さよなら、後悔の羅針盤

さよなら、後悔の羅針盤

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第一章 聞こえすぎた未来

カイの世界は、いつだって後悔の囁きで満ちていた。

埃と古いインクの匂いが染みついた骨董品店『時の迷子亭』の奥で、彼は息を潜めるように暮らしている。窓から差し込む午後の光が、宙を舞う無数の塵を金色に照らし出す。その一つ一つに、声が宿っているかのようだった。「あの道を選んでいれば」「なぜ、あの時言えなかったのか」。それは、彼にしか聞こえない、未来の自分が発する後悔の残響。この呪いにも似た能力のせいで、カイの人生は「選ばなかった」選択肢で埋め尽くされていた。右に行くか、左に行くか。その些細な岐路でさえ、彼の耳には「そっちじゃない、そっちに行くと酷い目に遭うぞ」という未来からの警告が木霊する。結果、彼はどこにも行けず、この薄暗い店の中で、過去の遺物たちと時間を止めているだけだった。

その日、店の古びたベルが、錆びついた音を立てた。入ってきたのは、顔なじみの遺品整理屋だ。彼が置いていったガラクタの木箱の中に、そいつはあった。鈍い真鍮の輝きを放つ、手のひらサイズの羅針盤。ガラスには蜘蛛の巣のようなヒビが入り、針は北でも南でもなく、ただ虚空を指して微動だにしない。

何気なく、カイはそれに指を触れた。

その瞬間、世界が軋むような耳鳴りと共に、これまで経験したことのないほど強烈な絶叫が頭蓋を貫いた。

『――なぜ、行かなかったんだ! なぜ、確かめなかったんだ、あの鐘の音を! すべてを失う前に!』

それは単なる囁きではなかった。魂を引き裂くような慟哭。カイは思わず羅針盤を床に落とした。心臓が氷の爪で掴まれたように冷たくなる。落ちた羅針盤の針は、狂ったように回転を始め、やがてピタリと一点を指し示した。店の天井を、屋根を、そして分厚い雲をも貫き、遥か天空の、誰も見たことのない一点を。

木箱の底には、一枚の黄ばんだ紙片が残されていた。見覚えのある、祖父の震えるような筆跡。

「我が愛する孫、カイへ。もしお前が『声』に導かれ、この羅針盤を手にしたのなら、それは運命だ。恐れるな。空を目指せ。そして、『鳴らない鐘』の真実を確かめてくれ。それが、我ら一族の冒険の終着点であり、お前の人生の始発点になる」

祖父は、街では有名な冒険家だった。カイが生まれる前に、空の果てを目指すと言って姿を消した、伝説の人。その祖父が、自分と同じ「声」を聞いていた? そして、この羅針盤と「鳴らない鐘」に、その答えが?

カイの耳の奥で、まだあの慟哭が反響している。恐怖で足がすくむ。しかし、それ以上に、彼の心を揺さぶったのは、初めて感じた強い好奇心だった。後悔の声に支配されるだけの人生に、初めて差し込んだ一筋の光。この冒険の先には、もっと酷い後悔が待っているのかもしれない。だが、行かなければ、この声の主に、祖父に、そして自分自身に、一生顔向けができない気がした。

カイは床の羅針盤を拾い上げ、強く握りしめた。ひび割れたガラスの向こうで、針はぶれることなく、まだ見ぬ天空を指し示し続けていた。

第二章 風読む少女と臆病な一歩

カイの冒険は、想像を絶するほど覚束ないものだった。街を一歩出ただけで、「その道は崖崩れが起きるぞ」「その川の水には毒がある」という無数の後悔の声が降り注ぎ、彼は三歩進んでは二歩下がる有様だった。羅針盤が指し示す方角は、人が踏み入らない険しい山脈の先。彼の足は、聞こえるはずのない未来の痛みにおびえ、鉛のように重かった。

そんな彼を、背後から突き飛ばすような突風が襲った。

「うわっ!」

「あ、ごめん! ちょっと風を読み間違えた!」

振り返ると、そこにいたのは、亜麻色の髪を三つ編みにした、快活な少女だった。彼女は巨大な布製の凧のようなものを背負い、悪びれる様子もなく笑っている。「風読み」のリナと名乗った彼女は、風の流れを肌で感じ、それに乗って空を渡る一族の末裔だという。

「あんた、面白いもん持ってるね」。リナの視線は、カイが握りしめる羅針盤に注がれていた。「天空遺跡の方角を指してる。あそこは『鳴らない鐘』があるって伝説の場所だけど、気流が乱れてて、あたしたち風読みでも近づけないんだ」。

リナはカイの臆病さを不思議そうに眺めながらも、彼の持つ羅針盤に強い興味を抱いた。彼女の一族もまた、伝説の鐘の謎を追い求めていたのだ。目的が一致した二人は、奇妙な旅の道連れとなった。

