追憶のモザイク
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追憶のモザイク

第一章 触れる痛み

僕、桐谷蒼(きりや あおい)には秘密がある。他人に触れると、その人が心の底から「忘れてしまいたい」と願う過去を、自分のことのように追体験してしまうのだ。それは映画のような客観的な映像ではない。痛みも、後悔も、焼けるような恥辱も、すべて生々しい感覚として僕の心身に流れ込んでくる。

今日もそうだ。行きつけの喫茶店のカウンター席。マスターが差し出してくれたコーヒーカップに指が触れた瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。

(……どうして、あんな酷いことを言ってしまったんだ)

マスターの後悔が、僕の喉を締め付ける。数日前、常連の老婦人と些細なことで口論になり、心にもない言葉をぶつけてしまった記憶。老婦人の悲しげな瞳。自己嫌悪で震えるマスターの指先。そのすべてが、僕自身の体験として刻み込まれていく。

「……っ」

僕は小さく息を呑み、何事もなかったかのようにカップを口に運んだ。コーヒーの苦味が、他人の後悔の味と混じり合って、舌の上でざらついた。僕の中には、こうして蓄積された無数の他人の痛みが澱のように溜まっている。自分の感情と他人の感情の境界線はとうに曖昧で、時折、自分が誰なのか分からなくなるほどだった。

店を出て、冷たい夜風に頬を撫でられながら、僕はポケットに手を入れた。指先に触れる、ひんやりとして角の欠けた石のかけら。これだけが、僕が僕であるための、唯一の錨だった。

第二章 モザイクの影

数日後、僕は古いアパートの一室にいた。依頼人は、伏し目がちな瞳を持つ若い女性だった。彼女は震える手で一枚の写真立てを僕に差し出した。

「この事故の記憶を……忘れたいんです」

僕が写真立てのガラスにそっと触れる。途端に、耳をつんざくようなブレーキ音と衝撃が全身を襲った。雨の匂い。アスファルトに叩きつけられる身体の痛み。そして、助手席で血を流す親友の顔を見つめる、絶望。

後悔の濁流に溺れかけた、その時だった。

記憶の風景の片隅に、今まで見たことのないものが映り込んだ。顔は靄がかかったように見えない。けれど、優しい声で誰かを励ましている、一人の青年。そのシルエットは、女性の後悔の風景には不釣り合いなほど、穏やかな空気を纏っていた。

誰だ?

そう思った瞬間、ポケットの中の石が、微かに、本当に微かに温かくなった気がした。初めての感覚だった。僕は混乱しながらも、女性から手を離した。

「……大丈夫ですか?」

心配そうに僕を覗き込む彼女に、僕はかろうじて頷いた。あの影は一体何だったのか。そして、この石の温もりは。僕の内に、初めて自分自身の意志から生まれた疑問が、小さな波紋のように広がっていった。

第三章 温もりの在処

あの日以来、僕は「謎の影」の正体に取り憑かれていた。過去に能力を使った時の記憶を必死に手繰り寄せると、確かに、いくつもの異なる後悔の中に、同じような穏やかなシルエットが断片的に存在していたことに気づいた。ある時は、事業に失敗した男の後悔の中で、公園のベンチに座っていた。またある時は、夢を諦めた音楽家の記憶の中で、古いレコード店の隅に立っていた。

彼らは皆、その人物の顔を覚えていない。ただ、そこにいた、という曖昧な感覚だけが残っている。そして、僕がその断片に意識を向けるたび、ポケットの石は確かな熱を帯びてくるのだ。

僕は、影が目撃された場所を訪ね歩いた。公園のベンチに触れる。レコード店の壁に手を当てる。この世界では、強い後悔は「場所の記憶」としてその場に留まる。僕は、場所に残された感情の残滓に触れ、再び影の姿を探した。

「……また、いた」

古い図書館の片隅。貸し出しカードの入った木箱に触れると、誰かの「借りたかった本がもうなかった」という些細な後悔と共に、書架の影に立つその人を見た。夕陽が差し込み、その横顔を柔らかく照らしている。それでも、顔だけは判別できない。

なぜだ。僕の能力は、忘れたい過去を追体験するはず。なのに、なぜこの人物自身の感情や記憶には一切触れることができない?まるで、僕の能力そのものを拒絶しているかのように。

