夏空のイグジット

夏空のイグジット

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***第一章 錆びついた鍵***

蝉の声が、アスファルトの熱を吸い上げて空に溶けていく。八月の高校は、夏休みだというのに妙な熱気を帯びていた。俺、水野湊は、写真部の部室の暗幕の中で、現像液のすっぱい匂いに思考を浸していた。ファインダー越しに見る世界は、いつも輪郭がはっきりしているのに、自分の目で見る世界は、どうしてこうも滲んで見えるのだろう。

あの日から、一年が経った。月島陽葵が、俺の世界から消えた日。夏祭りの喧騒の中、信号を無視した車に撥ねられた彼女の姿は、今も目の裏に焼き付いて、シャッターを切った覚えのない一枚の写真のように、色褪せることなく存在し続けている。

「まだ、いたの?水野くん」
不意に背後から声をかけられ、びくりと肩が跳ねた。写真部の顧問である佐藤先生が、呆れたような顔で立っていた。
「……すみません。片付け、終わったら帰ります」
「そうじゃない。お前、いつまでそうしているつもりだ。陽葵さんのこと、引きずるのは分かるが……」
先生の言葉が、耳の表面を滑っていく。誰もが俺を可哀想な奴だという目で見る。その視線が、息苦しかった。

部室を出て、意味もなく廊下を歩く。夕暮れの光が差し込む廊下は、どこまでも静かだ。ふと、足が止まった。二年生の教室が並ぶ一角。そこに、陽葵が使っていたロッカーが、今もぽつんと残されていた。誰も使おうとしない、聖域のような、あるいは呪いのような場所。

一年間、開けることのできなかった鉄の扉。何かに憑かれたように、俺は錆びついた取っ手に手をかけた。ぎ、と鈍い音を立てて扉が開く。中は空っぽだと思っていた。だが、底に小さな何かが落ちている。

それは、古びた真鍮の鍵だった。そして、その下には、折り畳まれた一枚のメモ。陽葵の、太陽みたいに丸っこい、見慣れた文字がそこにあった。

『私を探して』

心臓が、凍りついた鉄の塊みたいに、どくん、と重い音を立てた。なんだ、これは。陽葵の悪戯か?でも、彼女はもういない。いないはずなのに、その文字はあまりにも生々しく、そこに陽葵の体温が残っているかのようだった。蝉の声が、遠くなる。代わりに、耳鳴りのような陽葵の笑い声が聞こえた気がした。錆びついた鍵を握りしめると、冷たい金属の感触が、忘れていた何かを呼び覚まそうとしていた。俺の止まっていた夏が、不意に軋みを上げて動き出した。

***第二章 思い出のパズル***

翌日、俺は再び学校にいた。手の中には、あの真鍮の鍵。一体、どこの鍵なのか。校内の全ての鍵穴に差し込んで回るなんて、途方もない。途方に暮れて屋上への階段に座り込んでいると、影が差した。

「やっぱり、ここにいた」
見上げると、早乙女楓が立っていた。陽葵の、一番の親友だった少女。風に揺れる長い黒髪と、静かな光を宿した瞳が印象的だ。陽葵の葬儀以来、まともに話したことはなかった。彼女もまた、陽葵を失った痛みを抱えているはずなのに、その立ち姿はどこか凛としていた。

「それ……陽葵のロッカーにあったやつでしょ」
楓は俺の手の中の鍵を真っ直ぐに見つめた。なぜ、それを知っている。俺の疑問を読み取ったように、彼女は続けた。
「陽葵から、聞いてたから。『湊に、最後の宝探しを仕掛けるんだ』って」
最後の、宝探し。陽葵は生前、よく突拍子もないゲームを仕掛けては、俺を振り回していた。その記憶が蘇り、胸の奥がきりりと痛んだ。

「手伝うよ。一人じゃ、見つけられないかもしれないから」
楓の申し出を、断る理由はなかった。むしろ、藁にもすがる思いだった。二人でいると、陽葵がいないという現実が、少しだけ薄まるような気がした。

「陽葵、音楽室のピアノを弾くのが好きだった。放課後、いつも同じ曲を」
楓の言葉に導かれ、音楽室へ向かう。夕暮れの音楽室は、ひっそりと静まり返っていた。ピアノの鍵盤の蓋には、小さな鍵穴があった。俺が持っていた鍵を差し込むと、カチリ、と心地よい音を立てて回った。

中には、古びた楽譜が一冊。ドビュッシーの『月の光』。陽葵が、拙いながらも懸命に練習していた曲だ。そして、楽譜の最終ページに、また陽葵の文字があった。
『次は、言葉の海で待ってる』

「言葉の海……図書室だ」
楓が呟く。俺たちは図書室へ向かった。古い本の匂いが満ちる空間。楓は迷うことなく、一番奥の棚へ向かう。『星の王子さま』と背表紙に書かれた本を抜き取ると、その本が収まっていた空間の奥に、また小さな箱が隠されていた。箱の中には、次の鍵と、一枚の写真。

写っていたのは、中学時代の俺と陽葵、そして楓の三人。ぎこちなく笑う俺の隣で、陽葵と楓が満面の笑みでピースサインをしていた。忘れていた。俺たちは、三人でいる時間も、確かにあったのだ。

次々と見つかるヒント。美術室の石膏像の裏、体育館倉庫の片隅、中庭の花壇のレンガの下。鍵を開けるたびに現れるのは、陽葵が好きだった画家の画集だったり、三人でお揃いで買ったキーホルダーだったり、他愛のない、けれど陽葵が生きていた証そのものだった。

