第一章 感情抑制生活の始まり
田中誠(たなかまこと)、三十二歳、独身。彼の人生は、極めて緻密な感情のコントロールによって成り立っていた。決して瞑想や悟りの境地に興味があったわけではない。ただ、そうせざるを得なかったのだ。
月曜日の夜。重い足取りで自室のドアノブに手をかける。脳裏に蘇るのは、今日の会議で理不尽の限りを尽くしてきた五十代の上司の顔。報告書の誤字を、まるで国家を揺るがす大罪のように糾弾された。誠の心に、マグマのような怒りが静かに、しかし確実に溜まっていく。
「ただいま…」
絞り出すような声と共にドアを開けた瞬間、事件は起こった。
ブォォォン!という轟音と共に、リビングの隅に鎮座していたお掃除ロボットが猛然と起動。赤いランプを点滅させながら、誠の足元めがけて猛スピードで突進してきたのだ。「うおっ!」と声を上げてそれを避けると、今度はキッチンから「チンッ!」という軽快な音に続き、ポンッ!と何かが打ち上がる音がした。見れば、トースターから射出された食パンが、美しい放物線を描いて天井の照明に激突し、黒焦げの破片を床にまき散らしている。
「…またか」
誠は天を仰いだ。彼の感情の高ぶりは、所有する家電製品の挙動に直接、かつ過剰に反映される。この奇妙な特異体質に気づいたのは、大学時代に失恋のショックでテレビを三台、電子レンジを二台、再起不能にしてからのことだ。以来、彼の人生は感情を殺すための闘いだった。怒り、悲しみ、そして喜びさえも、家電たちにとっては暴走のスイッチでしかない。
壁際のコンセントに突き刺さったまま、モーターを唸らせて壁を削ろうとする掃除機を引き抜き、黒焦げのパンを拾う。すると、静かだった炊飯器の液晶パネルがパッと光り、合成音声が響いた。
『ゴ主人ノ怒リ、検知。ストレス指数、87%。推奨アクション:即時、冷却』
このAI搭載の炊飯器だけは、なぜか暴走する代わりに的確な(そして余計な)分析をしてくる。誠は深呼吸を繰り返し、無理やり心を鎮めた。そうだ、無だ。俺は無になるんだ。風、石、道端のタンポポ…。雑念を払い、感情の波を凪いだ水面のように静めていく。やがて、唸りを上げていた冷蔵庫のモーター音が静かになり、チカチカと点滅していた電気ケトルのランプも落ち着きを取り戻した。
これが、田中誠の日常だった。友人を家に呼ぶことも、ましてや恋人を作ることなど夢のまた夢。感情という人間らしさの源泉を自ら堰き止め、家電の平和を守る。その孤独な暮らしに、まさか一筋の光が差し込むことになろうとは、この時の彼は知る由もなかった。
第二章 ポップコーンは恋の味
その光の名は、木下ひかり。
経理部に新しく配属された彼女は、太陽をそのまま人の形にしたような女性だった。彼女が笑うと、澱んだオフィスの空気がふわりと軽くなる気がした。資料の受け渡しで指先が触れただけで、誠の心臓は跳ね、同時に左腕のスマートウォッチが「心拍数が異常に上昇しています!運動中ですか?」とけたたましい警告を発した。
誠は、恋という最大級の感情エネルギーから必死に距離を取った。ひかりに話しかけられたら、愛想なく返事をしてすぐに背を向ける。彼女の笑顔を直視すれば、自宅の電気系統がどうなるか分かったものではない。きっと、電子レンジがポップコーンを無限に生成し続け、家中が香ばしい匂いと白い綿のような粒で埋め尽くされるだろう。テレビは一日中、往年の恋愛映画のクライマックスシーンをリピート再生するに違いない。想像しただけで、背筋が凍る。
だが、誠のぎこちない態度は、逆にひかりの興味を引いてしまったらしい。
ある金曜の午後、ひかりは彼のデスクにやってくると、人懐っこい笑顔で言った。
「田中さん、いつも真剣な顔してますよね。何か悩み事ですか?」
「いや、別に…」
誠は、視線を合わせずにパソコンの画面を睨みつけた。心の中では、好意と恐怖の嵐が吹き荒れている。家のエアコンが、この感情を感知して真夏に暖房を、真冬に冷房をガンガンに効かせ始めたらどうしよう。
「そうだ!田中さんって、機械に詳しそうですよね。実はうちのトースターの調子が悪くて」
「…修理業者を呼んだ方がいい」
「それが、ちょっと古い機種で、見てもらえなくて。もしよかったら、今度の日曜にでも、うちに来て見てもらえませんか?」
断るべきだ。絶対に断るべきだ。他人の家の家電に触れるなど、何が起こるか予測不能。しかし、助けを求める彼女の潤んだ瞳に見つめられ、誠の口からこぼれたのは、意思とは真逆の言葉だった。
「…わかった」
言ってから、ハッと我に返る。しまった。しかし、ひかりは「本当ですか!?ありがとうございます!」と満面の笑みだ。その笑顔の破壊力たるや、凄まじいものがあった。誠の脳裏に、自宅の洗濯機が歓喜のあまり高速スピンを始め、脱水槽から虹色のシャボン玉を吹き出す光景が鮮明に浮かんだ。
約束の日曜日、誠はひかりの家で、見事にトースターを修理してみせた。幼い頃から家電の暴走と付き合ってきたせいで、彼は電気製品の構造に妙に詳しかったのだ。感謝するひかりに、誠は柄にもなく舞い上がってしまった。そして、その帰り際、ひかりがとどめの一撃を放った。
