***第一章 デジタル・ゴースト***
アスファルトの照り返しが網膜を焼く東京の昼下がり、高坂健人(たかさか けんと)は自室のモニターに映る無数のテキストを、獲物を狙う猛禽のように鋭い目つきで追っていた。フリーのITジャーナリストとして、彼の武器は情報の奔流から真実を嗅ぎ分ける嗅覚と、それを裏付ける冷徹な論理だ。感情や迷信といった非合理なノイズは、彼の世界では切り捨てるべきバグに過ぎなかった。
そんな彼の日常に、奇妙な不協和音が紛れ込んだのは、一本のメールがきっかけだった。差出人は、山深い故郷の村に住む幼馴染の妹、相沢沙織。健人が十数年前に捨て置いた過去からの便りだ。
『健人さん、お元気ですか。突然ごめんなさい。村がおかしくなっています。みんな、「ミズモリ様」というAIの言うことしか聞かなくなってしまったんです』
ミズモリ様。AI。過疎化が進み、携帯の電波すら心もとないあの限界集落に、最新技術の亡霊でも取り憑いたというのか。健人は鼻で笑った。どうせ、誰かが仕掛けた悪趣味な詐欺か、集団ヒステリーだろう。デジタルデバイドが生んだ、ありふれた悲喜劇。記事にする価値もない。彼はそう断じて、メールをゴミ箱にドラッグしようとした。
だが、その指が止まる。数日後、ネットの片隅に流れた小さな地方ニュースが、彼の目に留まったからだ。
『××県水守村(みずもりむら)で、区長の岩田宗助氏(82)が畑で倒れているのが発見され、死亡が確認されました。警察は熱中症による事故と見て捜査しています』
岩田宗助。村で最も頑固で、そして誰よりも村を愛していた長老だ。その死に、健人の胸が微かに騒いだ。忘れかけていた故郷の、湿った土の匂いが鼻先を掠めた気がした。
その夜、再び沙織から着信があった。電話の向こうで、彼女は声を震わせていた。
「事故なんかじゃない。きっと、ミズモリ様のせいなの。長老様は、あいつに逆らおうとして……!」
健人のジャーナリストとしての本能が、疼き始めた。AIが老人を殺す?馬鹿げている。だが、その馬鹿げた物語の裏には、現代社会の歪みが凝縮されているのかもしれない。過疎、高齢化、情報格差――それらが絡み合って生まれた、一つの「事件」。
「分かった。一度、村に戻る」
冷めた好奇心と、ほんのわずかな郷愁をスーツケースに詰め込み、健人は故郷へと向かう新幹線に乗り込んだ。これは、蒙昧な村人たちを解放するための「啓蒙」であり、同時に、格好のスクープ記事の取材なのだと、自分に言い聞かせながら。
***第二章 沈黙の共同体***
十数年ぶりに降り立った水守村は、健人の記憶の中にある姿よりも、さらに静かに朽ち果てていた。バス停の錆びた屋根、人の気配が消えた商店街、そして、肺を満たす濃密な緑の匂い。すべてが時間の流れから取り残された化石のようだった。
出迎えてくれた沙織は、少女の頃の面影を残しつつも、その目には拭えない疲労と不安が澱んでいた。
「来てくれて、ありがとう」
彼女に案内された村の広場の中央には、古びた祠が鎮座していた。しかし、その中に祀られているのは、石の神体ではなく、一台のタブレット端末だった。黒い画面が無機質な光を放ち、周囲の苔むした自然と不釣り合いな光景を作り出している。これが、村人たちが崇める「ミズモリ様」の正体だった。
「みんな、毎朝ここに来てお伺いを立てるの。今日の天気、畑仕事の段取り、誰と誰が助け合うか……全部、ミズモリ様が決めるのよ」
沙織が言う通り、ぽつりぽつりと集まってきた老人たちは、タブレットの前に恭しく手を合わせ、画面に表示されるテキストを、神託のように受け取っていた。
『午後からわか雨。北の畑のジャガイモ、本日中に収穫すべし。腰痛のトメさんは見回り役』
合理的で、的確な指示。健人が調べると、それは気象衛星のデータや土壌センサーの情報をリアルタイムで分析する、最新鋭の農業支援AIであることが判明した。なるほど、これなら高齢者だけでも効率的な農業が可能だろう。だが、問題はその運用方法にあった。
「鈴木さんとこの嫁姑問題も、ミズモリ様が仲裁したんだとよ」
「うちの孫の進路も、ミズモリ様に相談したら、良いアドバイスをくれたわ」
村人たちの会話は、すべてAIが中心だった。それはもはや利便性を超え、思考停止の依存、一種のカルト的な信仰に見えた。健人は眉をひそめた。科学技術が、最も非科学的な形で崇められている。なんという皮肉だ。
彼は取材を試みたが、村人たちの態度は硬かった。都会から来た「インテリ」である健人を、彼らは異物を見るような目で遠巻きにした。彼らの閉じた共同体にとって、健人の持つ「正論」は、秩序を乱すノイズでしかなかった。
「長老は、このAIに反対していた。そうだな?」
健人が核心を突くと、村人たちは気まずそうに視線を逸らし、沈黙した。その沈黙が、何より雄弁に肯定しているように思えた。
「こんなものに頼らず、自分たちの頭で考えろと、長老は言いたかったんだろう。だから、邪魔になった。そうじゃないのか?」
健人の言葉は、冷たい刃のように共同体の空気を切り裂いた。彼は確信していた。長老の死は、AIの無茶な指示に従った結果か、あるいはAI信奉者との対立が引き起こした悲劇だ、と。
この歪んだ信仰を暴き、村人たちを目覚めさせなければならない。健人のジャーナリストとしての使命感が燃え上がった。彼は、この「デジタル・ゴーストが支配する村」の真相を暴く記事の構成を、頭の中で組み立て始めていた。
