無重力の心臓と、忘れられた空の歌

無重力の心臓と、忘れられた空の歌

9 4807 文字 読了目安: 約10分
文字サイズ:

第一章 浮遊する男と一枚の羽

カイの日常は、石を抱くことから始まる。夜明けの冷たい空気の中、彼は河原で昨日よりも少しだけ重い、滑らかな灰色の石を探す。それが彼の命綱だった。

この世界では、記憶が物理的な重さを持っていた。豊かな思い出を持つ者はどっしりと大地に根を張り、多くの知識を蓄えた賢者は山のように動かない。だが、カイは違った。彼は、まるで中身のない風船のように軽かった。何かを、それも途方もなく重い何かを、ごっそりと失ってしまったらしかった。いつからそうなったのか、何を失ったのか、それすらも覚えていない。ただ、気づいた時には、気を抜くと体が宙に浮いてしまうようになっていた。

だから彼は石を抱く。他人に奇異の目で見られようと、腕が痺れようと、石を手放すことは死を意味した。彼の存在そのものを、この世界に繋ぎ止めるための、冷たい重り。

その日も、カイは市場へ向かう道を、ずしりとした石を胸に抱えて歩いていた。人々が彼を避けていく。軽薄な男、過去のない男――そんな囁きが風に乗って耳に届くが、もう慣れてしまった。彼の心には、何の感情も重さも生まれなかった。

突然、谷間から吹き上げてきた突風が、カイの体を弄んだ。マントが大きく膨らみ、足が地面から数センチ浮く。

「くっ……!」

カイは必死で石にしがみつき、道の脇の杭に体を固定しようとした。だが、風の力はあまりに強い。体が凧のように煽られ、宙へと引きずり上げられていく。人々の短い悲鳴が遠くなる。このまま空の彼方へ消えていくのか――諦めが心をよぎった、その瞬間だった。

ひらり、と。一枚の純白の羽が、渦巻く風の中から彼の頬を撫でるように舞い落ちてきた。それは鳥の羽ではなかった。触れた瞬間、指先から温かい何かが流れ込んでくるような、不思議な感覚。それはカイの空っぽの心臓に、ほんの微かな、しかし確かな重さを与えた。

――あったかい。

忘れていた感情の欠片。それは、陽だまりの匂い、優しい歌声、小さな手のぬくもり。断片的なイメージが脳裏を閃き、消えた。風が止み、カイの体はどさりと地面に落ちた。人々が遠巻きに見ている。しかし、カイの目は、手の中にある純白の羽に釘付けだった。

石の重さとは違う。これは、失われたはずの「彼の」重さの一部だ。

カイはゆっくりと立ち上がった。胸に抱いた石が、いつもより少しだけ軽く感じられた。彼は固く、固く、その羽を握りしめた。空のどこかに、失った記憶がある。この羽は、そこから落ちてきたのだ。

「行かなくては」

誰に言うでもなく、呟きが漏れた。空っぽの心臓が、初めて自分の意志で脈打った気がした。石ではない、本当の重さを取り戻すための冒険が、今、始まろうとしていた。

第二章 大地の記憶と老婆の言葉

羽がかすかに光を放ち、北を示しているようだった。カイは最低限の荷物と、一番重い石を背負い、あてのない旅に出た。道中は想像以上に過酷だった。少しでも強い風が吹けば、大樹にしがみついて嵐が過ぎるのを待たなければならない。川を渡るにも、重い石を先に投げ入れ、それに繋いだ綱を頼りにするしかなかった。彼はまるで、世界から拒絶されているようだった。

数週間が過ぎた頃、カイは岩だらけの荒野で一人の老婆と出会った。彼女はリラと名乗り、その身のこなしは、まるで大地に根を生やしているかのように揺るぎなかった。深く刻まれた皺の一つ一つに、長い年月の記憶が宿っているのが見て取れた。彼女は、石を背負い、おぼつかない足取りで歩くカイを一瞥すると、こともなげに言った。

