「空を飛びたいんだ。自転車で」
その言葉を初めて聞いた時、俺、高城蓮は本気でこいつの頭を心配した。
発言の主は、神谷航。同じクラスの、分厚い眼鏡の奥でいつも何か別の世界を見ているような男だ。科学準備室に半分住み着いている変人として、校内ではそれなりに有名だった。
俺はといえば、陸上部の元エース。鳴り物入りで入部し、一年で県大会記録を塗り替えた。だが、その栄光は昨年の秋、一本の靭帯と共に脆く断ち切れた。以来、走ることから逃げ、退屈な灰色の時間をやり過ごすだけの毎日。そんな俺に、神谷は言ったのだ。
「君の脚力が必要だ。伝説のエンジンになってくれ」
伝説、なんて言葉に心が動いたわけじゃない。ただ、神谷の眼鏡の奥の瞳が、本気で燃えていたからだ。俺がとっくの昔に失くしてしまった、どうしようもない熱量。それに当てられて、気づけば俺は、廃部になった地学部の部室にいた。
そこにはもう一人、先客がいた。美術部の星野汐里だ。スケッチブックを片手に、少し困ったように笑っている。聞けば、翼のデザインと軽量化のための構造設計を、神谷に半ば強引に頼まれたらしい。
こうして、科学オタクと元スプリンター、そして芸術家肌のデザイナーという、奇妙な三人組による「人力飛行プロジェクト」が、秘密裏に始まった。
僕らの飛行機の名は「イカロス号」。神話の英雄の名を借りた、自転車ベースのグライダーだ。フレームは解体屋で手に入れたロードバイク。翼はホームセンターで買えるアルミパイプと、特殊な布。材料費は、けちな小遣いを出し合って捻出した。
夏休みが、僕らの戦場になった。
神谷は、航空力学の数式がびっしり書き込まれたノートを片手に、ミリ単位の調整を指示する。俺は、来るべきフライトに備えて、錆びついた脚に再び火を入れるためのトレーニングを始めた。星野は、美しい流線形の翼を、まるで彫刻を彫るように作り上げていく。
汗と、油と、接着剤の匂いが充満する蒸し暑い部室。鳴り響く蝉の声。時々、窓から入り込む潮風が、三人の火照った頬を撫でていった。喧嘩もした。意見がぶつかり、作業が止まった日もある。それでも、翌日には誰ともなく部室に集まり、またイカロス号に向き合うのだった。灰色だった俺の世界に、少しずつ色が戻っていくのを感じていた。
だが、秘密は長くは続かない。僕らの計画は、堅物の物理教師に見つかり、即刻中止を命じられた。
「危険すぎる。無謀だ。これは遊びじゃないんだぞ!」
正論だった。正論はいつだって、夢を殺すためのナイフになる。部室には鍵がかけられ、イカロス号は体育倉庫の奥に仕舞われてしまった。
夏休み最後の日。
三人は、夕暮れの海岸にいた。誰も何も言わない。水平線に沈んでいく太陽が、僕らの短い夏に終わりを告げていた。
「このままじゃ、終われない」
最初に口火を切ったのは、いつもおとなしい星野だった。
「そうだよな」俺は頷く。
神谷は、眼鏡を押し上げ、静かに言った。
「作戦を立てよう」
その夜、僕らは最後の馬鹿をやることに決めた。
午前二時。用務員室からこっそり鍵を拝借し、体育倉庫に忍び込む。月明かりを頼りに、解体したイカロス号を運び出し、再び組み立てる。僕らの手際は、一夏の経験で見違えるほど良くなっていた。
夜明け前。僕らは、町で一番長い「天狗坂」の頂上にいた。眼下には、朝靄に煙る町と、静かな海が広がっている。ここから一気に駆け下り、海岸でテイクオフする計画だ。
俺はイカロス号にまたがった。ペダルにかけた足が、恐怖と興奮で震える。
「高城君、リフトオフ速度は時速四十キロ。それを下回ったら失速する。頼んだぞ」
神谷の声は、いつになく真剣だ。
「信じてるから」
星野が、翼の端をそっと撫でた。
俺は頷き、大きく息を吸った。そして、ペダルを全力で踏み込んだ。
坂道を転がり落ちるように加速していく。風が轟音となって耳を打ち、景色が猛烈な速さで後ろへ飛んでいく。怖い。でも、それ以上に、心が躍っていた。
「もっと!もっと速く!」
神谷の叫び声が聞こえる。俺は、残っていた最後の力を振り絞り、壊れたはずの脚でペダルを回し続けた。坂の終わり、砂浜へのスロープが見えた。ここだ!
「飛べぇぇぇぇっ!」
俺は、神谷と星野の叫び声を背中で聞きながら、ハンドルをぐっと引き上げた。
ふわり、と体が浮いた。
世界から音が消えた。自転車の振動も、風の音も、何もかも。眼下には、朝日を浴びてきらめく砂浜。ほんの数秒。地上から、わずか数メートル。
それは、あまりにも短く、不格好な飛翔だった。
すぐに機体はバランスを崩し、イカロス号は砂浜に優しく不時着した。翼は片方が折れ、フレームも歪んでしまった。大失敗だ。
でも、俺は笑っていた。駆け寄ってきた神谷も星野も、涙を流しながら、満面の笑みを浮かべていた。
僕らは飛んだのだ。確かに、あの夏の空を。
壊れたイカロス号の残骸と、三人の笑い声。空には、明けの明星がダイヤモンドのように輝いていた。馬鹿げていて、無謀で、どうしようもなく美しい、僕らの夏の終わりだった。
イカロスたちの夏
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