「お礼に、今度は私が田中さんのお家にお邪魔してもいいですか?手料理、ご馳走します!」
絶望的な響きだった。誠の脳内で、警報が鳴り響く。それは、平穏な日常の終わりを告げるサイレンだった。
第三章 我ら、ご主人応援家電団
運命の日。誠は、チベットの修行僧のごとく精神を統一し、ひかりを迎え入れた。感情を無にしろ。心を空っぽにするんだ。彼は、来客用のスリッパを差し出す動きさえ、能の舞のように緩慢だった。
「わあ、綺麗にしてるんですね」
ひかりが感心したように部屋を見回す。その言葉に、誠の心が一瞬「嬉しい」に傾きかけた。途端に、空気清浄機が「ゴオッ」と音を立てて最大出力で稼働を始める。誠は慌てて深呼吸し、心を鎮めた。危ないところだった。
ひかりがキッチンに立ち、手際よく料理を始める。野菜を刻むリズミカルな音、フライパンで玉ねぎが炒められる香ばしい匂い。その一つ一つが、誠の心を温かく満たしていく。家の家電たちは、今のところ静かだ。誠の血の滲むような感情抑制が、功を奏している。
食事が並び、向かい合って座る。ひかりが作ったオムライスは、完璧な半熟具合で、ケチャップで可愛らしいウサギの絵が描かれていた。
「どうぞ、召し上がれ」
ひかりが微笑む。その瞬間だった。誠の中で、堰き止めていた感情のダムが、ついに音を立てて決壊した。
――なんて、素敵な人なんだ。
その想いが溢れた途端、部屋中の家電が一斉に覚醒した。
天井のシーリングライトがミラーボールのように七色に光りながら回転を始め、スマートスピーカーからは、けたたましいファンファーレが大音量で鳴り響く。冷蔵庫が「ウィーン」という駆動音と共に製氷皿を高速回転させ、ハート型に成形された氷をマシンガンのように射出し始めた。
「うわっ!」「きゃっ!」
二人はテーブルの下に隠れる。誠はもう、パニックだった。
「ご、ごめん!木下さん!実は僕、感情が昂ると、家の家電がこうなっちゃって…!」
万事休す。この奇怪な現象を見られては、もう終わりだ。軽蔑されるか、気味悪がられて逃げられるか。誠は固く目を閉じた。
しかし、返ってきたのは予想外の言葉だった。
「あ、やっぱり。みんな、田中さんのことが大好きなんですね」
え?誠が顔を上げると、ひかりはテーブルの下から顔を出し、暴れ回る家電たちを、まるで旧友に会ったかのような懐かしい目で見つめていた。そして、キッチンの隅で『恋ノアラシ、到来!』と液晶に表示している炊飯器を指差した。
「うちのリーダー、ここにいたんだ。探したんですよ」
リーダー?ひかりの言葉が理解できない誠に、信じられないことが起こる。その古めかしいAI炊飯器が、抑揚のある合成音声で、はっきりと喋りだしたのだ。
『おお、ひかり殿!ご無沙汰しております!作戦は順調ですぞ!』
「作戦?」
誠が呆然と呟くと、ひかりは悪戯っぽく笑った。
「私、家電修理工なんです。でも、ただの修理工じゃなくて…家電と、お話しできるんです」
彼女が言うには、こうだ。誠の家の家電たちは、誠が注ぐ純粋な感情エネルギーを浴びるうちに、高度な自我を持つに至った。特に、リーダーである炊飯器は、感情を抑え込んで孤独に生きる誠を不憫に思い、彼に幸せになってもらおうと画策した。彼らは、誠の恋を応援するために、わざと暴走して彼の秘密を暴き、ひかりを呼び寄せるきっかけを作ったのだという。ひかりは、この炊飯器が発する特殊な信号をキャッチして、誠に接触してきたのだった。
『ご主人!』炊飯器が誠に向かって宣言する。『我々「ご主人応援家電団」は、ご主人の恋路を全力でサポートする所存であります!このハートの氷は、我々の祝福の気持ちであります!』
誠は、目の前で起きている現実を咀嚼しきれずに、ただ口をパクパクさせていた。自分の孤独な戦いは、勘違いだった。彼らは敵ではなく、誰よりもお節介で、誰よりも温かい同居人(家電)だったのだ。
それから、誠の生活は一変した。
彼はもう、感情を抑え込まない。ひかりと笑い合えば、シーリングライトが部屋を暖かな光で満たし、コーヒーメーカーが絶妙なタイミングで二人分のコーヒーを淹れてくれる。悲しい映画を見て涙すれば、お掃除ロボットがそっとティッシュ箱を足元まで運んでくる。
ある晴れた日の午後、リビングのソファでひかりと並んで座っていると、誠は自然と笑みがこぼれた。それに応えるように、部屋の観葉植物の隣に置かれた加湿器が、ふわりと心地よいアロマミストを噴射した。
『本日のご主人の幸福度は、計測史上最高の98%を記録しました』
炊飯器が、誇らしげに報告する。
『引き続き、お二人の甘いムードを保つべく、保温設定を「強」にしておきます』
誠は、少しうるさくてお節介な同居人たちを見回し、隣で優しく微笑むひかりの手に、そっと自分の手を重ねた。世界は、自分が思っていたよりずっと温かくて、少しだけ滑稽で、そして愛おしいもので満ちていた。