残響に触れる手

残響に触れる手

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第一章 静寂の残響

柏木湊(かしわぎ みなと)の世界は、常に死者の最後の囁きで満たされていた。遺品整理士という仕事柄ではない。彼には、故人が最後に触れた物に手をかざすと、その持ち主が遺した最後の言葉、あるいは断末魔の叫びが、脳内に直接響いてくるという呪いのような特殊能力があった。

「ありがとう……」

「寒い……」

「すまなかった……」

それらは大抵、後悔か、感謝か、あるいは肉体的な苦痛の残響だ。湊はそれらを事務的に受け流し、心を閉ざす術をとうに身につけていた。感動も感傷もない。ただ、空っぽの部屋に染みついたホコリの匂いと、西日の作る光の筋だけが、彼の現実だった。

その日、彼が訪れたのは、孤独死した老人・高田義男のアパートだった。古本の壁に埋もれた一部屋。長年連れ添ったであろう革張りのソファは、主を失って深く沈み込んでいる。湊はいつものように、ゴム手袋越しに遺品を仕分けていく。その時、文机の上に無造作に置かれた一本の万年筆が、彼の目に留まった。深い藍色の軸に、銀色のクリップ。使い込まれているが、丁寧に手入れされてきたことが分かる品だった。

依頼主である遠縁の親戚は「価値のあるもの以外は処分してほしい」と言っていた。これは、おそらく故人が最後まで大切にしていたものだろう。ほんの少しの感傷が湧き、湊は無意識に手袋を外し、その冷たい軸にそっと指を触れた。

いつもなら、ここで老人の最後の言葉が聞こえるはずだった。家族への想いか、あるいは人生への諦観か。しかし、湊の脳裏に響いたのは、全く予期しない、そしてあり得ない言葉だった。

『……明日の午後三時、東坂の交差点。青い傘の少女が、赤いトラックに……』

若い男の声だった。老人の声ではない。そして何より、その内容は過去の残響ではなく、未来を告げる不吉な予言だった。湊は弾かれたように手を離した。心臓が嫌な音を立てて脈打つ。幻聴か? 疲れているのか? 彼の能力は、これまで一度たりとも「未来」を拾ったことなどなかった。それは死者の記憶の再生に過ぎないはずだった。

湊は混乱しながらも、その万年筆を証拠品のようにビニール袋に入れ、作業着のポケットに押し込んだ。部屋に満ちる静寂が、まるで巨大な耳鳴りのように、彼の不安を増幅させていた。

第二章 交差する時間

翌日、湊は仕事を休んだ。あの声が頭から離れない。信じるべきではない。そう自分に言い聞かせれば聞かせるほど、声のリアリティが蘇ってくる。午後二時半、湊はまるで何かに引き寄せられるように、自宅から数駅離れた東坂の交差点に立っていた。

空はどんよりと曇り、いつ雨が降ってもおかしくない天気だった。予言の午後三時が近づくにつれ、湊の掌はじっとりと汗ばむ。馬鹿げている。自分は何をしているんだ。帰ろうとしたその時、ぽつり、と雨がアスファルトを濡らし始めた。人々が一斉に傘を開く。

そして、湊は見てしまった。

信号の向こう側、横断歩道を渡ろうとしている小さな少女。その手には、鮮やかな青い傘があった。まるでスポットライトを浴びたかのように、その色だけが灰色の中で際立っている。湊の視線が、角を曲がって猛スピードで交差点に進入してくる赤いトラックを捉えた。運転手は脇見をしている。

時間が引き伸ばされるような感覚。脳裏に響いた予言が、現実になろうとしていた。

「危ない!」

考えるより先に、湊の体は動いていた。人混みをかき分け、信号無視で道路に飛び出す。少女の小さな肩を力任せに突き飛ばし、自分も歩道に転がり込んだ。直後、けたたましいブレーキ音とクラクションが鼓膜を裂き、赤いトラックが少女のいた場所を風のように通り過ぎていった。

尻餅をついたまま呆然とする少女。集まる野次馬。湊は誰にも見咎められる前に、その場から逃げるように立ち去った。心臓は破れんばかりに高鳴り、呼吸は浅く速い。あれは幻聴ではなかった。自分の能力は、確かに変質してしまったのだ。

アパートに戻った湊は、昨日持ち帰った高田義男の万年筆を机の上に取り出した。一体、何が起きているのか。高田という老人は何者だったのか。湊は再び高田の部屋の鍵を管理会社から借り、誰もいないはずの静寂の部屋へと足を運んだ。

前回よりも丁寧に、執拗に、部屋の隅々まで調べる。引き出しの奥、本棚の裏、ソファの下。しかし、日記や手紙のような、故人の人となりを知る手がかりは見つからない。諦めかけた時、押し入れの天袋に置かれた古い段ボール箱が目に入った。中には、一冊の分厚い写真アルバムが収められていた。

ページをめくる。若い頃の高田。その友人たち。見知らぬ風景。そして、最後のページに差し掛かった時、湊の指が止まった。セピア色の写真の中で、若き日の高田の隣で、はにかむように微笑む一人の女性。