石は、これまでで一番温かくなっていた。それはまるで、近づいているよ、と僕に語りかけているかのようだった。

第四章 約束の天文台

記憶の糸を手繰り寄せ、影が現れた場所を地図に落としていくと、ある一つの場所に収束していくことに気づいた。僕が、僕自身の意志で、ずっと避けてきた場所。

街外れの丘の上に立つ、廃墟と化した天文台。

幼い頃、唯一無二の親友だった陽(はる)と、星を見ようと約束した場所。そして、彼が足を滑らせて……僕の腕の中から消えてしまった、場所。

冷たい汗が背中を伝う。ここには、僕自身の、人生で最も強烈な後悔が渦巻いている。それに触れたら、僕はきっと壊れてしまう。それでも、行かなければならない気がした。石の温もりが、僕の背中を押していた。

錆び付いた鉄の扉に、震える手を伸ばす。

触れた瞬間――僕は、僕自身の後悔の奔流に飲み込まれた。

陽の、落ちていく最後の姿。伸ばした僕の手が空を切る感覚。彼の名前を叫び続けた、自分の嗄れた声。後悔が僕を喰らい尽くそうとした、その時。

無数の、見知らぬ人々の後悔の風景が、モザイクのように目の前に広がった。喫茶店のマスター、事故を起こした女性、公園の男、図書館の誰か。そのすべての風景の中に、あの影がいた。

そして僕は悟った。あの影は、すべて陽だったのだ。

彼が他の人々と関わった、何気ない日常の断片。それが、なぜか他人の「忘れたい過去」の中に紛れ込んでいた。そして、そのすべての記憶の断片は、この天文台で陽と過ごした、僕自身の記憶と繋がっていた。

脳裏に、事故の直前の陽の声が響く。

『蒼には、僕を失った後悔なんて、背負ってほしくない。僕の痛みも、悲しみも、見ないでくれ』

強い、強い願い。それは、僕の能力を知っていたかのような、切実な祈りだった。

第五章 欠けた石、満ちる心

陽の願い。それが答えだった。

彼が死の間際に放った「蒼にだけは、自分の後悔を見せたくない」という強烈な想い。それがこの世界の法則と共鳴し、奇跡を起こしてしまったのだ。陽の存在そのものが、僕の能力から逃れるための「後悔の集合体」と化し、彼が生前に関わった他の人々の記憶の中に、断片的な影として潜むことで存在し続けていた。僕が彼の正体にたどり着けないように。僕が、彼の死の瞬間の後悔に触れてしまわないように。

なんて、馬鹿な奴なんだ。なんて、優しい嘘つきなんだ。

涙が頬を伝う。僕が真実に気づき、彼の名を呼んだ、その時。

陽が落ちていった崖下の草むらが、淡い光を放った。僕は吸い寄せられるようにそこに近づく。光の中心に、何か小さなものが転がっていた。僕が持っているものとそっくりな、もう一つの「石のかけら」。陽が持っていたはずの、片割れ。

僕がポケットから自分の石を取り出すと、二つの石は互いに引き寄せられ、空中でカチリと澄んだ音を立てて、一つになった。それは、傷跡ひとつない、完璧な球形の石だった。そして、燃えるように熱かった。

欠けた過去と、忘れられた愛が、今、再び一つになったのだ。

第六章 きみの最後の願い

温かい石を握りしめた瞬間、これまで決して触れることのできなかった、最後の扉が開いた。陽の「忘れたい過去」が、優しく、そして切なく、僕の中に流れ込んでくる。

それは、僕を置いて一人で逝くことへの、深い後悔。

僕を庇って落ちていく瞬間の、一瞬の恐怖。

そして何より、自分の死によって、僕がこの先ずっと苦しむであろうことへの、耐え難いほどの悲しみ。

けれど、そのすべてを包み込むように、温かい感情が広がっていた。

(生きて、蒼。僕の分まで、たくさん笑って。きみが幸せでいてくれるなら、僕は、それで……)

それは、僕の幸せを願う、陽の最後の祈りだった。彼の愛だった。

僕は声を上げて泣いた。けれど、その涙はもう、冷たい後悔の色をしていなかった。陽の温かい愛情に包まれ、僕の中に溜まっていた数多の他人の痛みまでもが、浄化されていくようだった。

ふと顔を上げると、夕陽を背にして、陽の幻影が立っていた。昔と変わらない、優しい笑顔で。

「やっと、会えたね、蒼」

その声は風に溶けるように消え、彼の姿も光の粒子となって空に舞い上がっていった。

手の中には、温かい一つの石が残されている。僕の能力が消えることはないだろう。これからも僕は、他人の痛みに触れ、その後悔を抱えて生きていく。

けれど、もう僕は一人ではない。この石の温もりが、陽の愛が、僕と他人の感情の間に、柔らかな光の境界線を引いてくれる。

空を見上げる。一番星が、瞬いていた。

僕は、陽がくれたこの温もりを胸に、もう一度、前を向いて歩き出す。きみのいない、しかし、きみの愛に満ちたこの世界を。

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