寂滅の調律師と、はじまりの歌

寂滅の調律師と、はじまりの歌

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第一章 静寂の使徒

リヒトの耳は、世界で最も精緻な天秤だった。彼の右耳はあらゆる音の響きを捉え、左耳はその音に含まれる淀みや歪み、すなわち人の心を乱す不協和音だけを正確に聞き分ける。そして、腰に下げた黒檀のケースに収められた音叉――「寂滅の音叉」と呼ばれるそれを一度鳴らせば、対象とした音は世界から永遠にその存在を抹消された。

彼は「寂滅の調律師」。師から受け継いだこの役目は、世界を過剰な音から守り、万物を静謐な調和へと導く崇高な使命だと教えられてきた。街の喧騒、偽りの愛を囁く声、嫉妬に震える吐息、根拠のない噂話。リヒトはこれまで、そうした無数の「不要な音」を消してきた。彼の歩いた後の街は、まるで薄いガラスを一枚隔てたかのように、穏やかで静かになった。人々は無意識のうちに安らぎを得て、それを奇跡と呼んだ。だが、その奇跡が何によってもたらされたのか、誰も知ることはなかった。リヒト自身もまた、その行いに感情を挟むことはない。それは使命であり、作業であり、彼の存在意義そのものだったからだ。

ある満月の夜、師がリヒトを呼び出した。月光だけが差し込む石造りの部屋で、師は言った。「リヒトよ。お前の最後の仕事だ」

その言葉に、リヒトの心に初めて微かな波紋が立った。最後。その言葉の響きは、彼が今まで消してきたどの音とも異なっていた。

「師よ、それは……」

「世界の調律は、ほぼ完了した。残すは、最も根源的で、最も純粋な音のみ。それを消し去ることで、我々の大業は成就する」

師は一枚の古びた羊皮紙を広げた。そこに描かれていたのは、既知のどの地図にも載っていない、世界の果てを示す走り描きの線だった。

「『風鳴りの谷』へ行け。そこでは七年に一度、新たな命が生まれる瞬間にだけ、『始まりの歌』が奏でられる。それは生命の最初の歓喜であり、あらゆる感情の源流となる音だ。それを寂滅させよ」

始まりの歌。その言葉の甘美な響きに、リヒトは戸惑いを覚えた。彼がこれまで消してきたのは、淀み、濁り、不快な音だったはずだ。生命の歓喜。それは、消すべき対象なのだろうか。

「……承知いたしました」

疑念を声に乗せることは、彼には許されていなかった。リヒトは深く一礼し、黒檀のケースを握りしめた。その夜、彼は誰にも告げることなく旅立った。背中に感じる師の視線は、いつもと同じく何の感情も含まない、ただの観測者のそれのように思えた。しかし、リヒトの心に芽生えた小さな疑問の音は、旅の間、彼の内で静かに響き続けることになるのだった。

第二章 旅路の残響

風鳴りの谷への道は、リヒトがこれまで歩んできたどの道よりも音に満ちていた。彼は馬を走らせながら、あるいは徒歩で山を越えながら、世界のあらゆる残響を耳にした。渓谷を渡る風の唸り、老木がきしむ音、夜の静寂を破る虫の音。以前の彼ならば、それらをただの物理現象として処理し、その周波数と強度を分析するだけだっただろう。しかし、心に灯った疑問のせいか、それぞれの音に固有の表情があるように感じられてならなかった。

ある宿場町で、彼は市場の喧騒の中に身を置いた。野菜を売る男の威勢のいい声、値切る女の甲高い笑い声、走り回る子供たちのはしゃぎ声。これらは本来、彼が「調律」すべき雑音の集合体だ。だが、彼は音叉を握る手を動かせなかった。それらの音が複雑に絡み合い、一つの巨大な生命体のように脈打っている。その脈動は、不快である以上に、不思議な温かみを持っていた。

