第一章 黒い棘の言葉
水島蓮(みずしま れん)の世界は、人よりも少しだけ饒舌だ。彼には、言葉が「見える」のだ。
例えば、今しがた隣のテーブルで別れ話を切り出されたらしい女性の口からこぼれた「どうして」という一言は、砕けたガラスの破片のようにきらめきながら床に散らばった。それを聞いた男が放った「ごめん」という言葉は、粘土細工のように形が曖昧で、中身の詰まっていない軽薄な塊となって虚空に浮かび、やがて霧散した。
蓮にとって、言葉は音であると同時に、形と色、そして質量を持つ物体だった。幼い頃から、この共感覚的な知覚は当たり前の日常だった。母が歌ってくれた子守唄は、色とりどりの柔らかな綿毛となって部屋を満たし、友人の屈託のない冗談は、弾むスーパーボールのように空間を飛び跳ねた。この能力のおかげで、彼は人の感情の機微に敏感だった。言葉の裏に隠された嘘は、煤けたように黒ずんで見え、心からの感謝は、温かい光の粒子となって相手の胸に吸い込まれていくのが分かった。
だからこそ、彼は父親である水島巌(いわお)が苦手だった。
ポケットの中でスマートフォンが震える。画面に表示された父からのメッセージは、たった一言。『帰ってこい』。その短い文面から、黒く、鋭い棘が無数に突き出してくるのが見えた。ずしりと重く、指先が痺れるような冷たい質量。それは、蓮が物心ついた頃から、父が彼に向かって放ち続けてきた言葉の形そのものだった。
元・石工の父は、寡黙で、頑固で、感情を表に出さない男だった。蓮が幼い頃、夢中になって描いた絵を「父さん、見て」と差し出したことがある。父は一瞥しただけで、重々しく言った。「そんなものでは、食っていけん」。その言葉は、鉛で作られた巨大な文鎮のように蓮の画用紙の上にのしかかり、彼の小さな自信をぺしゃんこに押し潰した。
優しい母が間に入り、その言葉はいつも柔らかな光のオーブに包まれて霧散したが、その母が病で亡くなってからは、父と蓮の間には冷たい沈黙と、時折交わされる黒い棘のような言葉だけが残された。
装丁デザイナーとして独立し、実家を離れて五年。父との連絡は最低限だった。その父からの、有無を言わさぬ命令。蓮はため息をつき、スマートフォンの画面を伏せた。棘は消えたが、そのずしりとした重さの感覚は、胸の奥に澱のように溜まっていた。なぜ今さら。理由は書かれていない。だが、行かなければ、さらに重く、鋭い言葉が飛んでくることだけは確かだった。
珈琲の湯気が、白い絹のように立ち上っては消えていく。蓮は冷めかけたカップを呷り、重い腰を上げた。あの黒い棘が待ち受ける、静まり返った実家へ帰る覚悟を決めながら。
第二章 沈黙の工房
実家の引き戸を開けると、ひやりとした空気が蓮の肌を撫でた。最後に帰省した時から、さらに時が止まったような静寂が家を支配している。靴を揃え、居間を覗くと、父の巌が一人、座布団の上で背中を丸めていた。
「…ただいま」
蓮が絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く、白い吐息のように頼りなく漂って消えた。
巌はゆっくりと顔を上げた。最後に会った時よりも、その頬はこけ、目元の皺が深く刻まれているように見える。「…ああ」。父の口から漏れたその一言は、やはり、黒く錆びついた小さな鉄塊となって、畳の上にことりと落ちた。蓮は、その質量から無意識に目をそらす。
夕食の間も、会話はなかった。食器の触れ合う音だけが、気まずい沈黙を埋めている。巌は黙々と箸を動かし、蓮はその向かいで、料理の味も分からないまま時間をやり過ごした。父の体からは、以前のような威圧的なオーラは消え失せ、代わりに、まるで古木が静かに朽ちていくような、かそけき気配が漂っていた。それが余計に蓮を息苦しくさせた。
