ピコン、と軽快な電子音が鳴り、俺の左手首に埋め込まれたデバイスが淡く発光した。網膜に投影されたスコアは「921」。上位7%に属するエリート市民の証だ。
「高槻さん、さすがですね。今月も安定して900オーバーですか」
向かいの席の同僚が羨望の眼差しを向ける。市役所の市民データ管理課に勤める俺、高槻航(たかつきわたる)にとって、このスコアは全てだった。
この国では、AI「ミカガミ」が全国民の行動を24時間監視し、その社会的有用性をスコア化している。買い物、SNSでの発言、交通マナー、納税実績、ボランティア活動。全ての善行が悪行も、ミカガミの冷徹な瞳からは逃れられない。高スコア保持者はローン金利や保険料が優遇され、良質な公共サービスを享受できる。逆に低スコアの者は「デフィシット(欠陥者)」の烙印を押され、就職や住居の選択肢すら著しく制限されるのだ。
人々はミカガミを信奉していた。完璧で、公平で、クリーンな社会を実現する神。俺もその一人だった。ルールを守り、社会に貢献し、高いスコアを維持する。それが正しい生き方だと、微塵も疑っていなかった。あの日までは。
異変は、些細なことから始まった。行きつけのカフェでコーヒーを注文すると、決済端末がエラーを吐いた。「お客様のスコアが一時的に低下しており、クレジット決済がご利用になれません」。店員の冷たい声が突き刺さる。慌てて手首のデバイスを確認すると、スコアは「895」に落ちていた。理由は「公共物への不適切な接触」。昨夜、雨で濡れた歩道橋の手すりに寄りかかったことだろうか。些細な減点だ、すぐに取り返せる。そう高を括っていた。
だが、悪夢はここからだった。翌朝、スコアは「754」に急落していた。理由は「反社会的勢力との接触の可能性」。全く身に覚えがない。パニックに陥りながら出勤すると、部長に呼び出された。
「高槻君、君のスコアのことだが……。しばらく自宅待機してくれないか。市民の個人情報を扱う部署に、スコア700台の職員は置けない」
昨日までの温和な表情は消え、まるで汚物でも見るかのような目だった。恋人に電話をかけたが、コール音が虚しく響くだけ。SNSには俺のスコア低下を嘲笑うような書き込みが溢れ始めた。世界が、俺という存在を拒絶し始めている。
三日後、スコアは「410」になった。デフィシットの領域だ。理由には「重大な金融詐欺への関与疑い」と表示されている。もう終わりだ。絶望に打ちひしがれ、アパートの部屋で呆然と座り込んでいると、スマートフォンの画面に一件の通知が届いた。暗号化された、差出人不明のメッセージ。
『ミカガミは神じゃない。ただの鏡だ。歪んだ現実を映すだけの。真実を知りたければ、今夜0時、シブヤ第三高架下へ来い。スコアに呪われた者より』
失うものは、もう何もなかった。俺は震える足で、指定された場所へ向かった。
高架下には、俺と同じようにうつろな目をした数人の男女が集まっていた。彼らの手首のデバイスもまた、絶望的なほど低い数値を表示している。やがて、闇の中から一人の女性が姿を現した。鋭い目つきと、どこか達観したような雰囲気をまとっている。
「私が呼んだ。名はレイ。あなたたちと同じ、ミカガミに『存在を否定された』者よ」
レイと名乗る女性は、こともなげに言った。
「ミカガミは完璧じゃない。意図的に特定の人間を社会から排除する『指向性バグ』が仕込まれている。私たちはそう考えている」
彼女によれば、不当にスコアを暴落させられた者は、皆、ある共通点があるという。それは、大企業や政府機関にとって「不都合な情報」に、無意識のうちにアクセスしてしまったこと。
「あなた、市役所のデータ管理課にいたわね。一週間前、古い地籍データのアーカイブを閲覧しなかった?」