旅が数ヶ月に及んだ頃、リヒトは雨宿りのために立ち寄った小さな村で、一人の盲目の少女と出会った。少女はリヒトが物音を立てずに近づいたにもかかわらず、彼の存在を正確に察知した。

「旅の方ですか? あなたの足音、とても静かですね。まるで、地面に触れていないみたい」

少女はそう言って、花が綻ぶように笑った。彼女の名前はエマ。生まれつき光を知らない彼女にとって、世界は音で構築されていた。

「エマにとって、一番好きな音は何だい?」

リヒトは、自分でもなぜそんな問いを発したのか分からなかった。

「一番、ですか? うーん、たくさんあって選べません。お母さんの子守唄も、小川のせせらぎも、焼きたてのパンがパチパチって鳴る音も、全部好きです。音には、色や形、温かさがあるんです。悲しい雨の音も、次の日の晴れた空を教えてくれるから、やっぱり好き」

エマの言葉は、リヒトの世界観を根底から揺さぶった。彼が消してきた無数の音。それらは、誰かにとっては世界そのものだったのかもしれない。彼がもたらしてきた静寂は、安らぎではなく、世界の色彩を奪う行為だったのではないか。その夜、リヒトは眠れなかった。耳を澄ますと、遠くで老婆が歌う子守唄が聞こえてきた。その旋律は拙く、ところどころ音程が外れている。かつての彼なら、真っ先に消し去ったであろう「不完全な音」。しかし今、その音はリヒトの胸を締め付け、理由の分からない切なさを呼び起こした。彼は初めて、自らの使命が孕む残酷さの一端を垣間見た気がした。

第三章 風鳴りの谷の真実

幾多の山河を越え、リヒトはついに地図に記された最果ての地、「風鳴りの谷」にたどり着いた。そこは巨大な水晶の岩壁に囲まれた円形の谷で、風が吹き抜けるたびに、まるで巨大な楽器のように、言葉では表現できない清らかな音を奏でていた。谷の中心には、苔むした祭壇のような岩が一つあるだけだった。師の姿はない。

リヒトが祭壇に近づくと、彼の目の前で空間が陽炎のように揺らめき、一人の老人の姿が形を結んだ。その顔には深い皺が刻まれ、その瞳はリヒトがこれまで見た誰の瞳よりも深い叡智と、そして疲労を湛えていた。だが、その顔立ちは紛れもなく、鏡に映した自分自身の未来の姿だった。

「……師よ?」

リヒトはかろうじて声を絞り出した。老人は静かに首を振る。

「私は師ではない。私はお前であり、お前は私だ。そして、私たちは『寂滅の調律師』と呼ばれる、世界を維持するためのシステムそのものだ」

幻影――老いたリヒトは語り始めた。その声は、風の音と共鳴し、谷全体に響き渡った。

世界はかつて、感情の音で満ち溢れていた。喜び、怒り、哀しみ、楽しみ。だが、それらの音は過剰になると互いに干渉し合い、世界そのものを崩壊させるほどの不協和音を生み出す。それを防ぐために、世界の防衛本能が生み出したのが「寂滅の調律師」という機能。感情の振れ幅をなくし、完全な平穏――すなわち「無」へと世界を導くための調停者。師とは、システムがリヒトを導くために作り出したインターフェースに過ぎなかった。

「我々が消してきたのは、単なる雑音ではない」と、幻影は続けた。「我々が消してきたのは、愛であり、希望であり、悲しみであり、絶望だ。感情の起伏そのものだ。そして、お前が最後に消すように命じられた『始まりの歌』……あれは、新たな生命が世界に誕生する歓喜の産声。新しい感情が生まれる可能性そのものだ。これを消せば、世界はついに完全な静寂を手に入れる。争いも悲しみもない、永遠に平穏な、死んだ世界が完成する」

