天穿つ糸、からくり弥助

天穿つ糸、からくり弥助

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神田の裏長屋に、弥助という男が住んでいた。表向きは子供の玩具や芝居の仕掛けを作る、腕のいいからくり師。しかし、陽が落ち、江戸の町が深い影に沈む頃、弥助はもう一つの顔を見せる。いかなる錠前も、いかなる仕掛けも通じぬ「仕掛け破り」の顔を。

ある夜更け、弥助の仕事場の戸を叩く者がいた。やつれた顔をした娘、お千代だ。彼女は震える声で訴えた。
「弥助様……どうか、父をお助けくださいまし」
話によれば、お千代の父が営む薬種問屋が、悪徳な札差(ふださし)『大黒屋』の罠にはまり、偽の借用書で店を乗っ取られようとしているという。その証拠となる大黒屋の「裏帳簿」が、屋敷の奥深くにある「開かずの蔵」に隠されているらしい。
「大黒屋の蔵は、当代随一のからくり師・源斎が手掛けたものと聞き及びます。誰も破れた者はおりませぬ」
源斎。その名を聞いた弥助の口の端が、かすかに上がった。弥助が唯一、その腕を認める男だ。
「面白い。その仕事、引き受けた」
弥助は報酬も聞かず、ただ一言そう答えた。

三日後の丑三つ時。闇に溶け込むような黒装束に身を包んだ弥助は、大黒屋の屋敷の瓦に猫のように降り立った。手には、彼が三日三晩かけて作り上げた、奇妙な形の道具が収められた箱を抱えている。

最初の関門は、庭に張り巡らされた「鈴鳴りの糸」。わずかでも触れれば、けたたましい音で番人を呼ぶ。弥助は懐から竹筒を取り出すと、そっと息を吹き込んだ。コロロ、と夜闇に鈴虫の音が響く。本物の虫の音に紛れて、弥助は細い竹光を頼りに糸の位置を見極め、しなやかな身のこなしでそれを掻い潜った。

次に現れたのは、蔵の分厚い扉。そこには、源斎作と名高い「龍の口錠」が鎮座していた。複雑怪奇な仕掛けで、下手にいじれば内部から毒矢が飛び出すという代物だ。弥助は慌てない。箱から取り出したのは、細い金属の棒が何本も束になった、蜘蛛の足のような道具だった。彼はそれを鍵穴に差し込むと、片耳をそっと扉に押し当てた。
(……なるほど、七つの歯車に、逆回りの罠が一つか。相変わらず、ひねくれたことをする)
指先が微かな振動を捉える。カチリ、カチリと金属が擦れる音だけが、弥助の研ぎ澄まされた聴覚に届く。まるで楽器を調律するように、彼は一本、また一本と金属の棒を操っていく。やがて、重々しい音を立てて、龍の口はその顎を開いた。

ついに蔵の中へ足を踏み入れる。黴と墨の匂いが鼻をついた。帳簿が山と積まれた棚の中から、弥助は目当ての一冊をすぐに見つけ出した。表紙に「極秘」と記された裏帳簿だ。
それを手に取った、瞬間。
ギシリ、と足下の床板が沈んだ。罠だ。
「ちっ……!」
弥助が舌打ちする間もなく、床が抜け、彼は奈落へと落下した。同時に、四方の壁が開き、鋭い切っ先を光らせた無数の槍が、彼の体を串刺しにせんと迫る。これこそが源斎の真骨頂、「八方槍の檻」。もはや逃げ場はない。

だが、落下する弥助の目は、絶望ではなく好機を捉えていた。
(読めていたぜ、源斎! お前の仕掛けはいつも完璧すぎるんだ!)
弥助は懐から円盤状のからくりを放り投げた。着地と同時に、円盤から四方八方に強靭な鯨の髭がバネのように飛び出し、床と壁の間に突っ張って、仮初めの足場を作り出す。弥助はその足場を蹴ると、迫り来る槍の穂先を紙一重でかわし、壁を駆け上がった。
「お前の仕掛けは、俺の道具のためにある!」
天窓から差し込む月光の中、弥助の体は宙を舞い、何事もなかったかのように蔵の梁に降り立った。

翌朝、奉行所に匿名の文と共に大黒屋の裏帳簿が届けられ、悪徳札差の悪行は白日の下に晒された。
神田の裏長屋では、弥助が子供たちに囲まれ、新しいからくり人形を披露している。
「弥助! この人形、まるで生きているみてえだ!」
「おう、そうだろ。魂を込めて作ったからな」
飄々と笑う彼の正体を知る者は、誰もいない。お千代が礼にと持ってきた小判の包みも、「こいつの修理代でとんとんだ」と受け取ろうとはしなかった。ただ、去り際にこう呟いたのが、風に乗って聞こえただけだった。
「次は何を破らせてくれるんだ、源斎……」
空は、今日も高く青かった。

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