翌日、手持ち無沙汰になった蓮は、家の裏手にある父の工房へと足を向けた。石工を辞めて久しい父の仕事場。軋む引き戸を開けると、石の粉と機械油の匂いが混じった、懐かしい空気が鼻をついた。中は驚くほど整然としており、壁にかけられた鑿(のみ)や金槌は、主を待つ兵士のように行儀よく並んでいる。
工房の奥、埃を被った作業台の上に、作りかけの石の彫刻が置かれていた。それは、鳥のようにも、蕾のようにも見える、柔らかな曲線を持った形をしていた。無骨な父が、こんなものを。蓮は意外に思い、そっとその表面に触れた。ひんやりと滑らかな石肌が、指先に心地よかった。
ふと、蓮は壁の一角に飾られた一枚の絵に気づいた。それは、彼が小学生の頃に描いた、家族の肖像画だった。太陽の下で笑う父と母、そして二人に手を引かれる自分。クレヨンで描かれた拙い絵は、すっかり色褪せていたが、画鋲で丁寧に留められ、まるで大切な宝物のようにそこにあった。
「そんなものでは食っていけん」。
あの時の、鉛の文鎮のような言葉が蘇る。なのに、なぜこの絵を? 矛盾した父の行動に、蓮の心は小さく揺れた。彼は工房の中を見回した。そこかしこに、母との思い出が染みついている。そして、その思い出を慈しむかのように、全てが大切に手入れされていた。
蓮が知る父は、過去を切り捨てるような冷たい男だったはずだ。しかし、この工房に満ちているのは、沈黙の中で大切に守られてきた、温かい記憶の匂いだった。蓮は、自分が父について、何か大きな勘違いをしているのかもしれない、という漠然とした予感を抱き始めていた。
第三章 砕けた盾の真実
その夜、嵐の前触れのように空気が重くなった頃、事件は起きた。居間でテレビを見ていた蓮の背後で、ごとり、と鈍い音がした。振り返ると、父の巌が畳の上に崩れるように倒れていた。
「親父!」
駆け寄った蓮の目に映ったのは、苦痛に顔を歪め、浅い呼吸を繰り返す父の姿だった。救急車を呼び、病院へ搬送されるまでの時間は、永遠のように長く感じられた。
集中治療室の前で、蓮は医師から残酷な事実を告げられた。末期の膵臓癌。手の施しようがなく、余命は幾ばくもない、と。医師の言葉は、一つ一つが冷たいメスの刃となり、蓮の心を無防備に切り裂いていった。頭が真っ白になり、足元から崩れていくような感覚に襲われる。なぜ、何も言ってくれなかったのか。あの『帰ってこい』という棘の言葉は、このためのものだったのか。
数日後、個室に移された巌は、ほとんどの時間を眠って過ごした。蓮はただ、その痩せ細った体の横に座っていることしかできなかった。ある日の午後、朦朧とした意識の中で、巌がうわ言を漏らし始めた。
「さとこ…すまない…蓮を…」
その時、蓮は信じられない光景を見た。父の口から紡がれた言葉は、いつも見ていた黒い棘ではなかった。それは、無数のか細く、しかし、夕日のように温かいオレンジ色をした光の糸だった。だが、その美しい光の糸は、蓮の方へは向かわない。まるで意思を持っているかのように、くるりと向きを変え、鋭い針となって巌自身の胸へと突き刺さっていくのだ。一本、また一本と、父の体に見えない傷を刻んでいく。
「あの子の…才能が…俺と同じ…苦しみを…」
光の糸は、父の懺悔と愛情の言葉だった。しかし、それは決して外には放たれず、全て父自身を苛んでいた。蓮は愕然とした。今まで自分を傷つけていると思っていたあの「黒い棘」は、一体何だったのか。
いてもたってもいられず実家に戻った蓮は、まるで何かに導かれるように父の書斎へ向かった。ほとんど入ったことのない、父だけの聖域。本棚の隅に、古びた鍵のかかった日記帳を見つけた。鍵は机の引き出しの奥に、すぐに見つかった。
震える手でページをめくる。そこには、不器用な文字で、蓮に向けられるはずだった言葉がびっしりと綴られていた。
『蓮の絵は、光を持っている。あいつは、俺にはないものを持っている』
『だが、この道は茨の道だ。才能だけではどうにもならん。俺のようにはなってほしくない』
