地図職人の見習いカイは、師匠の工房の片隅で息を殺していた。彼の指先がなぞるのは、羊皮紙に滲んだ古びたインクの線。それは、誰もが御伽噺だと笑う、天空に浮かぶ島「アヴァロン」への不完全な地図だった。
師匠が原因不明の熱病に倒れて数日。唯一の治療法は、アヴァロンにしか咲かないという伝説の薬草「月光草」。カイは、師匠の命を救うため、この不確かな地図に全てを賭ける決意を固めた。
「本気なの、カイ?あんな雲の上の絵空事に?」
カイの幼馴染で、天才的な発明家のリナは、油まみれの手で髪をかき上げながら呆れてみせた。彼女の工房は、奇妙な歯車や蒸気を噴くパイプで埋め尽くされている。カイの背後には、リナが心血を注いで作り上げた小型の飛行船「シルフィード号」が、トンボのような繊細な翼を休めていた。
「お願いだ、リナ。君の船があれば、きっと……」
カイの真剣な瞳に、リナは大きくため息をつくと、やがてニヤリと笑った。
「しょうがないなあ。私のシルフィード号の性能を試すのに、うってつけの冒険じゃない!」
二人の冒険は、荒れ狂う嵐の海域「竜の顎」から始まった。雷鳴が獣の咆哮のように轟き、巨大な水柱が牙となってシルフィード号に襲いかかる。
「カイ、舵路を!このままじゃ翼がもげる!」
リナの絶叫が風に掻き消される中、カイは船室の床に転がりながらも、地図と羅針盤に必死に食らいついた。地図に記された微かな風の流れ、雲の形。それは師匠が遺した、ただの線ではなかった。空を読むための古代の知恵だった。
「右へ三度!上昇気流が来る!」
カイの叫びに応え、シルフィード号は鋭く旋回し、竜巻の中心に生まれる一瞬の凪を縫うように突き進んだ。やがて、絶え間ない嵐が嘘のように静まり、彼らの眼前に信じられない光景が広がった。
雲海の上に、巨大な島が浮かんでいた。
滝が島から溢れ落ち、虹の橋を架けている。見たこともない巨木が天を突き、その枝々には水晶のような果実が実っていた。
「すごい……本当にあったんだ……」
シルフィード号を島の森に着陸させると、そこは生命の奇跡に満ちていた。足元の苔は踏みしめるたびに青白い光を放ち、頭上では翼を持つリスが虹色の花の蜜を吸っている。だが、その美しさは獰猛な牙を隠していた。突如、地面から巨大な食虫植物が鎌首をもたげ、二人に襲いかかった。
「うわっ!」
リナが素早く腰のポーチから閃光弾を投げつける。強烈な光に目が眩んだ隙に、二人はその場を駆け抜けた。
地図が示す月光草の自生地は、島の中心にある古代遺跡の祭壇だった。苔むした石畳を進むと、月光を浴びて青白く輝く、神秘的な花々が群生しているのが見えた。月光草だ。
安堵したのも束の間、地響きと共に祭壇を守るように鎮座していた巨石の像が動き出した。古代文明が遺した機械仕掛けの守護者、ゴーレムだ。その瞳は冷たいルビーの光を宿し、侵入者を明確な敵意で見据えていた。
「カイ、何か手は!?」リナが叫びながら、ゴーレムの振り下ろす巨大な腕を転がって避ける。
カイは必死で地図の余白に書かれた古代文字を解読していた。
「『影の最も濃き時、守護者の光は眠る』……これだ!」
ゴーレムの動力源は、胸で輝く巨大なコアクリスタルだった。強い光を当てれば、一時的に機能を停止させられるかもしれない。
「リナ、あの閃光弾をもう一度!胸のコアを狙って!」
「任せて!」
リナがゴーレムの注意を引きつけ、カイは遺跡の柱の影に隠れてタイミングを計る。ゴーレムがリナに狙いを定めた瞬間、カイは死角から飛び出した。
「今だ!」
リナが投げた閃光弾が、ゴーレムの胸で炸裂する。凄まじい光に、ゴーレムの動きが鈍く、不規則になった。その一瞬の隙を突き、カイはリナが改造した高圧蒸気カッターを手に、ゴーレムの脚部に駆け寄った。そして、動力パイプと思しき部分を、渾身の力で切断した。
けたたましい金属音と共に、ゴーレムは動きを止め、その場に崩れ落ちた。
月光草を手にした二人は、満身創痍で故郷へと帰還した。薬草のおかげで師匠は奇跡的に回復し、カイの冒険譚を聞くと、皺くちゃの顔で優しく笑った。
「よくやったな、カイ。お前はもう見習いじゃない。立派な地図職人だ」
師匠はカイに、真新しい羊皮紙と精巧なコンパスを手渡した。
「世界の空白は、まだいくらでもある。お前の手で、この地図を完成させてこい」
隣でリナが誇らしげにウインクする。カイの手には、未知なる世界への招待状が握られていた。空飛ぶ島アヴァロンは、二人の冒険の始まりに過ぎなかった。世界の果てには、まだどんな謎が眠っているのだろう。カイの胸は、新たな冒険への期待で高鳴っていた。
天空の地図と月光草
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