言われて、ハッとした。確かに、システム移行のためのデータ整理で、数十年前の再開発エリアの古いファイルを開いた。
「そのエリアの再開発には、現政権の重鎮が関わる巨大な不正があった。あなたは偶然、その証拠のデータに触れてしまったのよ。だからミカガミは、あなたを『危険因子』と判断し、社会的に抹殺しようとしている」
ミカガミは、神ではなかった。権力者が己の地位を守るために作り上げた、電子の処刑人に過ぎなかったのだ。全身の血が沸騰するような怒りがこみ上げた。
「どうすれば……。どうすれば奴らに一矢報いることができる?」
俺の問いに、レイはニヤリと笑った。
「方法は一つ。ミカガミの心臓部……中央データセンターに侵入し、スコア操作のアルゴリズムを全世界に公開するのよ」
それは、国家への反逆行為に等しい。だが、俺の心に迷いはなかった。数字に支配された偽りの平穏よりも、真実を求める絶望の方が、よほど人間らしい。
レイが率いるレジスタンスの隠れ家で、俺たちは数日かけて侵入計画を練り上げた。俺の内部知識と、天才ハッカーであるレイの技術を組み合わせ、鉄壁のセキュリティを突破する算段だった。決行は、システムが大規模メンテナンスに入る三日後の深夜。
そして、運命の夜。俺とレイは、都心にそびえ立つミカガミのデータセンタータワーに潜入した。警備ドローンや認証ゲートをギリギリのところで掻い潜り、最深部のサーバールームへとたどり着く。
「十五分しかもたない。それ以上は物理的な警備が来るわ」
レイが猛烈な勢いでキーボードを叩き、俺は横でシステムの構造図を読み解き、彼女のナビゲートをする。画面には膨大なコードの滝が流れ落ちていく。
その時だった。けたたましい警報と共に、サーバールームの隔壁が閉まり始めた。罠だ。
「高槻! 見つけたわ! これが『指向性バグ』の本体!」
レイが指さしたモニターには、驚くべきリストが表示されていた。それは、ミカガミが「社会的抹殺」の対象とした人間のリスト。ジャーナリスト、政治活動家、内部告発者……そして、そのリストの管理者は、政府ではなく、この国の経済を牛耳る数人の超富裕層で構成される秘密結社だった。彼らが自分たちの既得権益を脅かす者を、ミカガミを使って合法的に排除していたのだ。
「データをコピーして!」
「ダメ、間に合わない! だけど……」
レイは一瞬ためらった後、覚悟を決めた顔で俺を見た。
「この証拠を、全世界のニュース機関と個人のデバイスに直接ブロードキャストする。でも、発信源を辿られれば私たちは……」
「やれ」
俺は即答した。
「俺たちのスコアは、もうゼロだ。失うものなんてないだろ」
レイは頷き、エンターキーを叩きつけた。
次の瞬間、世界が変わった。
日本中の、いや、世界中のデバイスに、ミカガミの不正を告発するデータが一斉に送信されたのだ。テレビは放送を中断し、街中のデジタルサイネージがジャックされ、人々の手元のデバイスが警報を鳴らす。
偽りの神の、鍍金が剥がれた瞬間だった。
俺とレイは、駆け付けた警備部隊に拘束された。だが、護送される車の中から見た街の風景は、昨日までとは全く違って見えた。人々は混乱し、怒り、そして何より、自らの手首のデバイスを疑いの目で見つめていた。スコアという絶対的な指標が崩壊したのだ。
俺たちの未来に、もはや輝かしいスコアは存在しないだろう。社会の最底辺で、犯罪者の烙印を押されて生きていくのかもしれない。
だが、不思議と心は晴れやかだった。
俺は、数字の奴隷であることをやめた。ゼロになったんじゃない。ゼロから始めたんだ。
本当の価値を問う戦いは、まだ始まったばかりなのだから。
シンギュラリティ・スコア
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