ファインダー越しの青い熱

ファインダー越しの青い熱

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夏の光は、あらゆるものの輪郭を曖昧にする。アスファルトから立ち上る陽炎、むせ返るような緑の匂い、そして僕の心の中にある焦燥感さえも、じりじりと焼いて溶かしていくようだった。

僕、水野蓮は、写真部の部室で現像液のすっぱい匂いに包まれながら、ピンセットでつまみ上げた一枚の印画紙を睨みつけていた。そこに写っているのは、全国大会出場を決めた野球部のエースが、ボールを投げ込む瞬間。完璧なフォーム、筋肉の躍動、飛び散る汗。技術的には、これまでで最高の出来のはずだった。

なのに、心は少しも動かない。まるで精巧な標本みたいに、時間が止まって見えるだけだ。

「……また優等生な写真」

背後から聞こえた声に、びくりと肩が震えた。振り返ると、同じ写真部の佐伯渚が、腕を組んで壁に寄りかかっている。ショートカットの髪が、窓から差し込む西日に透けて金色に輝いていた。

「佐伯さん……」
「躍動、でしょ? 今年の夏のコンテストのテーマ。悪くはないけど、なんかこう、心臓を掴まれる感じがしないんだよね、水野くんの写真は」

悪気なく言い放つ彼女の言葉は、いつも正しい。佐伯の撮る写真は、ピントが甘かったり、構図が大胆すぎたりするのに、見る者の感情を激しく揺さぶる力があった。路地裏で睨み合う野良猫、豪雨の中で一心不乱にペダルを漕ぐ新聞配達の少年。彼女のファインダーは、世界の剥き出しの魂を捉えているかのようだった。僕が喉から手が出るほど欲しいのに、決して手に入らない何かを、彼女は当たり前のように持っていた。

「……わかってるよ」

僕はそれだけを呟いて、失敗作の印画紙をゴミ箱に投げ捨てた。夏の時間は、僕の焦りとは無関係に、刻一刻と過ぎていく。

それから数日、僕はまるで何かに憑かれたようにシャッターを切り続けた。だが、撮れば撮るほど、被写体との間に分厚いガラスがあるような感覚に陥っていく。ファインダーを覗くと、世界が途端に色褪せて見えるのだ。

そんなある日の放課後だった。機材の片付けが長引き、一人になった部室で窓の外をぼんやり眺めていると、旧体育館の裏手で、何かが夕陽を浴びてキラキラと光るのが見えた。目を凝らすと、それは人の姿だった。

佐伯さんだった。

彼女は制服のスカートのまま、イヤホンを耳につけ、まるで舞台の上にいるかのように一人で踊っていた。それはバレエのようでもあり、コンテンポラリーダンスのようでもあった。しなやかな腕が空を切り、軽やかなステップが乾いた土を蹴る。普段の快活な彼女とはまるで違う、悲しいほどに真剣な表情。額に滲む汗が、夕陽を受けて宝石のようにきらめいた。

その動きは、決して完璧ではなかった。時折バランスを崩し、苦しそうな表情で天を仰ぐ。それでも彼女は踊るのをやめない。それは誰かに見せるためのものではない、彼女自身の内側から溢れ出す、抑えきれない衝動そのものだった。僕はその姿に、釘付けになった。

ああ、これだ。

僕が撮りたかった「躍動」は、これなんだ。

息を殺して部室を飛び出し、愛用のフィルムカメラを握りしめて旧体育館の裏へと走った。心臓が早鐘のように鳴っている。見つかったら怒られるかもしれない。けれど、今この瞬間を撮らなければ、僕はきっと一生後悔する。

物陰に隠れ、そっとカメラを構えた。ファインダー越しに見た佐伯さんの姿は、神々しいほどに美しかった。汗、土埃、苦悶と歓喜が入り混じった表情、夕陽に照らされた筋肉の震え。そのすべてが、命の叫びとなって僕の網膜に焼き付いてくる。

僕は夢中でシャッターを切った。カシャン、と乾いた音が、彼女の荒い呼吸と重なる。すると、その音に気づいたのか、彼女の動きがぴたりと止まった。ゆっくりとこちらを振り向く、潤んだ大きな瞳。その目には、驚きと、ほんの少しの戸惑いが浮かんでいた。

まずい、と思った時にはもう遅い。彼女はゆっくりと僕の方へ歩いてきた。

「……見てたの?」
「ご、ごめん。あまりにも……綺麗だったから」

咄嗟に出たのは、ありのままの言葉だった。彼女は僕の手の中のカメラに目を落とし、それから僕の顔をじっと見つめた。何かを言おうとして、やめる。その代わりに、ふっと息を吐いて、照れくさそうに笑った。

「そっか……。変なとこ、見られちゃったな」
「変じゃない。すごい、と思った。魂が、震えるみたいだった」

僕の言葉に、彼女は少しだけ目を見開いた。夕暮れの光が、彼女の頬を淡い茜色に染めている。

「……ありがとう」

その一言は、夏の終わりの風みたいに、僕の心を優しく撫でていった。

結局、その時撮った写真がコンテストでどうなったのか、僕の記憶は少し曖昧だ。ただ、あの日の夕陽の色と、現像液の中でゆっくりと浮かび上がってきた彼女の姿だけは、今も鮮明に覚えている。

ファインダー越しに捉えた、汗と涙に濡れたその横顔。それは僕が初めて、誰かの評価のためではなく、自分の心を揺さぶられたから撮った、たった一枚の「本物」だった。

それ以来、僕の写真は少しだけ変わった気がする。そして、佐伯さんと部室で顔を合わせる時の空気も、ほんの少しだけ。僕たちはまだライバルで、けれど、あの夕暮れを共有した、名前のない共犯者のようでもあった。ファインダーを覗くたび、僕はあの青い熱を思い出す。それはきっと、僕の青春そのものの色だった。

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