ツッコミ・インパクト

ツッコミ・インパクト

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第一章 なんでやねん禁止令

「この企画書、どうでしょう? 全体的に温かみと親近感を出すために、フォントを全部『にくきゅう』に差し替えてみたんですが」

月曜朝イチの企画会議。僕、間宮修二の向かいに座る同僚、天野ヒカリは、子犬のように目を輝かせながら、肉球の形をした文字が躍る資料を提示した。会議室にいる全員の思考がフリーズする。部長の眉間のシワが、グランドキャニオンのように深くなった。

僕の奥歯が、ギリ、と悲鳴をあげる。喉元までせり上がってくる、たった一言の、しかし世界で最も危険な言葉を、必死に飲み込んだ。

――なんでやねん!

僕のツッコミは、ただのツッコミではない。物理的な破壊力を伴う。幼少期、友達のしょうもないボケに全力でツッコんだが最後、給食の牛乳瓶はドミノ倒しになり、教室は白い海と化した。以来、僕は自身に厳格な「なんでやねん禁止令」を課し、感情を押し殺して生きてきた。鋭すぎるツッコミは、人間関係を、そして物理的な物体を破壊するのだ。

だから僕は、天野ヒカリという存在が心底恐ろしかった。彼女は歩くボケ製造機だ。コピー機に「いつもお疲れ様」と書いた付箋を貼り、観葉植物に「ポチ」と名付け、毎朝話しかける。そのたびに、僕の体内のツッコミ・エネルギーは臨界点に達しそうになり、僕はトイレに駆け込んでは「……なんでやねん」と、消え入りそうな声で呟いて圧を抜く。すると、個室のトイレットペーパーがカタカタと震えるのだ。

「にくきゅうフォントは……斬新だが、クライアントの社風を考えると、もう少しフォーマルな方が……」

部長が必死に言葉を絞り出す。天野さんは「そっかー」と少し残念そうにしながらも、素直に頷いた。彼女に悪気はない。純度100%の善意と天然で、この世界の理(ことわり)に小さなバグを発生させ続けているだけだ。

問題は、そのバグを看過できない僕の体質にあった。彼女のボケは、僕の平穏な日常を脅かす、最大にして最愛の脅威だった。今日も僕は、丹田に力を込め、荒れ狂うツッコミの衝動を鎮める。窓の外では、春のうららかな日差しが、僕の心中も知らずにキラキラと輝いていた。

第二章 抑圧と暴発

天野さんのボケは、春の陽気に誘われたつくしのように、日増しに勢いを増していった。

ある時は、会社の存亡をかけた最重要クライアント、『剛健物産』へのプレゼン資料に、彼女はこっそりとウォーターマーク(透かし)を入れていた。僕がそれに気づいたのは、プレゼン前日の深夜だった。資料を光に透かすと、そこには薄っすらと、応援団姿で「フレー! フレー! 剛健!」と叫ぶ、デフォルメされた彼女自身のイラストが浮かび上がったのだ。血の気が引いた。僕は一晩徹夜してデータを修正した。あの時ほど、己のツッコミ衝動を呪ったことはない。壁を殴りたい衝動を抑えるのに、前歯が一本欠けそうになった。

またある時は、社内LANの共有フォルダに「開けないでください」という名前のフォルダがあった。当然、開けてみると、中には彼女が飼っているハムスター(名前は『社長』)の可愛い写真が300枚以上も入っていた。フォルダ名は「ヒミツの社長室」。僕は静かにフォルダを閉じ、深呼吸を一つして、自分のデスクトップにあったサボテンの棘を指に刺した。痛みで衝動を相殺するためだ。

僕のストレスは限界に近かった。夜、ベッドに入っても、彼女のボケが脳内でリフレインする。「間宮さん、このコーヒー、コンソメスープの味がしませんか?」「昨日、流れ星に『世界の平和』をお願いしたら、今日、百円拾いました。これって、平和への第一歩ですよね?」

そのたびに、僕の心臓は暴れ馬のように脈打ち、喉がカラカラに渇く。ツッコめない。ツッコんではいけない。それは理性の声。しかし、魂の奥底から叫び声が聞こえる。ツッコめ! それが真実への最短距離だ! と。

そして、運命の日はやってきた。

相手は、あの『剛健物産』の鬼軍曹と恐れられる、郷田社長その人。最終契約の調印式だ。張り詰めた空気の中、郷田社長が万年筆を手に取った、その時だった。

「あっ!」

天野さんが声を上げた。全員の視線が彼女に集まる。彼女は、郷田社長の頭頂部をまっすぐに指さして、満面の笑みで言った。

「社長、そのカツラ、ちょっとだけ右にズレてますよ! 大事な調印ですから、ビシッとキメないと!」

シン……、と会議室が凍りついた。郷田社長の顔が、みるみるうちに般若のような形相に変わっていく。僕の頭の中で、何本もの理性の糸が、ブツッ、ブツッ、と音を立てて切れていくのが分かった。

もう、無理だ。

我慢できない。

これは、ツッコまなければならない。

人類の、いや、宇宙の真理として!

