世界は褪せたセピア色の写真みたいだった。埃っぽい教室も、気怠いチャイムの音も、窓の外で揺れるケヤキの葉でさえも、僕、水島湊の目にはすべてが彩度を失って映っていた。
所属する写真部も、惰性の産物だ。シャッターを切る瞬間の、世界を四角く切り取る感覚が少しだけ好きなだけ。そこに情熱なんてものはなかった。放課後の屋上。錆びたフェンスに寄りかかり、街が夕陽に染まるのを無感動に眺めるのが、僕の日常だった。
その日常に、彼女は突然、鮮やかな色彩を持って現れた。
「やっぱり、ここの夕焼けは特別だね」
声のした方へ振り向くと、天野夏帆が立っていた。長期の病欠から復帰したばかりのクラスメイト。色素の薄い髪が、西日を吸い込んでキラキラと光っている。僕が写真部の特権で管理している屋上の鍵を開けていると、いつの間にか後ろにいたらしい。
「別に。どこで見たって同じだろ、夕焼けなんて」
ぶっきらぼうに返した僕に、彼女は困ったように笑った。
「ううん、違うよ。この場所から、特別な日にだけ見える『魔法のグラデーション』があるんだ。空が、紫色に燃えるの」
それが、僕と彼女の課題の始まりだった。夏帆は、入院中に見た一枚の写真が忘れられないのだと言う。この屋上から撮られた、空が紫とオレンジに溶け合う幻のような夕景。それをもう一度、自分の目で見たいのだ、と。
それから毎日、夏帆は天気図とにらめっこしては僕の元へやって来た。「湊くん、今日の雲の感じ、いけるかも!」。その屈託のない笑顔に根負けして、僕は毎日のように彼女と屋上で空を待つことになった。
最初は義務感だった。けれど、他愛もない話をしながらレンズを向けると、彼女はいつも楽しそうに笑った。ファインダー越しに見る彼女の笑顔は、僕のモノクロの世界に、少しずつ色を取り戻させていくようだった。気づけば僕は、夕焼けよりも、夕焼けを見つめる彼女の横顔を撮ることに夢中になっていた。この時間が永遠に続けばいい。そんな、らしくないことまで考え始めていた。
「明日だよ、湊くん。きっと見られる」
ある日、夏帆が興奮した声で言った。あらゆる気象条件が、完璧に揃う日。僕の心臓も、期待に高鳴っていた。撮ってやる。最高の写真を。そして、隣で歓声を上げる君の顔も、一緒に。
だが、運命は残酷だった。その日、彼女の席は空っぽだった。体調を崩して休んだ、と担任が告げた。
一人で屋上のドアを開ける。冷たい風が頬を撫でた。やがて、その瞬間は訪れた。西の空が、あり得ないほどの色彩で燃え上がったのだ。オレンジがピンクに、ピンクが深い紫に、そして夜の藍色へと溶け合っていく。まさに、魔法のグラデーション。奇跡の光景だった。
僕は夢中でシャッターを切り続けた。カシャ、カシャ、と乾いた音が響く。完璧な構図、完璧な光。なのに、どうしようもない空虚感が胸を締め付けた。ファインダーを覗く。そこにはただ、美しいだけの風景が広がっている。違う。これじゃない。
僕が見たかったのは、この絶景じゃない。この絶景を見て、息を呑み、輝く瞳で僕を振り返る、君の顔だったんだ。
僕は、いつの間にか彼女以上に、この夕焼けを二人で見ることを渇望していた。その事実に気づいた時、目の前の絶景はただの色の集合体にしか見えなくなった。
数日後、僕は現像した写真を持って、彼女の家を見舞った。病室のベッドの上で、夏帆は少し痩せたように見えた。
「すごいのが撮れたんだ」
差し出した写真に、彼女は「わぁ…」と声を漏らし、指でそっとなぞった。
「きれい…。でもね」
彼女はふっと顔を上げて、窓の外を見た。
「やっぱり、自分の目で見たいな。本物は、もっとすごい色なんでしょう?」
その言葉に、僕は救われた気がした。そうだ、終わりじゃない。
「うん。だから、また一緒に見に行こう。何度でも付き合うから」
僕はカメラを構えた。
「俺、待ってるから」
ファインダーを覗くと、病室の窓から差し込む平凡な光を浴びて、柔らかく微笑む彼女がいた。特別な夕焼けよりも、何倍も、何百倍も。その姿は僕の目に焼き付いた。
カシャ。
僕の青春が、確かな色を持って動き出した音がした。
ファインダー越しのグラデーション
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