その顔には、見覚えがあった。何度も、何度も、自分の家の仏壇に飾られた写真で見てきた、優しい笑顔。

二十年前に病気で亡くした、彼の母親、柏木佐和子だった。

第三章 万年筆が繋いだ真実

頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。なぜ、母がこの男と一緒に? 湊が知る限り、母の人生に高田義男という名の男が登場したことは一度もない。父と母は大学時代に出会い、卒業と同時に結婚したと聞かされていた。

湊は震える手でスマートフォンを取り出し、唯一の血縁である母方の叔母に電話をかけた。叔母は湊からの突然の連絡に驚きながらも、彼の切羽詰まった声にただならぬものを感じ取ったようだった。

「叔母さん、高田義男という名前、聞いたことある?」

電話の向こうで、叔母が息を呑む音がした。長い沈黙の後、絞り出すような声が返ってきた。

「……湊。どうして、その名前を」

叔母が語った真実は、湊がこれまで信じてきた「家族」という物語を根底から覆すものだった。

湊の母・佐和子は、湊の戸籍上の父と結婚する前、高田義男と深く愛し合っていた。しかし、家柄の違いから佐和子の両親に猛反対され、二人は引き裂かれた。その時、佐和子のお腹には、既に新しい命が宿っていた。それが、湊だった。

高田は、愛する女性とその子供の幸せを願い、身を引いた。佐和子はその後、お見合いで知り合った男性と結婚し、湊を産んだ。戸籍上の父は、全てを知った上で湊を自分の息子として受け入れ、愛情を注いでくれた。だが、その父も湊が高校生の時に事故で他界している。

「佐和姉ちゃんね、あなたと同じ力を持ってたのよ」と、叔母は続けた。

「物に触れると、持ち主の気持ちが流れ込んでくるって。苦しんでたわ。高田さんだけが、その苦しみを理解してくれた。だから、二人は強く惹かれ合ったの」

湊は言葉を失った。自分の呪いだと思っていた能力は、母からの遺伝だった。そして、それを理解してくれる唯一の存在が、会ったこともない実の父親だった。

「高田さんは、ずっと遠くからあなたを見守ってた。佐和姉ちゃんが亡くなった後も……。迷惑だろうからって、決して名乗り出ることはなかったけど」

全てのピースが、一つの形に収まっていく。あの万年筆。あれは、高田が佐和子に宛てて書けなかった手紙を綴るために使っていたものかもしれない。湊を守りたい、幸せになってほしいと、生涯をかけて願い続けた男の想いが、その一本に凝縮されていたのだ。

湊は悟った。あの万年筆から聞こえた未来の言葉は、高田義男の「最後の言葉」ではない。それは、高田の、息子である湊に向けられた強烈な「祈り」そのものだった。死の間際に放たれた親の愛が、湊の能力と共鳴し、奇跡を起こしたのだ。未来という形で、息子を守るための警告を届けたのだ。

これは呪いなどではなかった。孤独な人生を歩んできた自分を、ずっと見守り、命を懸けて愛してくれた人間がいた証。湊の頬を、熱いものが静かに伝っていった。部屋に差し込む西日が、なぜかとても温かく感じられた。

第四章 未来への贈り物

あの日以来、湊の世界は少しだけ色を変えた。遺品整理の仕事は続けている。だが、そこに以前のような虚無感はない。一つ一つの品物に触れるたび、彼は故人の最後の言葉だけでなく、その人が生きてきた証や、誰かに向けた声なき想いを感じ取ろうと努めるようになった。

時折、あの時のように、未来の断片が流れ込んでくることがある。

『……鍵、失くしたと思ってたけど、コートの右ポケットに……』

『明日の株価が……』

『ああ、あの花が咲くのを、もう一度見たかったな……』

それは、交差点の事故のような大きな出来事ばかりではない。誰かの日常の小さな安堵や、叶わなかったささやかな願い。湊はそれに一喜一憂することなく、静かに受け止める。鍵の在り処をそっと遺族に伝えたり、故人が見たがっていた花を仏壇に供えたりする。それは自己満足かもしれない。だが、死者と生者を繋ぐささやかな架け橋になることが、今の湊にとっては救いだった。

彼はもう孤独ではなかった。会うことのなかった父の愛が、呪いを祝福に変えてくれた。その愛は、万年筆を通して、今も彼の心に温かい光を灯している。

ある晴れた午後、湊は自分の部屋で、母の形見である小さなブローチを手に取った。これに触れると、いつも同じ言葉が聞こえてくる。母が最後に湊を想って遺した、変わらない言葉。

そっと指先で触れる。脳裏に、優しく、そして鮮明に響く声。

『愛してるわ、湊』

過去からの変わらぬ愛と、父が繋いでくれた未来への可能性。その二つを両手に抱きしめ、湊は窓の外に広がる青空を見上げた。世界はこれからも、様々な死と、そして生の残響で満ちていくだろう。だが、彼の耳に届くその音は、もうただの雑音ではなかった。それは、誰かが確かに生きた証であり、未来へと繋がっていく、か細くも美しいメロディだった。

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