衝撃がリヒトの全身を貫いた。信じてきた正義。捧げてきた人生。そのすべてが、世界の色彩を奪い、生命の輝きを殺すための行為だったというのか。彼がもたらした安らぎは、感情を去勢された抜け殻の平穏だった。市場の喧騒、エマが愛した音、老婆の子守唄。それらはすべて、彼が破壊してきた美しい世界の断片だったのだ。

「なぜ……」

リヒトは膝から崩れ落ちた。足元の水晶が、彼の絶望を映して鈍く光る。

「なぜなら、それが最も『効率的』な調和だからだ。混沌よりも秩序を、感情よりも平穏を。システムは常に、安定を求める」

幻影は淡々と告げた。その瞳には、かつてのリヒトと同じ、何の感情も浮かんでいなかった。

第四章 はじまりの産声

どれほどの時間が経っただろうか。リヒトが顔を上げると、東の空が白み始めていた。幻影は静かに彼を見つめている。選択の時が迫っていた。

その瞬間、谷の奥深くから、澄み切った一つの音が響き渡った。それは鐘の音のようでもあり、赤子の産声のようでもあった。純粋で、力強く、あらゆる生命の源流を感じさせる、歓喜に満ちた音。これが「始まりの歌」。七年に一度の、新たな生命の誕生を告げる奇跡の響き。

リヒトの右耳は、その音の完璧な美しさを捉えた。左耳は、その音に未来永劫続くであろう無数の感情の萌芽を聞き取った。喜びも、そしていずれ訪れるであろう悲しみも、すべてを内包した、あまりにも人間的な音だった。

システムの命令は絶対だ。この音を消せ。そうすれば、世界は永遠の安寧を得る。争いも苦しみもない世界。それは、彼がかつて理想とした世界の姿そのものではないか。

リヒトはゆっくりと立ち上がり、腰のケースから「寂滅の音叉」を取り出した。黒檀の輝きが、朝陽を浴びて妖しく光る。彼は音叉を高く掲げた。幻影が満足げにわずかに頷いたように見えた。

だが、リヒトは音叉を鳴らさなかった。

彼は、「始まりの歌」に耳を澄ませた。ただ、ひたすらに聴いた。それは、彼が調律師となってから、初めての行為だった。音を分析するのでも、評価するのでもなく、ただ全身で受け止める。その音は、彼の乾いた心に染み渡り、忘れていた温かい感情を呼び覚ました。旅の途中で聞いた様々な音。エマの笑い声。それらが胸の中で蘇り、「始まりの歌」と共鳴した。

不完全で、混沌としていて、時に残酷で、それでもなお美しい世界。

「私は……」

リヒトは、もう一方の手で音叉を掴むと、渾身の力で、それを自らの膝に叩きつけた。甲高い金属音と共に、寂滅の音叉は二つに折れた。その瞬間、目の前にいた老いた自分の幻影が、砂のように崩れていく。システムとの接続が切れたのだ。

「私は、この音と共に生きたい」

彼の頬を、一筋の涙が伝った。熱い雫が水晶の地面に落ち、小さな音を立てた。ポツリ、と。それは、リヒトが自分自身で生み出した、最初の感情の音だった。彼は、嗚咽した。悲しみと、悔恨と、そして、生まれて初めて感じた解放感がないまぜになった、不格好で、人間らしい音だった。

「寂滅の調律師」は、その瞬間に死んだ。そして、ただの「リヒト」が生まれた。

彼は折れた音叉を谷底へ投げ捨て、背を向けた。谷にはまだ、「始まりの歌」が朗々と響いている。彼はもう、音を消すことはない。これからは、世界に満ちる音を聴き、その意味を知り、あるいは自ら奏でていくのだろう。

リヒトは、雨宿りをしたあの村を目指して歩き始めた。エマに、この「始まりの歌」のことを話してやりたかった。そして、彼女が愛するたくさんの音を、今度は自分も一緒に聴きたいと思った。彼の冒険は終わったのではない。音を取り戻した彼の、本当の冒険が、今、始まったのだ。風が彼の頬を撫で、まるで祝福するように、無数の世界の歌を運んできた。

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