リナは、カイとは正反対だった。彼女は未来の後悔など気にも留めず、目の前の風を、空の色を、土の匂いを全身で感じて、今この瞬間を生きていた。カイが「この先の橋、落ちるかもしれないって声が…」と躊躇すれば、リナは「落ちる前に渡りきればいいんでしょ!」と彼の手を引いて駆け出す。カイが「この森は迷いそうだ…」と立ちすくめば、「迷ったら、その時考えればいいじゃん!」と笑い飛ばす。

彼女の隣にいると、カイを縛り付ける後悔の声が、少しだけ遠のく気がした。リナが教えてくれる風の歌、星の物語、花の秘密。それらは、未来の恐怖ではなく、今ここにある世界の美しさをカイに教えてくれた。

「カイはさ、なんでそんなに先の事ばかり気にするの?」

ある夜、焚火を囲みながらリナが尋ねた。空には、手が届きそうなほどの星が瞬いていた。

「聞こえるんだ。未来の僕の後悔が。だから、失敗しないように、傷つかないように…」

「ふーん」。リナは薪をくべながら言った。「でもさ、転ばないようにって下ばっかり見てたら、こんなに綺麗な星空、見逃しちゃうよ」。

リナの言葉が、カイの胸に小さな波紋を広げた。そうだ、自分はずっと、未来の失敗という幻影に怯え、現在の煌めきから目をそらしてきた。この旅に出て、初めて人の温かさに触れ、世界の広さを知った。リナと一緒にいるこの時間も、いずれ後悔の声に変わるのだろうか。そう思うと、胸が締め付けられた。

少しずつ、しかし確実に、カイの中で何かが変わり始めていた。声は依然として彼を脅かす。だが、その声に抗ってでも守りたいものが、すぐ隣にいる温かい存在が、彼の一歩を支えていた。

第三章 天空遺跡の囁き

幾多の困難を乗り越え、二人はついに羅針盤が指し示す最終地点へとたどり着いた。そこは、雲海を突き抜けた先に浮かぶ、巨大な天空遺跡。重力に逆らうように浮遊する石の回廊、ガラス化した壁面を流れる滝、そして、時間の流れから切り離されたような静寂。まるで、世界が生まれた瞬間の景色が、そのまま化石になったかのようだった。

遺跡の中心には、天を衝くほどの巨大な鐘楼がそびえ立っていた。そして、そこに吊るされているのが、伝説の「鳴らない鐘」だった。鐘は水晶のように透き通り、内部には星屑を溶かし込んだような複雑な機構が脈動している。しかし、その荘厳さとは裏腹に、不気味なほどの沈黙を保っていた。

鐘に近づくにつれて、カイの耳鳴りは激しくなり、後悔の声は一つの巨大なうねりとなって彼に襲いかかった。

『行くな、カイ!』

『それに触れるな!』

『頼む、俺たちと同じ過ちを繰り返さないでくれ!』

それはもはや未来の自分の声ではなかった。何十、何百という異なる男たちの悲痛な叫び。年齢も、声色も違う、無数の「カイ」たちの声。

「どうしたの、カイ? 顔が真っ青だよ」。リナが心配そうにカイの腕に触れる。その温もりが、カイを辛うじて現実につなぎとめていた。

「声が…僕を止めようとしてる。今までで一番強い力で…」

カイは恐怖で震え、足がその場に縫い付けられたようになった。鐘楼の入り口は、まるで巨大な獣の顎のように、彼を待ち構えている。一歩踏み出せば、二度と戻れない。声たちがそう警告している。これまで、この声に従うことで、彼はあらゆる危険を回避してきたのだ。この警告を無視することは、自ら破滅に飛び込むことに等しい。

しかし、彼の脳裏にリナの言葉が蘇る。『転ばないようにって下ばっかり見てたら、星空を見逃しちゃうよ』。

カイはリナを見た。彼女は不安そうな顔をしながらも、カイの瞳をまっすぐに見つめ、静かに頷いた。その信頼に満ちた眼差しが、カイの凍り付いた心に火を灯した。

もう、声に怯えるだけの自分は嫌だ。祖父が残した謎を、この声の正体を、自分の目で確かめなければならない。たとえ、その先にどんな後悔が待っていようとも。

「行くよ、リナ」。カイは震える声で言った。

「うん」。リナは力強く彼の手を握り返した。

二人で、鐘楼へと続く石の階段を上り始めた。一歩進むごとに、無数のカイたちの絶叫が鼓膜を突き破らんばかりに響き渡る。それでも、カイは足を止めなかった。握りしめたリナの手の温かさだけを頼りに、彼は運命の中心へと、歩みを進めていった。

第四章 鳴らない鐘の真実

鐘の真下に立った瞬間、時が止まった。カイの耳に響いていた絶叫が嘘のように消え去り、絶対的な無音が空間を支配した。羅針盤の針は、鐘の中心を指したまま、激しく振動している。