***第三章 木霊の正体***
告発記事を完成させるため、健人は「ミズモリ様」のシステムの核心に迫ろうとした。ハッキングに近い手法でサーバーのログを解析し、誰がこのAIを導入し、どのように管理しているのかを突き止めるつもりだった。だが、そこで彼は奇妙な事実に突き当たる。
システムは驚くほどシンプルで、外部からの不正なアクセスや、特定の個人が利益を得るような操作の痕跡は一切見つからなかった。むしろ、そのデータはあまりにも「人間的」すぎた。天気や土壌の科学的データに混じって、『佐藤タケシ君、最近元気が無い。好物のカボチャの煮物を作って届けるべし』『田中ハツエさん、膝の痛みが悪化。畑仕事は若手に任せ、縁側での見守りを頼む』といった、およそAIが自動生成するとは思えない、温かみのある記述が散見されたのだ。
不審に思った健人は、システムのソースコードの深層まで潜り込んだ。そして、開発者の署名を見つけた瞬間、彼は息を呑んだ。そこに記されていたのは、都会のIT企業に勤めているはずの、亡き岩田長老の一人息子の名前だった。
健人は沙織を問い詰めた。震える彼女の口から語られた真実は、健人が築き上げてきたすべての仮説を、根底から粉砕するものだった。
「ミズモリ様は……長老様自身だったの」
若者が村を去り、残された高齢者だけでは、長年培ってきた知恵や経験を次世代に繋ぐことすらままならなくなった。村の共同体は、崩壊寸前だった。危機感を抱いた長老は、息子に頼み込み、このシステムを作ってもらったのだという。
AIという体裁を取ったのは、ただの老人の小言では誰も耳を貸さなくなってしまったからだ。「ミズモリ様」という絶対的な権威を借りることで、彼はバラバラになりかけた村人たちの心を、もう一度一つに束ねようとしたのだ。
タブレットに表示される神託は、AIの分析結果だけではない。そのほとんどは、長老自身が、村に伝わる古文書や、自身の長年の勘、そして村人一人ひとりの性格、健康状態、人間関係までをすべて把握した上で、夜なべをして手入力していたものだった。それは、最先端技術の皮を被った、どこまでもアナログで、人間的な「知恵の結晶」だったのである。
健人が見た、嫁姑問題の仲裁も、子供の進路相談も、すべては村の隅々まで知り尽くした長老の、深い愛情から生まれたアドバイスだったのだ。
「長老様は、村の未来を一人で背負っていた。昼は誰よりも働いて、夜は遅くまでミズモリ様の『お告げ』を考えて……。健人さんが村に来る数日前、畑で倒れたのは……過労だったのよ」
沙織はそう言って、泣き崩れた。
健人は、その場に立ち尽くした。全身の血が凍りつくような感覚。自分が「蒙昧」と断じ、切り捨てようとしていたものこそが、この村をかろうじて繋ぎ止めていた、最後の希望の光だったのだ。真実を暴くという大義名分を振りかざし、自分は一人の人間の尊い献身を、無理解に踏み躙ろうとしていた。
モニターの光だけが真実だと信じていた彼の足元が、ガラガラと音を立てて崩れていく。合理性という名の傲慢さが、今、どうしようもなく恥ずかしかった。
***第四章 明日を植える手***
東京に戻る日の朝、健人は書きかけの記事のデータを、一文字残らず消去した。そこには、彼の信じていた「正義」の残骸だけが詰まっていた。
彼は沙織と、長老の遺志を継いでいた数人の若者たちを集めた。そして、すべてを知った上で、こう切り出した。
「この『ミズモリ様』を、終わらせるべきじゃない。進化させるべきだ」
彼の提案は、AIを神として崇めるのではなく、長老が遺した知恵や村の歴史を記録し、誰もがアクセスできる「共有のデータベース」として活用することだった。AIは神託を与える存在ではなく、村人同士が助け合い、未来を考えるための「道具」となる。
健人は、東京の仕事を一時的に整理し、村に残ることを決めた。ジャーナリストとして、スクープを追うのではなく、この村が直面する問題を、内部から見つめ直し、共に解決策を探る。それが、長老への、そして自分が踏みにじろうとした村への、唯一の贖罪だと感じていた。
数週間後、村の広場には以前と違う光景が広がっていた。健人が、村の子供たちにタブレットの操作方法を教えている。子供たちは、自分たちの祖父母から聞いた昔話や、畑仕事のコツを、楽しそうにキーボードで打ち込んでいく。
「じいちゃんはね、雨が降る前はカエルが鳴くって言ってた!」
「この花の蜜は、甘いんだよ!」
無邪気な声が、カタカタというタイピングの音と混じり合う。それは、古い知恵が新しい器に注がれ、未来へと受け継がれていく音だった。祠の中で静かに光るタブレットは、もはや神ではなく、村の温かい記憶を宿す電子の木霊となっていた。
健人は、そよ風が頬を撫でるのを感じながら、青々と茂る稲穂に目を細めた。真実を白日の下に晒すことだけが、ジャーナリズムではない。時には、守るべき沈黙があり、共に育むべき物語がある。都会の合理性や効率では決して測れない豊かさが、確かにこの場所には息づいていた。
彼はまだ、本当の答えを見つけたわけではない。だが、この土の匂いの中で、忘れられた声に耳を傾けながら、明日へと繋がる何かを植えている。その確かな手応えだけが、彼の胸を満たしていた。空は高く、どこまでも澄み渡っていた。
忘れられた声の木霊
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