楓と過ごす時間は、不思議な安らぎをくれた。彼女は陽葵のことを、悲しい思い出としてではなく、今もすぐ隣にいる友達のように話した。
「陽葵ったら、絵の具を服につけてばっかりでさ」
「このキーホルダー、すぐ壊しちゃったんだよね、あの子」
その度に、俺の心に張っていた氷が、少しずつ溶けていくのを感じた。モノクロだった世界に、夕焼けのオレンジや、楓の髪の黒が、鮮やかな色彩を持って飛び込んでくる。ファインダーなんてなくても、世界はこんなにも綺麗だったのか。

***第三章 君が描いた空***

最後のヒントは、一枚のスケッチだった。描かれていたのは、屋上から見た夕暮れの空と、そこに立つ古びた倉庫。立ち入り禁止になっている、あの場所だ。
「最後の鍵は、きっとあそこだよ」
楓の声が、微かに震えていた。

錆びた南京錠は、俺たちが持っていた最後の鍵で、いとも簡単に開いた。埃と絵の具の匂いが混じった空気が、むわりと鼻をつく。倉庫の中は、陽葵のアトリエだった。壁一面に立てかけられた、無数のキャンバス。そのどれもが、息を呑むほど鮮やかで、力強かった。俺の知らない陽葵が、そこにいた。

そして、部屋の中央に置かれたイーゼルの上に、一冊の分厚い日記帳が置かれていた。表紙には、やはり陽葵の文字で『湊と楓へ』と書かれている。宝探しのゴール。俺は、ごくりと唾を飲んで、そのページをめくった。

そこに書かれていたのは、俺の知らない、信じがたい真実だった。

『私の心臓には、生まれつき穴が開いているらしい。お医者さんは、次の夏を越すのは難しいだろうって』

心臓が、鷲掴みにされたような衝撃。事故じゃ、なかったのか?混乱する俺の横で、楓が静かに泣いていた。日記は続く。

『だから、決めたんだ。私が死んだら、湊がきっと自分を責める。あの子は、そういう奴だから。私が、夏祭りに誘ったからだって。そんなの、絶対に嫌だ。だから、楓にお願いした。私が死んだ後、湊をこの宝探しに連れ出してあげてって。私が仕掛けたみたいに、見せかけて』

ページを持つ手が、震えた。なんだ。なんだよ、それ。じゃあ、この宝探しは、陽葵が仕組んだものじゃない?ロッカーの鍵とメモを置いたのも、全部、楓が?

「ごめん……なさい」
楓が、嗚咽を漏らした。
「ごめんなさい、騙すつもりじゃ……。でも、陽葵ちゃんを、ただの悲しい思い出にしたくなかったの!湊くんに、陽葵ちゃんが生きてた時間を、楽しい冒険として、もう一度思い出してほしかった……!あの子が、どれだけ世界を愛して、どれだけ……あなたのことを大切に思っていたか、知ってほしかったの!」

楓の涙が、俺の心の壁を、完全に打ち砕いた。陽葵の優しさと、楓の優しさ。二つの巨大な愛情に包まれて、俺はただ、立ち尽くすことしかできなかった。俺が一人で悲劇の主人公を気取っている間、楓は、陽葵の想いを一身に背負って、たった一人でこの計画を進めてくれていたのだ。

***第四章 夏空のイグジット***

日記の最後のページ。そこには、陽葵の震える文字で、俺たちへのメッセージが綴られていた。

『湊へ。いつも私の隣で、不器用な顔して写真を撮ってくれてありがとう。あなたのファインダー越しの世界は、いつも優しかった。だから、もう自分を責めないで。私の分まで、たくさん笑って。楓へ。私の最後のわがまま、聞いてくれてありがとう。あなたは、私の最高の親友だよ。湊のこと、お願いね』

言葉が、なかった。涙が、溢れて止まらなかった。それは、一年前の悲しみの涙とは違う、温かくて、どうしようもなく切ない涙だった。

イーゼルには、もう一枚、描きかけのキャンバスが立てかけられていた。そこに描かれていたのは、高校を卒業したらしい、少し大人びた俺と楓が、カメラを片手に、笑い合っている姿だった。陽葵が夢見た、俺たちの未来。彼女は、自分のいない未来を、こんなにも鮮やかに描いていたのだ。

「陽葵は……最後まで、俺たちのこと考えてたんだな」
「うん……。あの子は、そういう子だから」
楓が、そっと涙を拭って微笑んだ。その笑顔は、陽葵の笑顔と、少しだけ似ていた。

俺たちは倉庫を出て、屋上のフェンスにもたれた。夕日が、街を、空を、燃えるようなオレンジ色に染め上げていた。陽葵が愛した、この世界の色彩。
「なあ、楓」
「なに?」
「ありがとう。俺を、ここまで連れてきてくれて」
「……どういたしまして」
楓は少しだけ頬を赤らめて、空を見上げた。

陽葵はもういない。その事実は変わらない。けれど、彼女が遺してくれたものは、錆びついた鍵なんかじゃなかった。思い出を未来に繋ぐための、温かい光だった。彼女の死は、終わりじゃなかった。俺と楓にとっての、新しい始まりの合図だったんだ。

俺はもう、ファインダー越しに世界を切り取らない。この目で、この心で、陽葵が見たかった未来を、しっかりと焼き付けていく。楓と一緒に。

夕焼け空に、一番星が瞬いた。まるで、悪戯っぽく笑う陽葵の瞳のように。俺は、その星に向かって、心の中でそっと呟いた。

「見てるか、陽葵。俺たちの夏は、まだ始まったばかりだぜ」

隣で楓が、くすりと笑った。その音は、夏の終わりの風に溶けて、どこまでも優しく響いていった。

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