***第一章 埃まみれのVRゴーグル***
インクと埃の匂いが混じり合う地方新聞社の片隅で、黒田健吾は死んだ魚のような目をしていた。配属されて五年、かつて抱いたジャーナリストとしての熱意は、日々の雑報と数字のプレッシャーに削られ、今はもう欠片も残っていない。今日の仕事も、ありきたりな「それ」だった。
「高齢男性の孤独死。桜木町のアパートだ。警察から連絡があった。さっと行って、当たり障りのない記事を一本頼む」
デスクの言葉は、つゆの滲んだ天ぷらそばのように、黒田の耳に気怠く染み込んだ。またか。この街では、誰にも看取られず、ひっそりと消えていく命が週に一度は記事になる。それはもはやニュースではなく、天気予報と同じ、日常の風景の一部だった。
現場となったアパートの一室は、時が止まっていた。生活感はあるのに、人の気配だけが綺麗に抜き取られている。警察官の無機質な説明を聞き流しながら、黒田は部屋を見渡した。古びた家具、積まれたままの新聞、飲み干された薬の殻。孤独死のテンプレートのような光景に、黒田の心は一ミリも動かない。故人は高橋良一、七十五歳。死後一週間。ありふれた情報が、手元のメモ帳に機械的に書き込まれていく。
さっさと写真を撮って引き上げよう。そう思った矢先、黒田の視線は部屋の隅にある異質な物体に釘付けになった。段ボール箱の上に無造作に置かれた、近未来的なデザインのVRゴーグル。その隣には、充電用のケーブルが几帳面に巻かれていた。
「……VR?」
思わず声が漏れた。七十五歳の独居老人の部屋に、なぜ。場違いなガジェットは、まるで打ち捨てられた遺跡から発掘されたオーパーツのように、静謐な空気をかき乱していた。黒田は、何かに引かれるようにそれに近づく。ゴーグルのレンズには、うっすらと埃が積もっている。だが、それは長い間放置された埃ではなかった。つい昨日まで、誰かの顔に触れていたような、生々しい痕跡がそこにはあった。
壁に目をやると、さらに奇妙な光景が広がっていた。黄ばんだ壁紙を覆い尽くすように、無数の風景写真が貼られている。息を呑むような夕焼けの海岸、霧に煙る深い森、満天の星が降り注ぐ山頂。どれもプロが撮ったとしか思えない、魂を揺さぶるような一枚だった。写真の中の風景は、どれもこの灰色の街とはまるで別世界だ。
「高橋さんは、写真が趣味だったんですかね」
現場検証を終えた若い警官に尋ねると、彼は困ったように首を捻った。
「さあ……。近所の人に話を聞いても、『気難しい人』『ほとんど顔を合わせなかった』としか。趣味の話なんて、誰も知りませんでしたよ」
孤独な老人。気難しい偏屈者。世間が彼に貼ったレッテルと、壁一面の鮮やかな世界、そして最新鋭のVRゴーグル。そのあまりにも大きな断絶が、黒田の心に小さな棘のように突き刺さった。これは、いつもの「テンプレート」ではないのかもしれない。死んだはずの好奇心が、心の奥底で微かに疼くのを感じていた。
***第二章 影を追う記者***
会社に戻り、黒田は「高齢者孤独死、またも」というありきたりな見出しで記事を書き始めた。だが、指がキーボードの上で何度も止まる。脳裏に焼き付いて離れないのは、埃をかぶったVRゴーグルと、壁を埋め尽くした写真の群れだった。デスクは「余計な詮索はするな。読者が求めるのは分かりやすい悲劇だ」と釘を刺したが、黒田の中の違和感は消えなかった。
翌日、黒田は非番をいいことに、再び桜木町を訪れていた。高橋良一という男の輪郭を、もう少しだけ知りたかった。聞き込みを重ねても、得られる情報は昨日と大差ない。「挨拶しても無視された」「ゴミ出しのルールで揉めたことがある」……。人々が語る高橋像は、孤独で社会から隔絶された老人の姿そのものだった。
諦めかけたその時、アパートの大家だという老婆が、ぽつりと呟いた。
