。壁には父が遺した無数の絡繰(からくり)の図面が貼られ、床には製作途中の奇妙な道具が転がっている。彼の武器は刀だけではない。この精緻な絡繰こそが、影喰いの牙であった。

月が雲に隠れた夜、新十郎は近江屋の屋敷に潜入した。闇に溶け込むような身のこなしで土蔵に忍び込むと、そこには儀兵衛が溜め込んだ悪事の証文が山と積まれていた。
「これで終わりだ、儀兵衛」
証文を懐にしたその時、背後に氷のような殺気が突き立った。
「鼠が入り込んだか」
振り返ると、月光を背に、長身の侍が音もなく立っていた。斑鳩一徹。その眼は、獲物を見据える猛禽の如く鋭い。
次の瞬間、斑鳩の姿が消えた。否、常人には捉えられぬ速さで踏み込んできたのだ。新十郎は咄嗟に脇差を抜いて受け流すが、鉄塊をぶつけられたような衝撃に腕が痺れる。
「ほう、やるか」
斑鳩の口元が歪む。放たれる第二の斬撃。新十郎は懐から煙玉を叩きつけ、爆ぜる煙に紛れて屋根へと跳んだ。だが、遅い。左腕に灼けつくような痛みが走る。闇夜に一筋、赤い血が舞った。

「……桁が違う」
長屋に戻った新十郎は、傷の手当てをしながら呻いた。尋常な太刀筋では、十度戦っても勝機はない。あの速さ、あの重さ。まさに鬼神。
だが、新十郎の口元には笑みが浮かんでいた。
「ならば、尋常ではない戦い方をすれば良いまでのこと」
彼は再び工房に籠った。火薬を仕込んだ手甲、目眩ましの光を放つ小箱、鋼鉄の糸を射出する腕輪。夜を徹し、カン、カン、と鉄を打つ音が微かに響いた。対・斑鳩一徹のための、必殺の絡繰が次々と産声を上げていく。

三日後、近江屋が私的な宴を開くという情報が舞い込んだ。邪魔な役人衆を招き、毒を盛る算段らしい。そこが、決戦の場となる。

宴たけなわの近江屋の屋敷。新十郎は黒装束に身を包み、庭の闇から姿を現した。
「近江屋儀兵衛! 貴様の悪事、この影喰いが喰らい尽くす!」
その声に、宴席は凍り付いた。儀兵衛の背後から、斑鳩一徹が静かに立ち上がる。
「また会ったな、鼠。今宵こそ、その命、貰い受ける」
「斑鳩一徹。貴様の剣は、悪に魂を売ったか。それで真の武士と言えるのか」
「黙れ。俺が信じるは己が剣のみ。強さこそが絶対の理だ」
二人の視線が火花を散らす。新十郎は庭へ、斑鳩はそれを追って縁側から飛び降りた。

月下の死闘が始まった。
斑鳩の神速の刃が、新十郎の喉元を狙う。新十郎はそれを紙一重で躱すと、左の手甲を打ち合わせた。カッ、と鋭い音と共に火花が散り、斑鳩の目が眩む。その一瞬の隙に、新十郎は距離を取った。
「小賢しい!」
怒声と共に、斑鳩が再び肉薄する。だが、踏み込んだ足元で何かが弾けた。新十郎が予め撒いておいた「跳ね菱」だ。鋭い棘が斑鳩の足袋を貫く。
「ぐっ……!」
僅かに体勢を崩した斑鳩に、新十郎は右腕の腕輪を向けた。シュッ、という微かな音と共に、鋼鉄の糸が射出され、斑鳩の愛刀に絡みつく。
「何っ!?」
刀を引こうとする斑鳩。だが、糸は強靭で、びくともしない。新十郎が腕を振るうと、刀は斑鳩の手から弾き飛ばされ、宙を舞った。

武器を失った斑鳩は、呆然と己の手のひらを見つめた。自らの剣が、剣以外の何かによって封じられた。信じてきたものが、足元から崩れ落ちるような感覚。
新十郎は静かに間合いを詰めると、刀の峰で斑鳩の鎖骨を打ち据えた。
「ぐはっ……!」
崩れ落ちる巨体。新十郎は、倒れた斑鳩を見下ろして静かに告げた。
「強さとは、力のことだけを言うのではない。その腕、守るべきもののために使え。道を踏み外すな」

背後では、腰を抜かした儀兵衛が震えている。新十郎は証文の束を投げつけ、捕縛した。

翌朝。南町奉行所は、近江屋捕縛の手柄話で持ちきりだった。上役が自分の手柄のように吹聴するのを遠くに聞きながら、結城新十郎はいつもの縁側で、気持ちよさそうに居眠りをしていた。
その袖口から覗く腕には、昨夜の戦いで負った傷が、うっすらと紅い線を描いていた。
江戸の空は、今日もどこまでも青かった。

TOPへ戻る