笑う男とたい焼きのワルツ

笑う男とたい焼きのワルツ

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第一章 たい焼きは静寂を愛す

相田誠の人生は、静寂と秩序を旨として構築されていた。区役所の戸籍係という仕事は、まさに彼の天職だった。整然と並ぶファイル、定められた手順、そして感情の波風が一切立たない静かな窓口。彼はその凪いだ水面のような日常を、神経質な手つきで守り続けていた。三十年間、彼の世界は完璧にコントロールされていた。たった一つの、致命的なバグを除いては。

その日も相田は、寸分の狂いもなく印紙を貼り付け、完璧な角度でお辞儀をしていた。しかし、彼の意識の片隅は、常にデスクの下の暗がりに向けられている。そこには、彼の平穏を脅かす禁断の果実――ではなく、一匹の冷え切った「たい焼き」が、まるで秘密の取引の証拠品のように鎮座していた。昨日の昼休み、お笑い芸人の動画をうっかり目にしてしまった際の、忌まわしい副産物である。

相田誠は、心から「面白い」と感じると、たい焼きを生成してしまう特異体質だった。

それは遺伝でもなければ呪いでもない。物心ついた頃からの、不条理な身体仕様だった。幼少期、友人の渾身の変顔に大笑いした瞬間、教室の床一面があんことカスタードの甘い香りに包まれた「たい焼き大虐殺」事件以降、彼は笑うことを自らに禁じた。感情に蓋をし、面白いものから目を逸らし、無表情という名の鎧を身にまとって生きてきた。たい焼きは、彼の心の平穏を食い破る、甘く厄介な侵略者なのだ。

彼は誰にも気づかれぬよう、素早くたい焼きを鞄にしまい込み、証拠隠滅を図る。今日もまた、静寂は守られた。そう安堵のため息をついた、まさにその時だった。

「本日付で配属になりました、天野ヒカリです!趣味は人を笑わせることです!相田さんのそのポーカーフェイス、絶対に崩してみせますので、よろしくお願いします!」

背後から突き刺さる、太陽光線のようにやかましい声。振り返ると、そこにはキラキラと瞳を輝かせた新人が、満面の笑みで立っていた。天野ヒカリ。その名は、相田にとって「災害警報」と何ら変わりはなかった。

趣味、人を笑わせること。

相田の眉が、ぴくりと痙攣する。彼の完璧に制御された世界に、最大級のバグがインストールされた瞬間だった。デスクの下の暗がりが、これから訪れるであろう、たい焼きたちの蠢きを予感して、やけに生暖かく感じられた。

第二章 ジョークという名の時限爆弾

天野ヒカリという名の時限爆弾は、相田の予想を遥かに超える破壊力を持っていた。彼女は息をするようにジョークを飛ばし、歩くたびにドジを踏んだ。その一つ一つが、相田の心のダムに的確なダメージを与えてくる。

「相田さん、この判子、なんか“反抗”期みたいに斜めになっちゃいました!えへへ」

「相田さん、コピー機の紙詰まりが、まるで現代社会の縮図のようで……って、すみません!余計に詰まらせました!」

相田は、奥歯をギリギリと噛みしめ、般若心経を心の中で唱えることで、かろうじて笑いの衝動を抑え込んでいた。しかし、彼の表情筋は正直だ。口角がミリ単位で持ち上がるたびに、彼は冷や汗をかきながらトイレの個室に駆け込む。そして、ポケットの中からぽとりと生まれた、温かいたい焼きを一つ、誰にも見られぬように虚無の表情で平らげるのだった。証拠隠滅とストレスによるやけ食いが、同時に行われる悲しい儀式だった。

彼の苦悩を知らないヒカリは、「相田さんは心を開いてくれない」と解釈し、攻撃の手をさらに強めていく。手書きのイラスト付きのダジャレメモをデスクに置いたり、昼休みにいきなりモノマネを披露したり。彼女の天真爛漫な善意は、相田にとって拷問に等しかった。