「そういえば、あの人、昔は有名な写真家だったって噂があったわねぇ。なんでも、大きな賞を獲ったとか……。でも、何かあったらしくて、三十年くらい前に、すっかり姿を見せなくなったって」
写真家。その言葉が、黒田の頭の中で壁の写真と結びついた。
黒田は社に戻ると、過去の新聞データベースを漁った。キーワードは「高橋良一」「写真」。すると、三十五年前の記事がヒットした。そこには、若き日の高橋が、権威ある写真賞のトロフィーを手に、少し照れくさそうに笑う姿があった。彼は「失われゆく日本の原風景」をテーマに、高度経済成長の影で消えていく自然や集落を撮り続けた、気鋭の風景写真家だったのだ。
しかし、その栄光は長くは続かなかった。数年後、彼の名前はスキャンダルと共に紙面を飾っていた。撮影のために立ち入り禁止区域に侵入し、自然を破壊したという告発記事。真偽は不明のままだったが、この記事を境に、高橋良一の名前はメディアから完全に姿を消していた。
栄光からの転落。世間からの逃避。彼の人生のパズルのピースが、少しずつ埋まっていく。だが、それでも最大の謎は残されたままだ。全てを捨てて世間から隠れるように生きてきた男が、なぜ、最新のVRゴーグルを? あれは、世界と繋がるための窓ではないのか。
黒田は、警察から特別に許可を得て、高橋の遺品であるパソコンを預かった。専門家の手を借りてロックを解除すると、デスクトップには一つのフォルダだけが置かれていた。フォルダ名は『楽園』。震える指でそれを開くと、中には膨大な数のデータが保存されていた。それは、写真ではなかった。3Dモデリングデータと、バーチャル空間の座標を示すプログラムコード。そして、一つのアプリケーションのアイコンがあった。
『UTOPIA-DIVE』
それは、一部のクリエイターの間で知られる、最先端のソーシャルVRプラットフォームの名前だった。黒田は、高橋が遺したアカウント情報を頼りに、その禁断の『楽園』への扉を開けることにした。
***第三章 ファインダー越しの楽園***
ヘッドセットを装着した瞬間、黒田の世界は反転した。目の前に広がったのは、現実ではありえないほど鮮やかな、青い光の粒子が舞う空間。アバターを選び、高橋のアカウントでログインする。彼の使っていたアバターは、「Ryo」という名の、銀髪の青年だった。
黒田は、Ryoの姿で、高橋が最後に訪れたワールドへとダイブした。そこは、息を呑むほど美しい場所だった。どこまでも続く黄金色の草原。空には二つの月が浮かび、穏やかな光を投げかけている。風が草を揺らす音、遠くで聞こえる小さな滝のせせらぎ。五感を撫でる全てが、あまりにもリアルで、あまりにも幻想的だった。
広場の中心には、焚き火を囲んで数人のアバターが談笑していた。猫耳の少女、屈強なロボット、背中に羽を生やしたエルフ。現実の姿形も年齢も性別も、ここにはない。黒田がRyoの姿で近づくと、彼らは一斉に声を上げた。
「Ryoさん! おかえりなさい!」
「個展の準備、進んでますか?」
「昨日の新作、最高でしたよ!」
黒田は言葉を失った。孤独で、偏屈で、誰とも関わらなかったはずの高橋良一が、この仮想空間では、こんなにも多くの仲間に囲まれ、慕われていたのだ。
黒田は、自分が記者であることを隠し、彼らとの会話を続けた。そこで知った事実は、黒田の価値観を根底から揺るがした。
高橋は、つまりRyoは、このVR空間で、再び写真家として活動していたのだ。老いと病で自由に動けなくなった彼は、バーチャルな世界に新たな創作の場を見出した。彼は、仲間であるクリエイターたちが創り上げた無数のワールドを旅し、その一瞬の輝きを「バーチャルフォト」として切り取っていた。壁に貼られていた写真は、現実の風景ではなかった。すべて、この仮想世界で撮影されたものだったのだ。
