ファインダー越しの蜃気楼

ファインダー越しの蜃気楼

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シャッターを切る音だけが、僕の世界のBGMだった。

高校二年の夏。僕は写真部の部室棟と屋上を往復するだけの、色の薄い毎日を送っていた。낡은ニコンのファインダーを覗いている時だけが、唯一、世界に色がつく瞬間だった。人付き合いが苦手な僕にとって、レンズは世界との間に置く、心地よい防護壁のようなものだった。

そんな僕のレンズが、いつも追いかけてしまう被写体があった。同じクラスの宮沢夏帆。太陽をぎゅっと絞って作ったみたいに笑う、バスケ部のエースだ。コートを駆ける彼女の躍動感、真剣な眼差し、汗で濡れた髪。そのどれもが被写体として魅力的で、僕は気づけば彼女の写真ばかりを撮っていた。

けれど、撮れないものが一つだけあった。彼女の、本当の笑顔だ。

僕がカメラを向けていることに気づくと、彼女は決まってピースサインをする。その笑顔は完璧に可愛い。でも、僕が本当に撮りたいのは、そんな作られた笑顔じゃなかった。友達と馬鹿みたいに笑い合っている時の、あの無防備で、心の底から湧き上がってくるような笑顔。それだけが、どうしても僕のレンズは捉えきれないでいた。

「今年の写真コンテストのテーマは『瞬間』だ」。顧問の言葉が、僕の背中を押した。宮沢夏帆の最高の笑顔を撮る。それが僕の、この夏に課せられた途方もない目標になった。

勇気を振り絞って「モデルになってほしい」と頼むと、夏帆は「え、私が? いいよ!」と二つ返事で快諾してくれた。週末、僕らは公園や海辺、様々な場所へ出かけた。けれど、結果は同じだった。カメラを向ければ、彼女は「はい、チーズ」と言わんばかりの優等生の顔になる。

「ごめん、水島くん。私、撮られるのって、なんか苦手なんだよね」
砂浜に座り込み、彼女はばつが悪そうに笑った。夕日が彼女の横顔をオレンジ色に染めている。僕はシャッターを押せなかった。ファインダーを覗いていない時の彼女との距離感が、分からなかったからだ。

「宮沢さんは、どうしてそんなにバスケが好きなの?」
沈黙が怖くて、僕はありきたりな質問を口にした。彼女は少し驚いたように僕を見ると、遠い目をしてポツリポツリと話し始めた。負けず嫌いなこと。チームメイトとの絆。去年の大会で負けた悔しさ。ファインダー越しではない彼女の言葉は、不思議なほどすんなりと僕の心に染み込んでいった。僕も、いつの間にかカメラのこと、自分のことを話していた。僕らは被写体とカメラマンではなく、ただのクラスメイトとして、初めて言葉を交わした気がした。

それでも、最高の笑顔は撮れないまま、コンテストの締め切り前日を迎えてしまった。焦燥感だけが募っていく。僕が撮りたいのは一体、何なんだろう。彼女の写真なのか、それとも――。

放課後、僕は最後の賭けのように、彼女をいつもの屋上に呼び出した。傾きかけた西日が、僕と彼女の長い影をコンクリートに描いている。金網のフェンスに寄りかかり、街を見下ろす夏帆に、僕はレンズを向けた。だが、シャッターは切れなかった。

「……もう、やめる」
僕は静かにカメラを下ろした。夏帆が不思議そうな顔でこちらを振り返る。
「え? なんで?」
「ごめん。俺、ずっと間違ってた」
心臓がうるさいくらいに鳴っていた。レンズという壁を取り払った今、目の前にいる彼女が、ひどく眩しく見えた。
「俺、君の最高の笑顔を撮りたいなんて言ってたけど、本当は……ただ、君と話がしたかっただけなんだと思う。カメラがないと、どうやって話しかければいいか、分からなかっただけで」

不器用な言葉が、震えながら口からこぼれ落ちていく。ああ、格好悪い。きっと呆れられる。そう思った瞬間だった。

「……ぷっ、あはははは!」

夏帆が、突然吹き出した。最初は小さな笑い声だったが、次第にこらえきれなくなったように、お腹を抱えて笑い始めた。目にはうっすらと涙が浮かんでいる。それは僕がずっと追い求めていた、どんな写真にも収めきれない、嘘偽りのない、太陽みたいな笑顔だった。

僕は、その光景をただ呆然と見つめていた。カメラを構えることなんて、すっかり忘れていた。撮らなきゃ、なんて衝動は微塵も湧いてこなかった。この一瞬は、フィルムやデータなんかじゃなく、この胸に直接焼き付けたい。心の底から、そう思った。

結局、僕はコンテストに彼女の写真を出さなかった。代わりに、あの日の夕方、誰もいなくなった体育館に夕日が差し込むバスケットコートを撮った一枚を出品した。タイトルは『君がいた場所』。結果はもちろん、選外だった。

コンテストの結果発表があった日の帰り道。校門のそばで、夏帆が僕を待っていた。
「私の写真、出さなかったんだね」
少しだけ、寂しそうな声だった。僕は少し迷ってから、正直に答えた。
「うん。あれは、俺だけの宝物だから」
彼女は一瞬きょとんとして、それから、あの日のように、はにかむように笑った。

僕らは並んで、茜色に染まる坂道を下り始めた。隣にはカメラもファインダーもない。けれど、僕の世界は今までで一番、鮮やかで、確かな色をしていた。これから始まるありふれた放課後が、どんな傑作よりも眩しい「瞬間」になることを、僕は確信していた。

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