『俺の言葉が、あの子を傷つける刃になるのなら、俺がその刃を全て受け止める盾になろう。憎まれてもいい。あの子が、別の、もっと安穏な道を見つけられるのなら』
蓮は息を呑んだ。彼が見ていた「黒い棘」は、父が蓮に向かって放ったものではなかったのだ。それは、蓮を守るために父が自らの内に作り上げた「盾」だった。息子への愛情の言葉を必死に飲み込み、代わりに厳しい言葉を吐き出す。そのたびに、父の心は砕け、その破片が「黒い棘」として蓮の目には見えていたのだ。父はずっと、一人で戦っていた。蓮を傷つけまいと、全ての刃を自らの胸で受け止めながら。言葉の本当の質量は、憎しみではなく、あまりにも不器用で、あまりにも深い、愛の重さだった。
日記を抱きしめ、蓮は声を殺して泣いた。窓から差し込む西日が、彼の頬を伝う涙を、まるでオレンジ色の光の糸のように照らしていた。
第四章 言の葉の質量
病院に戻った蓮の足取りは、来た時とはまるで違っていた。迷いはなく、胸の中には、伝えなければならない想いが満ちていた。
病室では、巌が静かに眠っていた。その寝顔は穏やかだったが、長年の戦いの痕跡が深い皺となって刻まれている。蓮は父の傍らに腰を下ろし、持参したスケッチブックと鉛筆を取り出した。
言葉では、きっと伝えきれない。父がそうしてきたように、言葉を尽くせば、それはまた別の形になってしまうかもしれない。ならば、自分の原点で伝えよう。かつて父に否定された、この手で。
鉛筆が紙の上を滑る音だけが、静かな病室に響く。蓮は無心で描いた。父の愛を、その孤独な戦いを、そして、今自分が抱いている感謝の全てを、一本の線に込めて。
どれくらいの時間が経っただろうか。ふと気配を感じて顔を上げると、巌が薄っすらと目を開け、蓮の手元をじっと見ていた。蓮は、描き上げたばかりの絵を、そっと父の方へ向けた。
そこに描かれていたのは、巨大で、無骨で、しかし無数の傷跡が刻まれた石の盾。その盾に守られるようにして、一本の若木が、天に向かって力強く枝を伸ばしている。若木からは、柔らかな光の葉が芽吹き、盾の傷を癒すかのように、優しく降り注いでいた。
巌の乾いた唇が、わずかに動いた。彼の目から、一筋の涙がこぼれ落ち、枕に染みを作った。そして、絞り出すような、しかし、驚くほどはっきりとした声で言った。
「…いい、絵だ」
その瞬間、蓮の目に、奇跡のような光景が広がった。
父の口から放たれたその言葉は、これまで見たどんなものとも違っていた。それは、大きく、どこまでも温かい、黄金色の光を放つ球体だった。ゆっくりと、しかし確かな重さを持って、それは蓮に向かって飛んできた。黒い棘でもなく、自らを傷つける光の針でもない。ただ純粋な、承認と愛情の塊。
その黄金の球体は、蓮の胸に触れると、すうっと、溶けるように吸い込まれていった。ずしりとした、心地よい質量。それは長年、彼の胸に空いていた空洞を、完璧に満たしていくようだった。蓮の目からも、涙が溢れて止まらなかった。
父がその数日後に静かに旅立ったのか、それとももう少しだけ言葉を交わせたのか、物語はそこを詳しく語らない。
ただ、それからの蓮の世界は、少しだけ違って見えた。街を行き交う人々の言葉は、相変わらず様々な形と色をしていたが、もう彼はその表面的な形に惑わされることはなかった。全ての言葉には、見えない質量がある。棘のように見える言葉の裏には、砕けた盾の破片が隠れているのかもしれない。軽薄に見える言葉の中には、伝えきれない重い想いが沈んでいるのかもしれない。
蓮は、父が遺してくれた黄金の言葉の重さを胸に抱き、再び装丁デザイナーとして歩み始めた。彼が手掛ける本の表紙は、以前にも増して、言葉の奥にある温かさや切なさを、深く豊かに表現するようになったという。世界は相変わらず饒舌だったが、その本当の響きを、蓮はもう聞き逃すことはなかった。