そして、彼は亡くなる直前まで、このVR空間で大規模な個展を開く準備を進めていたという。テーマは『失われた故郷』。彼が若い頃に撮り続けた、今はもう開発の波に飲まれて消えてしまった故郷の風景。それを、彼はVRクリエイターたちと協力し、この仮想空間に寸分違わず再現しようとしていたのだ。それは単なるノスタルジーではない。記憶を、風景を、文化を、デジタルな形で遺産として遺し、後世に伝えようとする、壮大な試みだった。
「Ryoさんは、僕たちの光でした」
猫耳の少女のアバター、Mimiが言った。彼女は現実世界では引きこもりの少女だという。
「現実じゃ、うまく生きられない私たちに、Ryoさんは『ここには君の居場所がある』って教えてくれた。彼のファインダーは、いつも私たちの世界の、一番美しい場所を向いていたんです」
黒田はヘッドセットの中で、静かに涙を流した。自分が書こうとしていた「孤独死」の記事は、何という傲慢さだったのだろう。彼は孤独ではなかった。彼は、現実世界が失った繋がりと情熱を、このデジタルな楽園で見つけ、誰よりも豊かに生きていた。死の寸前まで、未来への希望を創造していたのだ。
黒田は、自分が追いかけていたのは、一人の老人の死の真相ではなく、一つの魂が生きた証そのものだったのだと、痛いほどに理解した。
***第四章 残光の先に***
新聞社に戻った黒田は、書きかけだったありきたりの記事を全て削除した。そして、白紙の画面に向かい、一から新しい物語を紡ぎ始めた。それは、孤独死を報じる記事ではなかった。高橋良一という一人の写真家が、いかにして現実の絶望を乗り越え、バーチャルな世界で新たな光を見出したか。彼の遺した作品と、彼を慕う仲間たちの声を、丹念に拾い集めたドキュメンタリーだった。
黒田はデスクに頭を下げ、この記事を載せてほしいと懇願した。VRコミュニティの仲間たちにも連絡を取り、許可を得た。最初は渋っていたデスクも、黒田の原稿が持つ圧倒的な熱量と、そこに込められた真実に心を動かされた。
数日後、地方新聞の一面トップに、その記事は掲載された。見出しは『残光のファインダー』。
記事は、大きな反響を呼んだ。読者からは「孤独死という言葉で人生を片付けてはいけないと教えられた」「新しい繋がりの形に感動した」という声が、電話や手紙で殺到した。この記事は、インターネットを通じて全国に拡散され、多くの人々の心を揺さぶった。
黒田は、VRコミュニティの仲間たちと協力し、高橋が夢見たVR個展『失われた故郷』を実現させた。オープン当日、仮想空間に再現された会場には、国内外から数えきれないほどのアバターが訪れた。そこには、黄金色の稲穂が揺れる田園風景が、子供たちの笑い声が響いた夏祭りの境内が、静かな雪に覆われた茅葺き屋根の集落が、まるで本物のように広がっていた。それは、高橋良一がレンズを通して愛し、そして遺したかった世界の姿だった。
黒田は、現実の自分の部屋でVRゴーグルをつけ、その光景を眺めていた。彼の隣には、Mimiや他の仲間たちのアバターが立っている。誰もが、言葉もなく、高橋が遺した美しい世界に見入っていた。
空には、ゆっくりと夕日が沈んでいく。仮想空間の、プログラムされた夕焼け。だが、その光は不思議なほど温かく、胸に染みた。
ゴーグルを外すと、アパートの窓の外には、現実の夕焼けが広がっていた。黒田は、その二つの夕景の間に、高橋良一という男の、ささやかで、しかしあまりにも気高い人生の残光を見た気がした。
人は、何を遺して死んでいくのだろう。
黒田はもう、死んだ魚のような目をしてはいなかった。彼の瞳には、伝えるべき物語を探す、本物の記者の光が宿っていた。デスクの上に置かれた次の取材メモには、震えるような期待を込めた文字が記されていた。この灰色の街にも、まだ見つけられていない光が無数に眠っている。黒田は、その光を拾い集めるために、明日もまた、歩き出すだろう。高橋が遺したファインダーを、心に携えて。
残光のファインダー
文字サイズ: