パーフェクト・デリート

パーフェクト・デリート

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ネオンの光が酸性雨に滲む夜。俺はゴーストになる。

黒田仁の仕事は、デジタル世界の幽霊、つまり「存在しなかったこと」にされた情報を狩ることではない。その逆だ。存在した情報を、この世から完全に抹消する。人は彼を「デジタル・クリーナー」と呼んだ。

「今回のターゲットは?」

ヘッドセットの向こうから、相棒の栞(しおり)の快活な声が響く。彼女のガレージに併設されたサーバー室が、俺の仕事場だ。

「大物だ。与党幹事長の『政策研究費』の使途不明金リスト。ご丁寧に、愛人へのプレゼントリスト付きだ」
「うわ、ゲスい。でも、セキュリティは?」
「官邸直轄の最高レベル。だが、穴はある」

指がキーボードの上を踊る。無数のコードが滝のようにモニターを流れ落ち、鉄壁に見えたファイアウォールに、蜘蛛の巣のような亀裂が入っていく。侵入、潜伏、痕跡消去。一連の作業は、もはや芸術の域に達していた。ターゲットのデータを掴み、シュレッダーアイコンにドラッグする。確認のウィンドウに、迷いなくエンターキーを叩き込んだ。

『パーフェクト・デリート完了』

モニターに表示された無機質な文字列が、今夜も俺の仕事を肯定する。口座には、ゼロが七つ並んだ数字が振り込まれていた。

「これでまたしばらくは、うまいものが食えるな」
「仁さん、あんまり無茶しないでよ。いつか消されるのが、こっち側になる」

栞の心配はもっともだった。だが、このスリルと、巨悪の喉元にナイフを突きつけるような全能感は、麻薬のように黒田を蝕んでいた。

そんなある日、新たな依頼が舞い込む。依頼主は、国内最大手の製薬会社「ヘルメス製薬」の広報部長を名乗る高梨という女だった。都心の一等地に聳え立つガラス張りの本社ビル、その最上階で、彼女は氷のような微笑を浮かべて言った。

「弊社の新薬『アムリタ』の臨床試験に関する、内部告発データを削除していただきたいのです」

アムリタ。それは、アルツハイマー病の特効薬として、全世界から期待を集める夢の薬だ。

「データは、開発チームの一人が持ち出し、告発サイトにリークしようとしています。会社の存亡に関わる一大事です」
「報酬は?」
「成功報酬で、二億」

黒田は口笛を吹きたいのをこらえた。危険な匂いがしたが、それ以上に、金の匂いは魅力的だった。そして、ヘルメス製薬が誇る世界最高峰のセキュリティシステムへの挑戦状は、彼のハッカーとしての魂を揺さぶった。

「引き受けよう」

栞の「罠かもしれない」という忠告を背に、黒田はヘルメス製薬のサーバーという神殿への侵入を開始した。予想通り、そこは幾重にもトラップが仕掛けられた迷宮だった。AIによる監視システム、偽のデータが配置されたハニーポット。黒田はそれらを一つ一つ、まるで熟練の外科医のように切り抜け、深層部へと潜っていく。

三日三晩にわたる死闘の末、ついに黒田は目的のデータが格納されたディレクトリに到達した。暗号化された告発データ。その中には、治験の失敗例や、予期せぬ副作用に関するレポートが含まれていた。そして、その末尾にあった「被験者リスト」を目にした瞬間、黒田の指が凍りついた。

『水木誠(みずき まこと)』

三年前、ビルの屋上から「誤って」転落死した、かつてのハッカー仲間。警察は早々に事故として処理したが、黒田だけはずっと疑念を抱いていた。水木が、なぜヘルメス製薬の被験者に?

思考が渦を巻く。だが、今は依頼を遂行することが先決だ。黒田は感情を押し殺し、デリートコマンドを実行した。

『パーフェクト・デリート完了』

しかし、彼の心には、決して消すことのできない澱(おり)が残った。

「仁さん、顔色が悪いよ」
「……なあ、栞。消したデータを、復元できるか?」
「な、何言ってるの!?あれは完璧に消したはずじゃ……まさか!」

黒田は、自分のルールを破っていた。仕事のデータを消す際、一瞬だけ、暗号化したコピーを自身のプライベートクラウドに転送していたのだ。万が一のための保険だったが、それを使う日が来るとは。

復元されたデータは、戦慄すべき真実を語っていた。

アムリタは、脳機能を劇的に改善する一方で、ごく稀に、脳神経を暴走させ、被験者を廃人にしてしまう致命的な副作用があった。ヘルメス製薬はそれを隠蔽するため、副作用が出た被験者を「事故」や「急病」に見せかけて社会的に抹殺していたのだ。水木もその一人だった。彼はアルツハイマー病の母親を救うため、自ら治験に参加し、そして犠牲になった。

高梨からの依頼は、この世にただ一人、自分たちのサーバーからデータを盗める腕を持つ黒田に、最後の証拠を「完璧に」消させるための、狡猾な罠だった。

「……許せない」

黒田の呟きは、怒りに震えていた。金のためではない。ハッカーのプライドのためでもない。友の無念を晴らすため、彼は反撃を決意した。

ターゲットは、ヘルメス製薬社長、安堂の罪の告発。
手段は、彼らが最も恐れる「情報の拡散」。

「栞、手伝え。これは俺たちの戦争だ」
「……最初からそのつもりで、陽動プログラム、組んでおいたよ!」

決行は、一週間後。アムリタの全世界同時プレス発表会。

当日、会場は国内外のメディアで埋め尽くされていた。壇上に立った安堂社長が、アムリタの輝かしい未来を語り始めたその時だった。

突如、会場の照明が落ち、すべてのスクリーンが砂嵐に切り替わる。栞の仕業だ。会場がパニックに陥る一瞬の隙を突き、黒田はメインスクリーンを掌握する。

砂嵐が晴れたスクリーンに映し出されたのは、水木誠の笑顔の写真だった。続いて、副作用に苦しむ彼の映像。そして、ヘルメス製薬が隠蔽してきた、おびただしい数の犠牲者たちのリストと、改竄前のデータが、安堂の演説音声にかぶさるように、冷徹な合成音声で読み上げられていく。

『……これらは、夢の薬の礎となった、声なきゴーストたちである』

安堂は顔面蒼白で立ち尽くし、会場は閃光と怒号に包まれた。

混乱の中、黒田は誰にも気づかれずに会場を後にした。

「やったな、仁さん」
「ああ。だが、終わりじゃない」

街の巨大ビジョンが、ヘルメス製薬の不正を報じるニュース速報を映し出している。人々がそれを見上げ、スマホで情報を拡散していく。一度デジタル世界に解き放たれた真実は、もう誰にも消すことはできない。

俺はデジタル・クリーナー。不都合な真実を消すのが仕事だ。
だが、時には思い出さなければならない。消してはならない声があることを。消させはしない魂があることを。

黒田は夜の闇に溶けていく。彼はゴーストだ。だが、彼のゴーストは、もう誰かの情報を消すためではなく、消された者たちの声なき声を、世界に響かせるために存在していた。

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