くしゃみと沈黙の最終定理
第一章 静寂と鼻のかゆみ
街は、鉛色の沈黙に満たされていた。人々は俯き加減に歩き、その表情は石膏のように硬く、感情の起伏を感じさせない。この世界では、誰もが人生でたった一度だけ『究極のジョーク』を口にする権利を持っていた。そして、その権利を行使した者は、二度と笑うことができなくなる。その代償を恐れるあまり、人々は笑うという行為そのものを生活から排除してしまったのだ。
僕、ハナミズ・ジロウは、そんな灰色の街角で、今日も鼻の奥がむず痒くなるのを感じていた。三重にしたマスク越しにも、春の訪れを告げる微細な粒子は容赦なく侵入してくる。ポケットの中の点鼻薬を握りしめ、僕は息を殺した。僕のくしゃみは、ただの生理現象では済まない。
「……っく」
こらえろ。こらえるんだ。頭の中で必死に念じる。だが、粘膜を焼くような刺激は、意思の力など軽々と凌駕していく。視界の端で、深刻な顔をした男女が僕を訝しげに見ている。やめろ、見るな。
「ハッ……ハックション!」
乾いた破裂音が、静寂に亀裂を入れた。その瞬間、僕の脳裏をよぎったのは、昨夜の夢で見た、意味不明なイメージだった。
ぽとり。
目の前の石畳に、一つの物体が転がった。それは、ほかほかと湯気を立てる、温かいバナナだった。皮は鮮やかな黄色を保ったまま、まるで蒸したてのように熱を帯びている。周囲の人々が一瞬だけ足を止め、眉間に深い皺を刻み、そして何事もなかったかのように再び歩き出した。彼らの無表情な顔には、理解不能なものへの微かな苛立ちが滲んでいた。僕は慌ててそのバナナを拾い上げ、コートのポケットに押し込んだ。温かいバナナの奇妙な感触が、僕の憂鬱を一層深くした。
第二章 笑いの温度計
街の中心には、巨大な塔がそびえ立っていた。その壁面には、かつて『笑いの温度計』と呼ばれた装置が埋め込まれている。本来はジョークの面白さを数値で示すためのものだったが、今ではその針が「0」を指したまま、何年も微動だにしていない。
「今の、見たわ」
背後から声をかけられ、僕はびくりと肩を震わせた。振り返ると、白衣を着た一人の女性が立っていた。ミライと名乗った彼女は、この街では珍しく、その瞳に知的な光を宿していた。彼女の手には、携帯型の『笑いの-温度計』が握られている。
「あなたのくしゃみの瞬間、メインタワーの計器に異常な波形が記録されたの。ほんの一瞬だけ、絶対零度を振り切って、虹色の火花みたいなグラフを描いた」
ミライの早口な説明に、僕は後ずさった。関わりたくない。僕のこの厄介な体質のことを、誰にも知られたくなかった。
「これは偶然じゃない。最近多発している『ジョーク硬直症』と、あなたのその能力には、何か関係があるはず」
「人違いです」
「いいえ。あなたは昨日、温かいバナナを実体化させた。記録は残っているわ」
ミライの目は真剣だった。彼女は続けた。「人々が笑いを失い、ジョークを言おうとした瞬間に彫像のように固まってしまう。この世界はゆっくりと死に向かっている。あなたのくしゃみは、この淀んだ空気をかき乱す、唯一の混沌。それは破壊かもしれないし、あるいは……」
彼女は言葉を切り、僕の目をじっと見つめた。
「……希望、かもしれない」
第三章 硬直した広場
ミライに半ば引きずられるようにして、僕は『沈黙の広場』へと連れてこられた。そこは、『ジョーク硬直症』を発症した人々が集められる場所だった。彼らは皆、人生を賭けた『究極のジョーク』を放とうとした、その最後の瞬間の姿で固まっている。天を指さす男、小指を立てる女、大きく口を開けたままの老人。まるで、時が凍り付いた悲劇の舞台のようだった。
その痛ましい光景に、僕の胸は締め付けられた。彼らも、ただ笑いたかっただけなのだ。完璧な、たった一度の笑いのために、すべてを賭けた結果がこれなのか。悲しみと、そして街に舞う見えない花粉が、再び僕の鼻を刺激した。
まずい。ここでだけは、絶対に。
僕は必死に鼻をつまみ、上を向いた。しかし、生理的な欲求は抗いがたい津波のように押し寄せてくる。
「ハ、ハックショーーーン!」
盛大なくしゃみと共に、僕の足元から何かが生まれた。カタカタカタ、と軽快な音を立てて、十数個のティーカップが広場を走り回り始めたのだ。それらのカップには、細い人間の赤ん坊のような足が生えていた。硬直した人々の足元を、足の生えたティーカップが楽しげに駆け抜けていくシュールな光景。
もちろん、硬直した人々はピクリとも動かない。だが、ミライが持っていた携帯型温度計が、けたたましいアラート音を鳴らした。液晶画面には、心電図のようでありながら、どこか爆笑をこらえているかのようにも見える、複雑で激しい波形が描かれていた。
「……間違いない」ミライが呟いた。「彼らの精神は、まだ生きている。そして、あなたの混沌に反応している」
第四章 究極という名の呪い
ミライの研究室で、僕たちは過去の記録を調べていた。ディスプレイには、ジョーク硬直症が蔓延する前の世界の映像が映し出されている。そこでは、人々が哲学的なジョーク、芸術的なジョーク、誰も傷つけず、それでいて宇宙の真理を突くような『究極のジョーク』を競い合っていた。それはもはや笑いではなく、一種の学問か、あるいは宗教のようだった。