僕は椅子から立ち上がった。

肺にありったけの空気を吸い込む。

そして、腹の底から、魂のすべてを込めて、叫んだ。

「なんでやねぇぇぇぇぇん!!!!」

第三章 世界からボケが消えた日

僕の絶叫は、音波爆弾となって会議室を蹂躙した。

ゴォォォッという轟音と共に、凄まじい衝撃波が迸る。分厚いガラス窓は蜘蛛の巣状にひび割れ、天井のスプリンクラーが誤作動を起こして豪雨を降らせた。テーブルの上の契約書は紙吹雪となって舞い、剛健物産の役員たちがドミノのように倒れていく。郷田社長の頭からは、例のブツが見事に吹っ飛び、シャンデリアに引っかかってブラブラと揺れていた。まさにカタストロフ。

やがて、地獄のような喧騒が収まった時、僕は呆然と立ち尽くしていた。やってしまった。すべてを終わらせてしまった。

だが、予想された怒号はどこからも聞こえなかった。

ずぶ濡れになった天野さんが、すっと立ち上がり、郷田社長に向かって深くお辞儀をした。

「大変失礼いたしました、郷田社長。貴社の今後のご発展を祈念する重要なサインを前に、社長の頭部装着型増毛ソリューションの固定位置にミリ単位のズレを観測したため、最適なポジショニングをご提案させていただいた次第です」

その口調は、まるでAIのように冷静で、論理的で、そして感情が一切なかった。

さらに驚くべきことに、郷田社長は顔色一つ変えず、頷いた。

「むう。的確な指摘に感謝する、天野君。確かに、装着角度のズレは、企業の僅かな経営方針のズレにも繋がりかねん。危機管理能力の高さ、見事だ」

……は?

何だ、この会話は。

僕が知る「カツラがズレてる」という指摘に対する人類の正しい反応ではない。

混乱する僕を置き去りにして、世界は静かに、しかし確実に変貌していた。オフィスに戻ると、同僚たちは一切の無駄口を叩かず、超高速でキーボードを打ち続けている。普段はダジャレで場を和ませる営業部長が、「我が社のプロフィットをマキシマイズするためには…」などと小難しい経営用語を呟いている。

街に出ると、その異常さはさらに際立った。看板の誤字はない。人々は冗談一つ言わず、すべての物事を文字通りに解釈し、効率的だが血の通わない会話を交わしている。テレビを点ければ、お笑い芸人たちが、ハイデガーの存在論について真顔で討論していた。

僕は悟った。

僕の渾身のツッコミ・インパクトは、この世界から「ボケ」という概念そのものを消し去ってしまったのだ。不条理も、非効率も、勘違いも、ユーモアも、すべて。

世界は完璧に「理性的」で、完璧に「退屈」な場所になっていた。

そして、ツッコむべきものが何一つ存在しないこの世界で、僕はただ一人、途方に暮れていた。

第四章 ボケのいない鎮魂歌

ツッコミとは、他者の「ボケ」があって初めて成立する行為だ。ツッコむ対象を失った僕は、アイデンティティを根こそぎ奪われた抜け殻のようだった。僕の存在意義は、この整然としすぎた世界では、無用の長物と化した。

会社に行っても、天野さんはもう僕に話しかけてこなかった。彼女は黙々と、完璧な資料を作り、完璧なスケジュール管理をこなす、超有能な社員になっていた。しかし、その瞳からは、かつて僕を困らせた、あのキラキラとした好奇心の輝きが完全に消え失せていた。まるで、色を失った一枚の絵のようだ。

その姿を見て、僕は胸を締め付けられるような痛みを覚えた。

あの突拍子もないボケの数々は、彼女なりの世界との関わり方だったのだ。世界を面白がり、自分なりの解釈を加えて、それを表現する方法だったのだ。非効率で、非論理的で、意味不明かもしれない。でも、そこには確かな「彼女」がいた。

僕は気づいた。僕が今まで必死に封印し、時には呪ってきた「ツッコミ」は、決して破壊のためだけの力ではなかったのだと。それは、不条理な「ボケ」を受け止め、それに愛ある指摘を加えることで、コミュニケーションを完成させ、人と人との間に「笑い」という温かい光を灯すための力だったのだ。ボケとツッコミは、陰と陽。どちらか一方だけでは成り立たない、世界の調和そのものだった。

僕が奪ってしまったのだ。世界の彩りを。天野さんの輝きを。

どうすれば、元に戻せるのか。分からない。もう一度、特大のツッコミをかませばいいのか? でも、ツッコむべきボケは、この世界のどこにもない。

その日の夕方、僕は人気のない公園のベンチに座り、灰色の空を眺めていた。すると、隣に、いつの間にか天野さんが座っていた。彼女もまた、無表情で空を見上げている。

沈黙が痛い。

何か、話さなければ。

でも、何を? この完璧で、退屈な世界で?

その時、僕の口から、自分でも信じられないような言葉が飛び出した。それは、僕が人生で一度も口にしたことのない種類の言葉だった。

「天野さん。今日の空、なんだか……プリンみたいにプルプルしてません?」

我ながら、意味不明な発言だった。空は灰色で、どこもプルプルなどしていない。それは、紛れもない「ボケ」だった。僕が放った、人生最初のボケ。

天野さんは、ゆっくりと僕の方を向いた。その無表情な顔が、ほんの少しだけ揺らぐ。彼女はしばらく黙って空と僕の顔を交互に見ていたが、やがて、その唇の端が、ほんの、ほんのわずかだけ、上に持ち上がった。

それは、微笑みと呼ぶにはあまりにささやかで、一瞬で消えてしまいそうな、幻のような変化だった。

しかし、僕には確かに見えた。

完璧に整えられた世界の法則に、ほんの小さな亀裂が入った瞬間を。色を失った絵に、最初のひと刷毛の絵の具が置かれた瞬間を。

世界に「ボケ」を取り戻すための旅は、まだ始まったばかりだ。途方もなく長い道のりになるだろう。でも、それでいい。

僕はもう、ツッコミだけの男じゃない。

この退屈な世界に、笑いの種を蒔く男になるのだ。

僕の隣で、天野さんの瞳の奥に、失われたはずの小さな星が、チカッと瞬いた気がした。

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