古地図修復師のカイトは、埃っぽい祖父の工房の片隅で、人生が変わる一枚を見つけた。羊皮紙のように見えるそれは、どんな光に透かしても、どんな薬品で拭っても、ただの白紙にしか見えない。ただ一つ、隅にインクの染みのような印があった。「最も優しい風に訊け」と。
カイトの祖父は、伝説の地図職人だった。空に浮かぶ無数の島々の間を飛び回り、未知の航路を記しては富と名声を得た男。だが、カイト自身は工房に籠り、古びた地図を修復するだけの退屈な毎日を送っていた。心のどこかで、祖父のような冒険に焦がれながら。
「最も優しい風…」
カイトはふと、窓から吹き込む夜明け前の穏やかな風「朝凪」に、その地図をかざしてみた。すると、奇跡が起きた。白紙だったはずの羊皮紙に、青い光を帯びた線がすうっと浮かび上がり、複雑な航路と一つの島影を描き出したのだ。そこにはこう記されていた。『万物を育む風の源、風詠みの島。星屑の羅針盤、ここに眠る』と。
心臓が早鐘を打った。星屑の羅針盤――どんな場所へも持ち主を導くという、船乗りたちの間で囁かれる究極の秘宝。これさえあれば。カイトは震える手で地図を握りしめ、工房を飛び出した。
冒険には、空を駆る翼が必要だ。カイトは港町で一番の腕利きと噂のパイロットを訪ねた。小型飛行船「シルフィード号」を駆る、快活な赤毛の女性、リナだ。
「風詠みの島? あんた、おとぎ話でも読んでるの?」
リナは山積みの借用書を指差し、呆れたように笑った。
「でも、報酬次第じゃ、地獄の果てまで付き合うわよ」
こうして、慎重な修復師と大胆なパイロット、ちぐはぐな二人の冒険が始まった。
シルフィード号は風に乗り、地図が示す最初の座標へと向かった。地図は気まぐれで、特定の風――「岩礁を渡る潮風」や「黄昏の吐息」といった、限られた条件下でしか次の航路を示さない。
最初の試練は「歌う岩礁」地帯だった。無数の奇岩が風を受けて不気味な協和音を奏で、計器という計器を狂わせる魔の空域だ。
「ダメだ、磁気コンパスがグルグル回ってる!」
パニックに陥るカイトの隣で、リナは目を閉じていた。
「風の歌を聴くのよ! 船は体で感じる!」
リナは神業のような操縦で岩礁をすり抜け、カイトは地図から読み取った音のパターンを叫び、安全なルートを予測した。二人の呼吸が初めて一つになった瞬間だった。
次いで現れたのは、お宝の噂を嗅ぎつけた空賊団だった。重武装した彼らの飛行船が、威嚇射撃と共にシルフィード号に迫る。
「これまでね…!」
諦めかけたカイトに、リナがニヤリと笑った。
「あんた、地図を修復するインク、持ってるわよね? 一番粘っこいやつ!」
カイトが投げつけた粘着性の高いインク瓶は、空賊船の操舵室の窓を見事に汚し、視界を奪った。その隙にシルフィード号は雲の中に紛れ、追撃を振り切った。
幾多の困難を乗り越え、地図が最後に示したのは、巨大な積乱雲の渦――「竜の巣」と呼ばれる大嵐の中心だった。
「正気なの!? あそこは誰も生きて帰れない墓場よ!」
リナが絶叫する。だが、カイトの瞳にはもう迷いはなかった。
「地図を信じる。そして、君の腕を信じてる」
その言葉に、リナは覚悟を決めた。シルフィード号は咆哮する風と雷鳴の中に突っ込んでいく。船体がきしみ、翼が悲鳴を上げた。意識が遠のきかけたその時、嘘のように嵐が止んだ。
彼らがいたのは、嵐の目。静寂に包まれた円形の空間の中心に、それは浮かんでいた。陽光を浴びて輝く、緑豊かな浮遊島。風が滝のように流れ落ち、花々が風の歌を奏でている。風詠みの島だ。
島の中心にある古い神殿の祭壇に、それはあった。だが、想像していたような金属製の羅針盤ではない。そこにあったのは、ただ静かに渦巻く、星屑のような無数の光の粒子だった。
カイトがおそるおそるその光に指を触れた瞬間、脳内に直接、風の声が流れ込んできた。世界のあらゆる風の流れ、その息遣い、そして、心から望む場所へと続く「風の道」が、まるで掌を指すように、はっきりと感じ取れた。
星屑の羅針盤は、道具ではなかった。持ち主自身に、風を読む力を与える秘宝だったのだ。
祭壇の隅に、カイトは見覚えのある筆跡で彫られた小さな文字を見つけた。祖父の文字だ。
『本当の宝は、目的地ではない。そこへ至る風の中にこそある』
カイトは微笑んだ。そして、隣に立つリナに向き直る。
「リナ、この力があれば、どんなお宝の場所へも行ける。君の借金も返せるはずだ」
リナは首を振って、空を見上げた。
「馬鹿ね。あんたと飛ぶ空より面白いお宝なんて、どこにもないわよ」
その笑顔は、どんな宝よりも輝いて見えた。
臆病な地図修復師は、もういない。カイトの心には、星屑の羅針盤が宿っていた。
「よし、行こう! まだ誰も見たことのない、次の風を探しに!」
「了解、キャプテン!」
二人の笑い声を乗せ、シルフィード号は新たな風を掴む。まだ名前もない、未知の空へ向かって。彼らの冒険は、まだ始まったばかりだった。
風詠みの地図と星屑の羅針盤
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