ある日の午後、事件は起きた。区役所内で開催される地域交流イベントの準備中、ヒカリは巨大な段ボール箱を運ぼうとして、見事に足を滑らせた。宙を舞う段ボール。中から現れたのは、イベントで使う大量のスーパーボールだった。赤、青、黄、緑。色とりどりの弾む球体が、スローモーションのようにフロア中に散らばっていく。それはまるで、ポップで悪質なテロ行為のようだった。

呆然と立ち尽くす職員たち。床で尻餅をつき、きょとんとした顔でスーパーボールの乱舞を見上げるヒカリ。そのあまりにも間抜けで、しかしどこか芸術的ですらある光景に、相田の心のダムがついに限界を迎えた。

「くっ……!」

腹の底から、抑えきれない笑いのマグマがせり上がってくる。まずい。ここで生成してしまえば、スーパーボールとたい焼きが入り乱れる地獄絵図と化す。彼は脱兎のごとくその場を離れ、誰もいない資料室に飛び込んだ。扉を閉めた瞬間、彼は堪えきれずに噴き出した。

「ぶふっ!……あは、ははははは!」

腹を抱えて笑い転げる。何年ぶりだろうか、こんな風に心の底から笑うのは。その解放感と同時に、恐ろしい現象が彼の周囲で巻き起こった。ぽんっ。ぽぽんっ。ぽん、ぽん、ぽんっ!まるでポップコーンが弾けるように、彼の周囲の空間から、次々とたい焼きが生成されていく。あんこ、カスタード、チョコレート、さらには抹茶味まで。甘く香ばしい匂いが、カビ臭い資料室を埋め尽くしていく。数十匹のたい焼きが、書類棚の隙間や床の上で、ほかほかと湯気を立てていた。

相田は、笑いながら泣いていた。なぜ自分だけが、こんな体質なのか。ただ、人並みに笑いたいだけなのに。たい焼きの山に囲まれながら、彼は深い孤独と絶望を感じていた。

第三章 喝采はあんこの香り

地域交流イベント当日。相田の心は、前日の「資料室たい焼き事件」のせいで、鉛のように重かった。なんとか全てのたい焼きを始末し、誰にも気づかれずに済んだが、彼の精神は限界に近かった。彼はただ、この一日が何事もなく過ぎ去ることを祈っていた。

だが、神は彼に味方しなかった。

メインイベントであるマジックショーの直前、出演予定だったベテランマジシャンが、食あたりで倒れたという報せが入ったのだ。会場はざわつき、部長は顔面蒼白でうろたえるばかり。最悪の沈黙が、ステージを支配した。

その沈黙を破ったのは、やはりヒカリだった。

「私がやります!」

彼女は勢いよく手を挙げ、周囲の制止を振り切ってステージに駆け上がった。しかし、数百人の視線を一身に浴びた途端、彼女の顔から血の気が引いていく。あれほどやかましかった口は固く結ばれ、手足は震え、完全に凍り付いてしまったのだ。観客席から、くすくすと失笑が漏れ始める。ヒカリの瞳に、じわりと涙が滲んだのが見えた。

その瞬間、相田の中で何かが弾けた。

いつも自分を困らせる、厄介な新人。だが、彼女のせいで、何年かぶりに腹の底から笑ったのも事実だった。彼女の善意が、結果的に自分の心の氷を少しだけ溶かしてくれた。今、彼女はたった一人で、冷たい視線に晒されている。

助けたい。

理屈ではなかった。衝動だった。相田は、気づけばステージに向かって走り出していた。

彼は震えるヒカリの隣に立つと、マイクを握り、彼女にだけ聞こえる声で囁いた。

「天野さん。僕を、本気で笑わせてくれ」

「え……?」

「いいから、やるんだ。君の、一番くだらないやつを」

ヒカリは戸惑いながらも、彼の真剣な瞳を見て、こくりと頷いた。そして、意を決したように、息を大きく吸い込んだ。彼女は白目を剥き、両手で頬を引っ張り上げ、およそ人間のものとは思えない変顔を披露した。そして、裏返った声で叫んだ。

