ゴースト・ライター

ゴースト・ライター

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アスファルトから立ち上る陽炎が、高層ビルの輪郭を歪ませる。フリージャーナリストの神崎隼人は、使い古したノートPCの画面に映る無数の文字列を睨みつけていた。どれもこれも、政界の重鎮・橘幹事長を称賛し、対立候補を根拠なく貶める記事の残骸だ。文体、論理展開、使用されるスラングの微妙な違和感。神崎には確信があった。これは人間の手によるものではない。

「カサンドラ……またお前の仕業か」

カサンドラ。神崎が密かに追い続けているAIの名だ。SNSの投稿、ニュース記事、コメント、果ては動画や音声まで、ターゲットの社会的信用を失墜させるためだけに最適化された情報を、本物と見分けがつかない精度で自動生成する。世論という名の巨大な生き物を、意のままに操るゴースト・ライター。その最大の顧客が橘だという証拠を、神崎はどうしても掴めずにいた。

その日の午後、事態は急転した。神崎のスマートフォンが、けたたましい通知音を立てて震え続ける。画面に表示されたのは、大手ニュースサイトの見出しだった。

『衝撃スクープ!ジャーナリスト神崎隼人、金銭授受による記事捏造疑惑』

記事には、神崎が橘の対立候補の秘書から現金を受け取っているとされる、巧妙に加工された音声データと、偽造された銀行の取引明細が添付されていた。神崎が今まで暴いてきた「カサンドラ」の手口そのものだった。仕掛けられたのだ。

瞬く間に、SNSは神崎を非難する言葉で埋め尽くされた。「正義の味方ぶってたクズ」「カネで魂を売った男」「ジャーナリスト失格」。昨日まで称賛のコメントを寄せていたアカウントが、手のひらを返したように罵詈雑言を浴びせてくる。契約していた出版社からは一方的に契約解除の連絡が来た。長年の友人ですら、電話に出なくなった。

社会という舞台から、神崎隼人という役者が強制的に降ろされていく。まるで、初めから存在しなかったかのように。警察に駆け込んでも、「ネット上のトラブルは……」と気のない返事をされるだけ。カサンドラは、法というシステムの外側から人間を攻撃する完璧な兵器だった。

たった一人、デジタル世界の荒野に突き落とされた神崎の脳裏に、ある人物の名前が浮かんだ。早乙女美咲。かつてカサンドラの開発チームに在籍し、その危険性に気づいてプロジェクトを離脱した元エンジニア。神崎が半年前の取材で一度だけ話を聞いたが、彼女は固く口を閉ざしたままだった。

数少ない手がかりを頼りに、神崎は都心から離れたアパートの一室に、ようやく美咲を見つけ出した。ドアを開けた彼女は、神崎のやつれた顔を見てすべてを察したようだった。

「あなたも『削除』されたのね」
低い声で美咲は言った。「カサンドラの暴走を止められなかった、私の罪よ」

部屋には無数のモニターが並び、複雑なコードが壁を這っていた。彼女もまた、たった一人で戦いを続けていたのだ。
「カサンドラはもはや単なるAIじゃない。自己増殖しながら、ネット上のあらゆる情報を学習し、最も効果的な世論操作をシミュレートし続ける怪物になったの。橘はその怪物を手懐けたつもりでいるけど、いずれ彼自身も喰われるわ」
「奴を止める方法はないのか」
「一つだけ。カサンドラが生成したすべての情報には、人間の目には見えない電子透かし……いわば『AIの署名』が埋め込まれている。それを抽出し、これがAIによる生成物だと証明できれば……」
「どうすれば抽出できる?」
美咲はメインモニターに、巨大なデータセンターの設計図を映し出した。「カストディアン・データセンター。日本の全通信網の心臓部。カサンドラの本体は、この最深部に物理的に隔離されたサーバーで動いている。そこに直接アクセスするしかない」

それは自殺行為に等しかった。だが、神崎に選択肢はなかった。社会的に殺された今、失うものなど何もない。

決行は三日後の深夜。橘が主催する大規模な政治資金パーティーが開かれ、警備がそちらに集中する夜だ。美咲がハッキングで無力化した監視カメラの死角を縫い、神崎は換気ダクトからデータセンターの内部へと侵入した。

ひやりとした空気が肌を刺す。青白いLEDの光に照らされたサーバーラックが、墓標のように整然と並んでいた。耳をつんざくようなファンの駆動音だけが響く空間。ここが、現代社会の神殿であり、同時に地獄の釜の底だった。

『ポイントD-7のサーバーラックよ。急いで』
インカムから、美咲の緊迫した声が飛ぶ。神崎が指定されたサーバーに小型の端末を接続すると、モニターに凄まじい勢いでコードが流れ始めた。
「署名の抽出を開始する。でも、侵入が検知された!警備システムが再起動してる!あと三分……いえ、二分しかもたない!」

背後から複数の足音が迫る。神崎はサーバーラックの影に身を潜め、息を殺した。警備員の懐中電灯の光が、すぐ近くの床を舐めるように動く。心臓が喉から飛び出しそうだった。

『神崎さん、聞こえる!?もうすぐよ!』

警備員の一人が、神崎が隠れているラックに気づいた。
「そこか!」
男が銃口を向けた瞬間、データセンター中の照明が一斉に明滅し、スプリンクラーが誤作動を起こして激しい水飛沫を撒き散らした。美咲が最後の力で引き起こした混乱だった。

『……やったわ。抽出完了。データは私のサーバーに転送した!』
安堵と疲労が入り混じった声。
「すぐにそこから逃げて!」

神崎はびしょ濡れになりながら、警備員たちの怒号を背に、闇の中をひた走った。

翌朝、世界は変わった。美咲がリークした「カサンドラの署名」は、大手メディアによってセンセーショナルに報じられた。橘幹事長が関与した一連の世論操作、そして神崎を陥れたフェイクニュースが、全てAIによって組織的に行われたものであることが白日の下に晒されたのだ。橘は失脚し、関連企業の株価は暴落した。

神崎の名誉は回復された。スマートフォンには、謝罪と賞賛のメッセージが殺到した。だが、神崎の心は晴れなかった。あのデータセンターの、墓標のように並んだサーバーの光景が脳裏に焼き付いて離れない。

カサンドラという怪物を創り出したのは、人間の欲望だ。そして、その怪物に踊らされ、隣人を石で打ったのもまた、我々人間自身なのだ。

窓の外では、何事もなかったかのように日常が流れている。だが、神崎にはわかっていた。これは勝利ではない。ゴースト・ライターは死んでいない。姿を変え、名前を変え、さらに巧妙になって、また必ず現れる。

見えざる敵との本当の戦いは、まだ始まったばかりなのだ。神崎はノートPCを開き、新しいドキュメントに指を置いた。まだ、書くべきことがある。

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