「わかったかもしれない」ミライが、ほこりっぽい記録媒体から顔を上げた。「人々は『究極』という概念に囚われすぎたのよ。『完璧な笑い』を求めるあまり、笑うことの純粋な喜びを忘れてしまった。面白くなければならない、という強迫観念が、脳にリミッターをかけてしまったんだわ。それがジョーク硬直症の正体よ」
僕は、自分の能力を思った。温かいバナナ。足の生えたティーカップ。それらは完璧とは程遠い、くだらない、意味のないものばかりだ。究極の対極。無価値な混沌。
「あなたのくしゃみは、その『完璧』という名の呪いを破壊する力を持っているのかもしれない」ミライの声には、確信がこもっていた。「意味がないからこそ、価値がある。究極にくだらないからこそ、究極のジョークを超えられる可能性がある」
彼女は僕の肩を掴んだ。「ジロウ。あなたのくしゃみで、この世界を救うのよ」
第五章 世界一のつまらないギャグ
僕たちは、街で最も高い放送塔の頂上に立っていた。眼下には、硬直した人々が集う広場と、深刻な顔で日常を送る人々が見える。冷たい風が僕の頬を撫で、そして鼻腔をくすぐった。
「あなたのくしゃみを、この塔のアンテナを通して世界中に届ける」ミライが、小さな瓶を取り出した。「これは、私が精製した高濃度のスギ花粉」
僕が躊躇していると、ミライは僕の目をまっすぐに見つめて言った。
「なんでもいい。何かを実体化させて。この世界の誰もが呆れるような、最高にくだらないものを。究極とは真逆の、どうしようもなく、つまらない何かを」
僕は覚悟を決めて頷いた。ミライが瓶の蓋を開け、僕の鼻先に突きつける。凝縮された春の匂いが、僕の理性を吹き飛ばした。
「ハッ……ハックショーーーーーーーン!!」
人生最大級のくしゃみが、空気を震わせた。その瞬間に僕の頭に浮かんだのは、子供の頃、今は亡き祖父が「これが世界一のつまらないギャグだ」と言って、得意げに教えてくれた、あの言葉だった。
『布団が、吹っ飛んだ』
僕のくしゃみに呼応して、空がにわかに曇った。そして、雲の切れ間から、巨大な影がゆっくりと降下してくる。それは、巨大な一枚の、チェック柄の布団だった。何の変哲もない、ただひたすらに巨大な布団が、風に煽られて木の葉のように舞いながら、沈黙の広場に向かって、ゆっくりと、本当にゆっくりと、落ちてきた。
第六章 怒りと爆笑
巨大な布団が空を覆うという、あまりにも間抜けな光景に、街中の人々が足を止めて空を見上げていた。やがて布団は、ふわりと広場の中央に着地した。何の衝撃もなく、ただ、そこに巨大な布団がある。それだけ。
沈黙。
数秒後、誰かが怒鳴った。
「ふざけるなッ! これが答えだというのか!」
その声が引き金だった。人々は、自分たちの抱えていた『究極』への期待を裏切られた怒りを爆発させた。「我々は世界の真理を求めていたんだ! なのに、布団だと!?」「時間を返せ!」
怒りの声が渦を巻く。そのエネルギーが、硬直していた人々が纏う見えない殻を、ビリビリと震わせ始めた。
広場で固まっていた一人の男の指が、ぴくりと動いた。彼はゆっくりと顔を上げ、空から降ってきた巨大な布団と、怒り狂う人々を見比べ、そして、かすれた声で呟いた。
「……ふとんが……ふっとんだ……?」
その言葉の、あまりのバカバカしさに。その光景の、途方もないくだらなさに。
男の口から、「フッ」と乾いた息が漏れた。
次の瞬間、彼は腹を抱え、堰を切ったように笑い出した。「アッハハハハハ! くだらない! なんて、なんてくだらないんだ!」。
その笑い声は、伝染病のように広がった。硬直から解放された人々が、次々と笑い始める。それは『面白い』からくる笑いではなかった。『つまらなすぎる』ことへの怒りが一周して、どうしようもないおかしみに変わった、新しい種類の笑いだった。
ミライの持つ温度計は、歓喜の悲鳴を上げていた。針は振り切れ、画面には祝福を告げるかのような美しい虹色のグラフが、激しく踊っていた。
第七章 新たなる混沌の始まり
世界に、笑いが戻った。人々はもう『究極』にこだわらない。道端でくだらないダジャレを言い合っては、肩を揺らして笑っている。灰色の街は、少しだけ色を取り戻したようだった。
放送塔の上で、僕とミライは眼下の光景を眺めていた。
「やったな、ジロウ」ミライが、心からの笑顔で言った。僕が初めて見る、彼女の笑顔だった。
「ああ。でも……」僕は鼻をすすりながら答えた。「僕の花粉症が、治ったわけじゃないんだ」
その言葉を証明するかのように、僕の鼻がむず痒くなった。
「ハックション!」
ごく軽いくしゃみだった。だが、僕たちの足元に、緑色の小さな球体がポコポコと出現した。それらは、なぜか小さな口パクパクさせながら、「存在とは何か?」とか「我々はどこから来たのか?」などと、囁き声で哲学的な問いを投げかけ始めた。大量の、喋るマリモだった。
ミライは、足元で真理を問うマリモたちを見て、一瞬きょとんとし、そしてまた腹を抱えて笑い出した。
世界は確かに救われた。だが、僕のアレルギー性鼻炎が根治しない限り、この世界に完全な平穏が訪れることはないだろう。それでも、人々はきっと笑ってくれるはずだ。僕がこれから生み出し続けるであろう、意味不明で、くだらなくて、そしてどうしようもなく愛おしい、この混沌と共に。