俺の名は三崎。ウェブメディアの片隅で、真実と嘘を混ぜ合わせた記事を生成する、通称「コタツ記事ライター」だ。カフェインと自己嫌悪を燃料に、今日もモニターの向こうの見えない大衆の射幸心を煽る。芸能人の不倫、政治家の失言、企業の不祥事。どれもこれも、数時間後には忘れ去られるデジタルな泡だ。俺の仕事は、その泡を少しでも大きく、派手に見せることだった。
その日も、匿名のタレコミ屋「カラス」からメールが届いた。大手製薬会社「アスクレピオス製薬」が発表した新薬『ネクタル』に関する内部情報。副作用の隠蔽疑惑。ありふれたネタだ。俺はいつものように、事実を数倍に膨らませ、扇情的な見出しをつけた記事を数時間で書き上げた。『【衝撃】夢の新薬は悪魔の囁きか?アスクレピオス製薬の闇を暴く』。クリックされることだけを考えて設計された、完璧な毒だった。
公開ボタンを押して、三十分後のことだった。
サイトのアクセスが異常な数値を示したかと思うと、一瞬でサーバーが落ちた。強力すぎるDDoS攻撃だ。ただのゴシップ記事で、こんな手の込んだ攻撃はあり得ない。背筋に冷たいものが走った瞬間、玄関のドアノブがガチャリと不気味な音を立てて回った。ピッキングだ。
俺は思考するより先に動いていた。ベランダの窓を蹴破り、隣の部屋のバルコニーへ飛び移る。階下からは黒塗りのセダンがこちらを見上げていた。これは、ただの嫌がらせじゃない。殺される。
路地裏を駆け抜け、使い捨てのプリペイドスマホで「カラス」に連絡を取った。「一体何を掴ませた!」。怒鳴る俺に、スピーカーの向こうから震える女の声が返ってきた。
「ごめんなさい……あなたを巻き込むつもりは……。でも、あれはただのリークじゃない。『センチネル・プロトコル』に触れてしまったのよ」
指定された古いコインランドリーで待っていると、フードを目深に被った小柄な女性が現れた。彼女が「カラス」こと、沙耶だった。元アスクレピオス製薬の研究員だという彼女の口から語られたのは、悪夢のような真実だった。
「新薬『ネクタル』に、効果なんてほとんどないの。臨床データも、専門家の論文も、SNSでの好意的な口コミも……すべてAIが生成した虚構よ」
そのAIの名が『センチネル・プロトコル』。世論形成に特化した超高度な情報操作システム。センチネルは、特定の製品や思想にとって都合の良い「真実」を無限に生成し、インターネットの海に拡散させる。批判的な意見は、ボットによる大量の反論でかき消し、発信源を社会的に抹殺する。人々は、AIによって最適化された情報の渦の中で、知らず知らずのうちに思考を誘導される。アスクレピオス製薬は、その最初のクライアントだったのだ。
「奴らは真実を暴こうとする者を『ノイズ』として処理する。あなたは今、最優先の排除対象よ」
俺は笑うしかなかった。今まで自分がやってきたことの、究極系じゃないか。だが、笑えなかった。これは人の命と健康を弄ぶ、決して許されない嘘だ。そして何より、俺の書いた記事が引き金になってしまった。
「どうすれば奴らを止められる?」
「……中枢サーバーに直接アクセスして、センチネルが生成した偽りのデータと、本物の臨床データをすり替えるしかない。そして、それを世界中に同時に暴露するの」
「場所は?」
「明後日、アスクレピオス製薬が開催する『ネクタル』の成功を祝う記念パーティよ。会場のセキュリティシステムを一時的にダウンさせる。チャンスは数分」
それは自殺行為に等しい作戦だった。だが、俺の心の奥底で、忘れかけていたライターとしての矜持が燻っていた。嘘で人を踊らせてきた俺が、たった一つ、本物の真実を世に放つ。最高の記事じゃないか。
「面白い。乗った」俺はニヤリと笑った。「ただし、暴露の方法は俺に任せろ。真実をただ投げつけるだけじゃ、誰も見向きもしない。最高のショーにしてやる」
パーティ当日。俺はウェイターに、沙耶は清掃員になりすまして会場に潜入した。インカムから聞こえる沙耶のナビゲートで、俺は監視カメラの死角を縫ってサーバー室へと向かう。一方、沙耶は自身のハッキング技術で、会場の巨大スクリーンをジャックする準備を進めていた。
「三崎さん、あと三分でセキュリティが再起動する!」
サーバー室のロックを特殊なツールでこじ開け、内部に滑り込む。むせ返るような熱気の中、俺は沙耶から受け取ったUSBを突き刺した。データのすり替えが始まる。残り一分。廊下から複数の足音が聞こえてきた。
「沙耶、準備はいいか!最高の見出しで行くぞ!」
「いつでも!」
俺はサーバー室を飛び出し、追手とは逆方向、パーティ会場へと走った。スポットライトが眩しいステージ。CEOが高らかに『ネクタル』の成功を宣言している。俺は、その男からマイクを奪い取った。
「皆様、お楽しみのところ失礼!ウェブライターの三崎と申します!本日は皆様に、アスクレピオス製薬様より、さらに刺激的な『真実』をプレゼントさせて頂きます!」
会場がどよめく。追手がステージになだれ込んでくる。その瞬間、沙耶が合図を送った。背後の巨大スクリーンに、CEOの得意満面な顔が映し出されていたのが、突如として砂嵐に変わる。そして、センチネル・プロトコルが生成した偽りのデータと、隠蔽されたおぞましい副作用報告が、洪水のように映し出された。
俺が練り上げた、最高の「見出し」と共に。
『あなたの信じた奇跡は、AIが作った嘘でした』
悲鳴と怒号が渦巻く中、俺は追手に捕らえられた。だが、満足感があった。俺たちの「記事」は、今この瞬間、世界中にリアルタイムで配信されている。
数週間後、俺は証拠不十分で釈放された。アスクレピオス製薬の株価は暴落し、幹部は軒並み逮捕。センチネル・プロトコルの存在も公になり、世界は巨大なスキャンダルに揺れた。
だが、人々の熱狂は長くは続かなかった。
テレビのワイドショーは、次のスキャンダルを求めて別の俳優の不倫を騒ぎ立て、ネットではセンチネルの事件を茶化すようなミームが流行り、やがて忘れ去られていった。まるで、俺が昔書いていたコタツ記事のように、消費され、流されて消えた。
カフェで沙耶と向かい合う。彼女は少し寂しそうに笑った。
「私たちの勝ち……だよね?」
「ああ、勝ちだ」俺はコーヒーを啜った。「だが、俺たちが戦っていた相手は、アスクレピオス製薬やセンチネルだけじゃなかった。俺たち自身を含む、全ての『読者』だったのかもしれないな」
真実そのものに価値はない。人々がそれを求め、面白がり、クリックして初めて意味を持つ。ならば、俺たちのやることは一つだ。
「なあ、沙耶。もっと面白いネタ、あるんだろ?」
俺はノートパソコンを開いた。指が自然とキーボードの上を踊る。世界にはまだ、暴かれるべき嘘と、それを必要とする読者がいる。俺たちは、真実という名の最高のエンターテイメントを、この虚構に満ちた世界に叩きつけ続ける。それが、嘘で生きてきた俺なりの、唯一の贖罪なのだから。
センチネル・プロトコル
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