「軽いね、あんた。そんな石ころで自分を縛り付けて、息苦しくないのかい」

カイは言葉に詰まった。初めてだった。自分の軽さを憐れみも嘲笑もせず、ただ事実として口にした人間に会ったのは。

リラはカイの持つ羽に目を留めると、ふむ、と頷いた。

「風詠みの頂を目指しているのかい。そこは、記憶を空に還す場所だよ。あるいは、空から記憶を授かる場所でもある」

「記憶を、空に還す?」

「そうさ。重すぎる記憶に耐えきれなくなった者が、それを風に託しにやってくる。あんたみたいに、何かを取り戻しに来る者も稀にいるがね」

リラの言葉は、カイにとって初めて聞く世界の理だった。記憶は、ただ失われるだけでなく、自ら手放すこともできるのか。

リラはカイと共に数日間、道を歩いてくれた。彼女は旅の途中で目にする草花の名前、雲の動きで天候を読む方法、星々の紡ぐ古い物語など、様々なことをカイに語って聞かせた。それは、カイの空っぽの器に、ぽつり、ぽつりと新しい雫が落ちるような体験だった。

ある村に立ち寄った時、川に落ちた子供を見つけた。カイは咄嗟に背負っていた石を投げ捨て、子供を助けるために流れに飛び込んだ。体が浮き上がり、危うく流されそうになったが、岸辺の子供の母親が投げた縄に救われる。ずぶ濡れになりながら、子供の無事な姿を見て安堵した瞬間、カイは自分の体がほんの少しだけ、本当にわずかだが、重くなっていることに気づいた。

「感謝」という記憶。子供の母親から何度も頭を下げられ、温かい食事を振る舞われた「温情」という記憶。それらが、カイの中に新しい重さとして根付き始めていた。

リラは別れ際に言った。「記憶の重さってのは、ただ過去を背負うことじゃない。未来へ向かって、しっかりと大地を踏みしめるための礎なのさ。風詠みの頂で、あんたが本当の重さを見つけられることを祈っているよ」

老婆の言葉を胸に、カイは再び歩き出した。背中の石はまだ必要だったが、彼の足取りは、旅立つ前よりも少しだけ、確かになっていた。

第三章 風詠みの頂と罪の重さ

聳え立つ山々の頂、風が絶えず歌うように吹き抜ける場所、そこが風詠みの頂だった。空気は薄く、カイの体はこれまで以上に浮き上がろうとする。彼は岩肌に体を押し付けながら、ようやく頂きの小さな社にたどり着いた。

そこにいたのは、風そのもののような男だった。長く白い髪と髭を風になびかせ、目を閉じて何かの音に耳を澄ませている。彼こそが、代々この場所で記憶を司る「風詠み」だった。

「来たか、空っぽの男よ」

風詠みは目を開けないまま、静かに言った。

「この羽が、俺をここに導きました。俺は、失った記憶を取り戻したい」

カイが羽を差し出すと、風詠みはゆっくりと首を横に振った。

「それはお前を導いたのではない。お前に還りたがっているだけだ。お前が自ら、ここに捨てた記憶のかけらが」

「……俺が、捨てた?」

カイは絶句した。盗まれたのでも、事故で失ったのでもない。この耐えがたいほどの軽さは、自分自身が望んだ結果だというのか。

「信じられない……。なぜ俺が、自分の記憶を捨てる必要があったんだ」

「人は、耐えきれぬ重さからは逃げたくなるものだ。お前の記憶は……あまりにも重く、そして悲しいものだったからな」

風詠みが社の奥から、古びた水盤を持ってきた。その水面に、カイが持ってきた純白の羽を浮かべると、水面が銀色に輝き始め、映像を映し出した。

そこにいたのは、幼いカイと、彼によく似た笑顔の少女だった。二人は崖の上で、手作りの凧を揚げて遊んでいる。カイよりも小さなその少女は、彼の妹だった。

『兄さん、もっと高く! 空まで届くくらい!』

楽しそうな声が、記憶の底から蘇る。

次の瞬間、映像の中のカイは、凧糸に気を取られて足元の石につまずいた。その拍子に、隣にいた妹の体を強く押してしまう。小さな体はバランスを崩し、叫び声とともに崖の下へ――。

