サイレント・スコア

サイレント・スコア

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アスファルトを叩く雨音が、安物のヘルメットの中で単調なノイズとなって響いていた。桐山健斗は、背中に背負ったデリバリーバッグの重みに耐えながら、古びた自転車のペダルを必死に漕ぐ。液晶に表示された配達先は、このエリアで最も坂の多い高級住宅街の一角だ。雨水が染みたスニーカーが、ペダルを踏むたびにぐちゅりと不快な音を立てる。

三年前まで、健斗は都心のベンチャー企業でコードを書いていた。自社開発のサービスが軌道に乗り、未来は明るいと信じていた。だが、パンデミックの波は容赦なく、会社はあっけなく倒産した。再就職はうまくいかず、日々の糧を得るために始めたのが、このギグワークだった。

システムは冷徹だ。顧客からの評価、配達速度、受注率。それら全てが「スコア」として数値化され、AIが次の仕事を割り振る。スコアが低ければ、稼げるはずのピークタイムに仕事は回ってこない。人間が評価するのではなく、人間がアルゴリズムに評価される世界。健斗は、見えない鎖に繋がれたデジタル奴隷のような気分だった。

その日、配達を終えたマンションのエントランスで、一人の男に声をかけられた。高級そうなコートを着た、人の良さそうな笑みを浮かべた男だった。
「お疲れ様です。大変でしょう、こんな雨の日に」
男は佐伯と名乗った。そして、信じがたい提案を口にした。
「あなたのそのアカウント、高評価で満たしてみませんか? 我々は『評価コンサルタント』です。少しの投資で、あなたのスコアは劇的に改善しますよ」
それは、システムの抜け穴を突いた不正行為への誘いだった。健斗は「結構です」と短く返し、その場を足早に立ち去った。プライドが、そんな取引を許さなかった。

健斗のささやかなプライドは、しかし、長くはもたなかった。妹からの一通のメッセージが、彼の心を抉った。「来期の学費、少しだけ待ってもらえないかな」。親のいない自分たちにとって、健斗は唯一の支えだった。だが、今の自分には妹の学費どころか、自分の来月の家賃さえ危うい。

追い打ちをかけるように、ある配達で理不尽な低評価を食らった。地図アプリの不具合で数分遅れただけだったが、顧客は容赦なく星一つの評価をつけた。その日を境に、スマートフォンの通知は目に見えて減った。AIが健斗を「質の低い配達員」と判断したのだ。雨に濡れた安アパートの自室で、健斗はスマートフォンの冷たい光を見つめながら、底なしの無力感に襲われた。社会から、システムから、拒絶されている。壁の向こうからは隣人の怒鳴り声が聞こえ、自分の存在がひどくちっぽけで、価値のないものに思えた。
震える指で、健斗は先日受け取った名刺を取り出した。そこに書かれた佐伯の電話番号を、彼はただ、じっと見つめていた。

佐伯のオフィスは、きらびやかな高層ビルの一室にあった。彼は健斗を革張りのソファに座らせ、システムの闇を事もなげに語った。
「AIなんて単純なものですよ。高評価のシグナルを大量に送れば、アルゴリズムは簡単に騙せる。我々はゴーストアカウントを何千と持っていますからね」
佐伯は笑いながら続けた。「需要があれば供給が生まれる。これも立派なビジネスです。高評価を売ることもあれば、その逆もある。邪魔なライバル店に低評価の雨を降らせてほしい、なんて依頼も多いんですよ」
その言葉に、健斗は背筋が凍るのを感じた。これは単なるお助けビジネスではない。見えない場所で、誰かの生活を破壊するシステムなのだ。
だが、妹の顔がちらつき、健斗はなけなしの金を払って「スタンダード・パッケージ」を購入した。
効果はてきめんだった。翌日から、彼のスコアは面白いように上昇し、高単価の依頼がひっきりなしに舞い込むようになった。収入は倍になり、妹への仕送りもできるようになった。罪悪感はあったが、金の温かさはそれを麻痺させた。自分はシステムを乗りこなしているのだと、健斗は錯覚し始めていた。

そんなある日、配達員の待機場所で、顔見知りのベテラン配達員、田所が悄然としているのを見かけた。田所は真面目な仕事ぶりで誰からも信頼されていた男だ。
「どうしたんですか?」
「……アカウント、停止された。誰かに集中して低評価をつけられたらしくてな。理由も分からん。もう、おしまいだ」
力なく笑う田所の姿に、健斗は佐伯の言葉を思い出した。『邪魔なライバルを蹴落とす』。自分が安穏と稼いでいる裏で、田所のような真面目な人間がシステムから弾き出されている。健斗の胸を、鋭い痛みが貫いた。
その夜、佐伯から新たな「ビジネス」の誘いがあった。大手飲食チェーンからの依頼で、競合となる個人経営の小さな洋食屋に、組織的な低評価レビューを書き込む仕事だという。提示された報酬額は、健斗の月収に匹敵した。
佐伯が送ってきた店の名前に、健斗は息を呑んだ。そこは、数年前に亡くなった母が好きだった店で、妹の高校合格祝いに三人で食事をした、思い出の場所だった。

健斗は、思い出の洋食屋の前に立っていた。ガラス窓の向こうで、老夫婦が忙しそうに働いている。あの頃と何も変わらない、温かい光景だった。システムに評価され、スコアに一喜一憂し、金のために心を売り渡そうとしている自分が、ひどく汚らわしい存在に思えた。彼はポケットの中でスマートフォンを強く握りしめた。その冷たい金属の感触が、自分を縛り付けていた鎖のように感じられた。

もう、スコアに支配されるのは終わりだ。

健斗は佐伯からの電話に出ると、震える声で、しかしはっきりと依頼を断った。そして、これまで集めていた佐伯との全てのやり取り、不正の仕組みを記したメモ、振込の記録。それら全てを匿名で一つのファイルにまとめ、付き合いのあったウェブメディアのジャーナリストに送信した。自分の不正も露見し、この仕事を失うだろう。だが、後悔はなかった。送信ボタンを押した指先は、不思議なほど軽かった。

一週間後、ニュースサイトのトップに「ギグワーク評価経済の闇を暴く」という見出しが躍った。佐伯の会社は摘発され、プラットフォーム企業もシステムの脆弱性を認めて改善を約束した。
健斗のアカウントは、その日のうちに凍結された。

がらんとしたアパートの部屋で、健斗は窓の外を流れる雲を眺めていた。貯金は底をつき、明日からの生活のあてもない。だが、彼の心は奇妙なほど晴れやかだった。システムという見えない支配者から解放され、ようやく自分の足で立っているような感覚があった。
彼は埃をかぶったノートパソコンを開くと、空白のドキュメントファイルに「履歴書」と打ち込んだ。何ができるか分からない。また失敗するかもしれない。それでも、スコアではなく、自分の意志で未来を選ぶのだ。カタ、とキーボードを叩く乾いた音が、静かな部屋に響き始めた。それは、新しい物語の始まりを告げる、小さな産声のようだった。

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