カイは、まるで何かに引き寄せられるように、ゆっくりと手を伸ばした。リナが固唾を飲んで見守っている。

そして、彼の指先が、水晶のように冷たい鐘の表面に触れた。

――世界が、弾けた。

カイの意識は、肉体から引き剥がされ、光の奔流に飲み込まれた。彼の脳裏に、祖父の記憶、そして見知らぬ無数の「カイ」たちの人生が、奔流となって流れ込んできた。

あるカイは、鐘に触れたことで莫大な富を得たが、そのためにリナを失い、孤独な王として死んだ。あるカイは、病を治す力を得たが、代償として愛する人々との記憶を全て失った。またあるカイは、世界を救う英雄になったが、その過程で心を失い、ただの抜け殻になった。彼らは皆、それぞれの選択をし、そして、例外なく、何か決定的なものを失って後悔していた。

カイは理解した。この「鳴らない鐘」は、願いを叶える装置などではない。それは、無数に分岐する可能性の中から、たった一つの未来を「確定」させてしまう、恐るべき因果律の固定装置だったのだ。そして、彼が今まで聞いていた後悔の声は、未来の自分の声などではなかった。それは、この鐘に触れ、誤った未来を確定させてしまった、無数の「並行世界のカイたち」の魂の叫びだったのである。彼らは、時空を超えて、まだ選択をしていないカイに警告を送り続けていたのだ。「俺たちと同じ過ちを犯すな」と。

祖父もまた、この真実にたどり着いた。だが、彼は鐘に触れなかった。代わりに、この羅針盤――後悔の声を増幅させ、警告を伝えるための装置――を、未来の血族のために残したのだ。

光の奔流が収まり、カイの意識はゆっくりと現実に戻ってきた。目の前には、心配そうに彼を覗き込むリナの顔がある。

「カイ…? 大丈夫?」

「…うん」。カイは、涙が頬を伝っていることに気づいた。「全部、わかったよ」。

彼はリナに、声の正体と、鐘の真実を語った。この鐘に触れれば、どんな未来も選べる。しかし、選んだ瞬間に、他のすべての可能性は永遠に失われる。そして、多くの「自分」が、その選択を後悔しているのだと。

リナは黙ってカイの話を聞いていた。そして、静かに言った。「じゃあ、カイはどうしたいの?」。

その問いは、カイの心の最も深い場所に突き刺さった。声はもう聞こえない。警告は、役目を終えたかのように沈黙している。今、選択は、完全に彼自身に委ねられていた。

第五章 僕らが選ぶ水平線

カイは、透き通った鐘を見上げた。その中には、星々のように煌めく無数の未来が映っているように見えた。リナと結ばれ、幸せに暮らす未来。偉大な冒険家になる未来。富と名声を手に入れる未来。そのどれもが、魅力的だった。そして、そのどれもが、何かを失う痛みを伴っていた。

彼は、並行世界の自分たちの顔を思い浮かべた。彼らは、カイに「完璧な答え」を求めていたわけではない。ただ、後悔だけはしてほしくなかったのだ。

カイは、ゆっくりと鐘から手を離した。そして、懐から古びた羅針盤を取り出し、そっと鐘の前の祭壇に置いた。祖父から受け継いだ冒険の道標を、ここで終わらせるために。

「僕は、選ばない」。カイは、リナに向き直って言った。その声には、もう迷いはなかった。「確定されたたった一つの未来なんていらない。たとえこの先、何度も間違えて、後悔することがあるとしても…僕は、君と一緒に、不確かな未来を歩きたい」。

彼はリナの手を取った。「この旅で、僕は学んだんだ。未来の恐怖に怯えるんじゃなく、今この瞬間の、君の隣にある温かさを信じることを。僕たちの冒険は、ここがゴールじゃない。ここからが、本当の始まりなんだ」。

リナの瞳が、驚きと、そして愛しさに満ちた輝きで潤んだ。彼女は力強くカイの手を握り返し、満面の笑みを浮かべた。「うん! それが、あたしの知ってるカイだよ!」。

二人は、鳴らない鐘に背を向けた。もう、カイの耳には後悔の声は聞こえない。代わりに、風の音、リナの笑い声、そして、自分自身の力強い心臓の鼓動が聞こえていた。並行世界のカイたちの声は、警告から、静かなエールに変わったのかもしれない。

天空遺跡を後にした二人が見たのは、雲海に沈む壮大な夕日だった。世界はどこまでも広く、彼らがこれから描いていく地図は、まだ真っ白だ。

完璧な未来など存在しない。後悔しない人生もないのかもしれない。だが、大切な誰かと手を取り合い、不確かな水平線に向かって自らの足で一歩を踏み出すこと。それこそが、何物にも代えがたい、人生という名の最も偉大な「冒険」なのだと、カイは知った。彼の表情は、旅立つ前の臆病な青年とは比べ物にならないほど、晴れやかで、力強かった。

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