「あ……ああ……」

カイの喉から、かすれた声が漏れた。そうだ、思い出した。リナ。それが妹の名前だった。自分のせいで、たった一人の家族を失ったのだ。絶望、後悔、自分を責める声。その記憶が生み出す鉛のような重圧に、当時のカイの心は耐えきれなかった。彼はこの場所へやって来て、罪悪感という重さの根源である、妹に関する全ての記憶を風に託したのだ。

軽くなりたかった。何もかも忘れ、痛みも悲しみも感じない、無重力の心臓を手に入れたかった。

「これが、お前の真実だ」と風詠みは告げた。「この記憶を受け入れ、再びその重さを背負う覚悟があるか? それとも、このまま空っぽで生き続けるか? 選ぶのはお前だ」

カイはその場に崩れ落ちた。足元の大地が、まるで存在しないかのように遠く感じられた。彼が求めていた冒険の果てにあったのは、輝かしい宝ではなく、自らが捨てた醜い罪の記憶だった。

第四章 無重力の心臓が選んだ道

どれくらいの時間、そうしていただろうか。風の歌が、まるでリナのすすり泣きのように聞こえ、カイの心を苛んだ。逃げ出したい。また全てを忘れて、軽いだけの存在に戻ってしまいたい。そうすれば、この胸を抉るような痛みを感じなくて済む。

だが、その時、彼の脳裏に旅の記憶が蘇った。

大地のようにどっしりとしたリラの皺だらけの笑顔。『記憶の重さってのは、未来へ向かうための礎なのさ』という言葉。川で助けた子供の母親が握ってくれた、温かい手の感触。村人たちと交わした、何気ない会話の数々。

それらは全て、リナを忘れた後に得た、新しい記憶の重さだった。軽く、空っぽだった自分を、この世界に繋ぎ止めてくれた、かけがえのない重さ。

もし、リナの記憶から逃げ続ければ、この新しい記憶たちをも裏切ることになるのではないか。罪から目を背け、ただ浮遊して生きることは、本当に「生きている」と言えるのだろうか。

「……受け入れます」

カイは、震える声で言った。顔を上げ、風詠みをまっすぐに見つめる。

「俺は、俺の罪ごと、リナを思い出したい。あいつのことを忘れたまま生きるなんて、もうできない」

その瞳には、確かな意志の重さが宿っていた。風詠みは静かに頷き、水盤をカイの前に差し出した。

「ならば、その手を浸すがいい」

カイは覚悟を決め、両手を水盤に浸した。途端に、激流のような記憶が全身を駆け巡った。リナと笑い合った日々、彼女が好きだった花の匂い、最後に交わした約束、そして、崖から落ちる瞬間の、絶望に歪んだ彼女の顔。全ての記憶が、罪悪感という名の圧倒的な質量を伴って、カイの魂に刻み込まれていく。

「ぐっ……!」

体が、鉄塊になったかのように重くなった。立っていることすらできず、地面に膝をつく。だが、不思議だった。体はこれ以上ないほど重いのに、心は、あの空っぽだった頃よりもずっと、ずっと軽やかだった。

罪の記憶は、確かに重い。しかし、旅で得た新しい記憶たちが、まるで土台のように、その重さを支えてくれているのを感じた。一人で背負うには耐えきれない重さも、誰かとの繋がりの中でなら、背負っていけるのかもしれない。

カイはゆっくりと立ち上がった。もう、石を抱える必要はなかった。彼自身の足が、記憶という礎の上に、どっしりと大地を掴んでいた。

「ありがとう、ございました」

深々と頭を下げるカイに、風詠みは何も言わず、ただ遠くの空を見つめていた。

風詠みの頂を降りるカイの足取りは、重く、しかし力強かった。時折、風が彼の耳元で歌うように囁く。それは、かつてリナが好きだった歌のメロディーだった。忘れていたはずの歌を、カイは静かに口ずさむ。

悲しみが消えたわけではない。罪が許されたわけでもない。だが、彼はその全てを抱きしめて、未来へと歩いていく。記憶という、時に残酷で、しかし何よりも愛おしい重さをその身に感じながら。

人は皆、それぞれの重さを背負って大地を踏みしめる。その重さこそが、人を人として、この世界に存在させてくれる証なのだと、カイは風の歌を聴きながら、確かにそう感じていた。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る