「午前零時、旧校舎の屋上で待っていると、十年後の未来の自分に会えるらしい」
使い古された都市伝説が、俺たちの間で妙な熱を帯びて囁かれ始めたのは、茹だるような夏休みを目前にした頃だった。進路希望調査の白紙を前に、俺、水島湊は途方に暮れていた。隣の席の高槻陽介は「プロバスケ選手!」と迷いなく書き込んでいる。その潔さが眩しくて、俺は目を逸らした。
「なあ湊、試してみようぜ、その噂」
放課後、空っぽのペットボトルを器用に指で回しながら、陽介がニヤリと笑った。
「未来の俺に会ってさ、『どうすりゃプロになれる?』って聞くんだ。そんでお前は、『何になりたいですか?』って聞けよ」
「馬鹿馬鹿しい。ただの噂でしょ」
呆れたように言ったのは、幼馴染の早乙女莉子だ。彼女は几帳面な字で埋められた進路調査票を、とっくに提出済みだった。
「でもさ」俺は口を開いていた。「もし、本当だったら?」
未来が見えない。焦りだけが募る。藁にもすがりたかった。莉子の眉がわずかに顰められ、陽介の目が「だろ?」とでも言うように輝いた。かくして、俺たち三人の、真夏の夜の小さな冒険が決定した。
決行は、夏休み前の最後の金曜日。計画は陽介が立てた。彼のバスケで鍛えた身体能力と、俺の写真部で培った観察眼は、意外なところで役立った。警備員の巡回ルート、乗り越えやすいフェンスの場所、旧校舎へ続く渡り廊下の窓の緩み。まるでスパイ映画のようで、不謹慎にも胸が高鳴った。莉子は最後まで「やめようよ」と言っていたが、結局、一番詳細な校内見取り図を用意してくれたのは彼女だった。
その夜、俺たちは闇に紛れて母校に忍び込んだ。生温い夜風が、緊張で火照った頬を撫でる。月明かりが照らす廊下は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、自分たちの足音だけが不気味に響いた。錆び付いた階段を軋ませながら、目的の場所、旧校舎の屋上へと続く扉の前に立つ。時計の短針は、てっぺんを指そうとしていた。
「本当に、来るのかな」莉子の声が震えている。
「来るに決まってんだろ」陽介は強がっているが、声が上擦っていた。
ゴクリと唾を飲み込み、俺は扉に手をかけた。重い金属の感触。ゆっくりと押し開けると、街の灯りが目に飛び込んできた。眠らない街の光の海が、眼下に広がっている。
午前零時。
俺たちは息を殺して待った。一分、二分……。何も起こらない。吹き抜ける風が、俺たちの間の沈黙を通り過ぎていくだけだ。
「……だよな。やっぱ、ただの噂か」
陽介が力なく笑った、その時だった。
背後で、カチャリ、と音がした。さっき俺たちが開けた扉が、再び開いたのだ。三人の肩が同時に跳ねる。ゆっくりと振り返ると、そこに立っていたのは、警備員でも、ましてや未来の自分でもなかった。
「……佐伯、先生」
そこにいたのは、鬼の佐伯と恐れられる初老の物理教師だった。白衣ではなく、くたびれたシャツを着ている。先生は驚く俺たちを一瞥すると、ふう、と息を吐いて空を仰いだ。
「お前たちも、未来を探しに来たクチか」
先生の口から出たのは、説教ではなく、穏やかな問いだった。俺たちは顔を見合わせる。
「あの噂はな」佐伯先生は、まるで昔話を語るように続けた。「俺が作ったんだ。もう、三十年も前になるかな」
先生は語った。かつて、俺と全く同じように、将来に悩む一人の生徒がいたこと。何をしても続かず、自分には何もないと塞ぎ込んでいた生徒を、どうにか励ましたかったこと。
「だから、そいつに言ってやったんだ。『未来なんて、どこかに完成品が落ちてるわけじゃない。午前零時、誰もいない場所で、たった一人で自分と向き合え。未来の自分に会うんじゃない。未来を探しに来た、今の自分に会いに行くんだ。そのスリリングな冒険こそが、お前の最初のグラフィティ――壁に描く、第一歩になる』ってな」
先生は悪戯っぽく笑った。
「どうだ、見つかったか?十年後の自分は」
俺は首を横に振った。何も見えなかった。でも、何かが変わった気がした。心臓がまだ、ドキドキと高鳴っている。それは恐怖ではなく、紛れもない興奮だった。白紙の未来が、怖いだけじゃなくなった。何を描こうか。どんな色を使おうか。そんなワクワクが、胸の奥から湧き上がってくる。
先生は「早く帰れ。朝が見たいなら、家の窓から見ることだ」と言って、俺たちに背を向けた。
こっそりと学校を抜け出し、三人で夜道を歩く。東の空が、インクを垂らした水面のように、少しずつ白み始めていた。俺は無意識に、首から下げていたカメラを構えた。
「何を撮るの?」莉子が不思議そうに尋ねる。
ファインダー越しに、夜と朝が混じり合う世界が見えた。まだ何色とも言えない、無限の可能性を秘めた空。
「未来、かな」
俺はそう言って、シャッターを切った。カシャッという乾いた音が、新しい一日の始まりを告げていた。横で、陽介と莉子が笑った気がした。
ゼロ・アワー・グラフィティ
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