「お布団が、ふっとんだーっ!」

会場は、しんと静まり返った。あまりの寒々しさに、時間が止まったかのようだった。

だが、相田だけは違った。

彼は、こらえるのをやめた。自らに課した全ての枷を、外した。

彼女の勇気、そのくだらなさ、この状況の滑稽さ。全てが愛おしく、そして、猛烈に面白かった。

「あ―――あはははははは!ははははは!最高だ、天野さん!」

相田は腹を抱え、涙を流しながら大爆笑した。

次の瞬間、奇跡は起きた。

ステージの照明から、天井から、スピーカーの陰から。まるで祝福の吹雪のように、無数のたい焼きが舞い降りてきたのだ。ほかほかと湯気の立つ、焼きたてのたい焼きが。あんこの甘い香りが、会場全体を優しく包み込む。

観客たちは最初、何が起きたのか分からず唖然としていた。しかし、一人の子供が「わーい!たい焼きだー!」と叫んだのをきっかけに、その場の空気が一変した。

「なんだこれ!すごいマジックだ!」

「あったかくて美味しい!」

突然のたい焼きシャワーは、最高のサプライズとして受け入れられ、会場は割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。ステージの上、たい焼きの絨毯の中心で、相田とヒカリは呆然と立ち尽くしていた。喝采の音が、あんこの香りとともに、二人を祝福しているようだった。

第四章 君と、ひとつぶの笑い

イベントは、伝説として語り継がれることになった。「謎のたい焼きマジシャン」の正体は誰にもわからなかったが、あの日の会場の熱気と甘い香りは、参加者たちの記憶に深く刻まれた。

夜の区役所。相田とヒカリは二人、ほうきとちりとりを手に、ステージの残骸――もとい、食べ残されたたい焼きの欠片を片付けていた。

「ごめんなさい、相田さん。私のせいで、とんでもないことに……」

しょんぼりとうなだれるヒカリに、相田は静かに首を振った。

「ううん。ありがとう、天野さん」

彼の口から出たのは、紛れもない本心だった。

「君のおかげだよ。僕は……ずっと、この力がコンプレックスだった。呪いだと思ってた。でも、今日初めて、これで誰かが喜んでくれるって知ったんだ」

相田は、床に落ちていたカスタード味のたい焼きを一つ拾い上げ、その温かさを確かめるように握りしめた。それは、彼がずっと目を背けてきた、彼自身の感情の温かさだった。

「笑うのって、疲れるけど……悪くないな」

そう言って、彼はヒカリに向かって、はにかむように笑った。それは、無表情の仮面が剥がれ落ちた、三十年間で一番、素直な笑顔だった。ヒカリの顔が、夕焼けのように赤く染まった。

帰り道、二人は並んで夜道を歩いていた。すっかり口数の減ったヒカリが、何かを思い出したように、くすくすと笑い出した。

「どうしたんだ?」

「いえ……相田さんが笑った時、たい焼きがいっぱい出てきて、なんだか……ポップコーンみたいだなって」

その無邪気な言葉に、相田もつられて、ふっと息を漏らすように笑った。

その瞬間、彼の足元に、ぽとり。

アスファルトの上に、小さなたい焼きが一つ、愛おしそうに転がっていた。それはまるで、彼の心から零れ落ちた、温かくて甘い、笑いのしずくのようだった。

二人は顔を見合わせ、そして、また一緒に笑い出した。

相田の人生から、静寂と秩序は失われたかもしれない。彼の日常は、いつたい焼きが飛び出すか分からない、予測不能で少し厄介なものになった。

だが、もう彼は、笑うことを恐れない。彼の世界は、無機質なモノクロから、あんこの甘い香りがする、温かいセピア色に変わったのだから。明日、彼のデスクの下には、どんな味のたい焼きが生まれているのだろう。それは、まだ誰も知らない。

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