世界の終わりは、意外と静かにやってくるのかもしれない。
そんなことを考えながら、俺、高槻蓮(たかつきれん)は、窓の外を流れていく雲を眺めていた。高校二年の夏。教室を満たすけだるい空気、チョークの音、時おり聞こえる誰かの笑い声。すべてが退屈なループ再生のようで、早くこの映画が終わらないかと願っていた。
そんな俺の日常に、台風が上陸したのは放課後の図書室だった。
「ねえ、高槻くん! これ、何だと思う?」
声の主は、夏川陽菜(なつかわひな)。クラスで一番明るくて、一番よく笑って、俺とは最も遠い場所にいる人種だ。彼女が太陽なら、俺は日陰のコンクリートくらい違う。
陽菜が俺の机に叩きつけるように置いたのは、一冊の古びた文庫本。『銀河鉄道の夜』だ。
「何って、宮沢賢治だろ」
「そうじゃなくて、これ!」
陽菜が指さしたのは、最終ページの余白に鉛筆で書かれた、小さな文字の羅列だった。
『2-E-15 R / 7-S-4 L』
「何かの暗号だよ! 絶対、宝の地図!」
陽菜は目をキラキラさせている。本気だ。俺はため息をついた。
「ただの落書きだろ。本の整理番号とか」
「じゃあ、この『S』って何? サイエンス? 音楽室(ソング)? 屋上(スカイ)?」
「……知らない」
関わると面倒なことになる。俺の危険察知アラームがけたたましく鳴り響く。だが、陽菜は俺の腕を掴んだ。
「高槻くん、頭いいから手伝って! お願い!」
その笑顔は、夏の太陽より眩しくて、俺はなぜか「はい」と答えてしまっていた。
陽菜の暴走、もとい、推理はこうだ。最初の『2-E-15 R』は、この図書室のどこかを示している。
「2は、二階の書架。Eは……アルファベット順だから、ABCDE……五番目の棚! 15は上から十五冊目! Rは右(Right)!」
まるで名探偵だと胸を張る陽菜に引っぱられ、俺たちは指定の場所へ向かった。五番目の棚は外国文学で、十五冊目は分厚い洋書だった。陽菜がそっと本を抜き取ると、ページの隙間から一枚の付箋がひらりと落ちた。
『次は音楽室。鍵盤の白と黒が囁く場所へ』
「……マジか」
思わず声が漏れた。ただの落書きじゃなかった。これは、何者かが仕掛けた、壮大なゲームの招待状だった。
次の暗号は『7-S-4 L』。陽菜の言う通りなら、七番目の棚の『S』……科学(Science)だ。
「理科準備室に行こう!」
陽菜はもう走り出している。俺は慌てて彼女を追いかけた。退屈だったはずの放課後が、見たこともないスピードで景色を変えていく。
理科準備室の人体模型のあばら骨の隙間から、音楽室のベートーベンの肖像画の裏から、体育倉庫の隅に忘れられた跳び箱の中から、俺たちは次々とヒントを見つけ出した。
「高槻くん、すごい! なんでここだって分かったの?」
「いや、お前がめちゃくちゃにするから、先生に見つかる前に早く終わらせたいだけだ」
口ではそう言いながら、俺の胸が高鳴っているのを自覚していた。パズルのピースがはまっていく快感。そして、隣で笑う陽菜の存在。いつの間にか、俺はこのゲームに夢中になっていた。
最後の暗号が示す場所。それは『星に一番近い教室』だった。
「屋上……」
立ち入り禁止の、あの場所だ。
俺たちは夕暮れの校舎を抜け、屋上へ続く扉の前に立った。古びた鍵はかかっていない。まるで、俺たちを待っていたかのように。
軋む扉を開けると、生暖かい夏の夜風が頬を撫でた。眼下には、家路を急ぐ人々の灯りが宝石のようにきらめいている。
「あった……!」
陽菜が指さすフェンスに、リボンで結ばれた小さな木箱が揺れていた。宝箱だ。
二人で唾を飲み込み、ゆっくりと蓋を開ける。中に入っていたのは、金銀財宝なんかじゃなかった。
一枚の色あせたメッセージカードと、一本の何の変哲もない鍵。
カードには、こう書かれていた。
『この謎を解き明かした未来の後輩へ。
退屈だったろ? でも、世界は案外、面白いことで満ちている。
これは宝の鍵じゃない。君たちが、これから開ける新しい扉の鍵だ。
思いっきり、青春しろよ!
――三年前の卒業生より』
俺たちは顔を見合わせて、吹き出してしまった。
「なんだ、お宝ってこれかあ」
陽菜は少し残念そうに、でも、最高に嬉しそうに笑った。
「悪くない」俺は呟いた。「全然、悪くない結末だ」
退屈な日常なんて、ほんの少しの好奇心と、隣で笑ってくれる誰かがいれば、簡単に壊せるのかもしれない。
「ねえ、高槻くん」
陽菜が俺を見上げる。その瞳には、満天の星が映っていた。
「明日も、何か面白いこと、探しに行かない?」
俺は鍵をぎゅっと握りしめて、頷いた。
世界の終わりなんて来やしない。だって、俺たちの宝探しは、たった今、始まったばかりなのだから。
放課後サイン・ゲーム
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