高校二年の夏休みを目前にした、蒸し暑い放課後。俺、夏目陽太は、所属する写真部の部室で埃と格闘していた。大掃除という名目で押し付けられた、古びたアルバムの整理。退屈な作業の繰り返しに、ため息が漏れた。
その時だった。あるアルバムの最後のページに、一枚だけ妙な写真が挟まっていた。数十年前であろう、色褪せた学校の屋上からの風景。だが、その空が写る余白に、万年筆で書かれたような奇妙な記号が添えられていたのだ。コンパスと定規で描かれたような、幾何学的な紋様。
「何それ、面白そう!」
背後から突然響いた声に、心臓が跳ねた。振り返ると、クラスメイトの水瀬凪が、目をキラキラさせて写真を覗き込んでいた。彼女は好奇心の塊みたいなやつで、いつも退屈を吹き飛ばす嵐を連れてくる。
「宝の地図だよ、きっと! この夏、最高のイベントの予感!」
「いや、ただの古い写真だって……」
「つまんないこと言わないの。この暗号、絶対に解いてみせるんだから! 夏目くんも、もちろん手伝うでしょ?」
有無を言わさぬ笑顔に、俺の退屈な夏休みは、いとも簡単に乗っ取られた。
凪の強引な宣言から数日後、僕らは夏休み初日から図書館にいた。凪の推理によれば、暗号の一つは図書館の郷土史コーナーを示しているらしい。
「見て、この本の背表紙の模様、暗号の一部とそっくり!」
凪が指さした古びた『わが町の百年史』。その特定のページを開くと、ページの隅に小さな文字で「ジョンが指し示す先へ」と書き込みがあった。
「ジョン……?」
「理科室の、骨格標本!」
凪は答えを閃くと、俺の手を引いて走り出す。彼女のそんなところが、眩しかった。
理科準備室に忍び込むと、白衣を着た骨格標本、通称「ジョン」が不気味に佇んでいた。彼の白く長い指が指し示していたのは、薬品棚の裏。手を入れて探ると、錆びついた小さな鍵が指先に触れた。
「やった!」と無邪気に笑う凪。次は音楽室だ。鍵が示すのは、”開かずのピアノ”と呼ばれる古いグランドピアノに違いなかった。
真夜中の学校に忍び込むなんて、映画の中だけのことだと思っていた。用務員の古賀さんに見つからないよう息を殺し、月明かりだけが頼りの廊下を進む。隣を歩く凪の緊張した息遣いが聞こえて、妙にドキドキした。
音楽室に辿り着き、錆びた鍵を鍵穴に差し込む。ぎ、と鈍い音を立てて、鍵盤を覆う蓋が開いた。中には宝箱などなく、ただ一枚の楽譜が置かれていただけ。しかし、その楽譜に書かれていたのは音符ではなかった。
『最後の宝は、始まりの場所。空に一番近い教室で待つ』
「始まりの場所……」俺は呟いた。「あの写真が撮られた、屋上だ」
立ち入り禁止の札を乗り越え、螺旋階段を駆け上がる。屋上へ出る扉を開けると、生温かい夜風が僕らの汗を撫でた。眼下には、宝石を散りばめたような街の夜景が広がっている。
写真に写っていたのと同じ、フェンスの一角。そこに、あの奇妙な記号が彫られていた。そして、その真下のコンクリートの僅かな窪みに、小さなブリキの箱が隠されていた。
凪と二人、固唾を飲んで蓋を開ける。中に入っていたのは、金貨でも宝石でもなかった。一枚の色褪せた写真と、折り畳まれた手紙。
写真は、楽しそうに笑う制服姿の男女が写っていた。きっと、この暗号を作った先輩たちなのだろう。手紙には、こんな言葉が綴られていた。
『未来の後輩へ。
この謎を解き明かした君たち、宝物は見つかったかい?
僕たちが見つけた宝物は、金銀財宝じゃなかった。退屈だった日常を、忘れられない冒険に変えてくれた、この時間そのものだった。
君たちも、最高の宝物を見つけられたことを願っているよ』
手紙を読み終えた俺と凪は、顔を見合わせて、どちらからともなく吹き出した。
「そっか……宝物は、これだったんだ」
凪が夜景を見つめながら呟く。その横顔が、街の光を浴びてキラキラと輝いていた。
そうだ。宝物は、このドキドキした時間だ。図書館で頭を悩ませた午後も、理科室で埃にまみれた瞬間も、真夜中の校舎に忍び込んだスリルも。そして、今、隣にいる凪と見ているこの景色も。全部が、俺たちの宝物だ。
俺は無意識に、首から下げていたカメラを構えた。ファインダー越しに見た凪の笑顔は、今まで撮ったどんな被写体よりも鮮やかで、力強かった。
カシャッ。
軽いシャッター音が、夏の夜空に吸い込まれていく。
俺たちの、忘れられない冒険が始まった合図みたいに。
この夏は、まだ始まったばかりだ。
夏空の暗号
文字サイズ: