沈黙は純正律で歌う

沈黙は純正律で歌う

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第一章 和音の少女

響譲(ひびきゆずる)の世界は、不協和音で満ちていた。彼が営む古い楽器修理工房の扉を開けて入ってくる客たちの言葉は、そのほとんどが濁った楽譜となって彼の網膜に焼き付く。お世辞は不自然な増四度で響き、見え透いた嘘は耳障りな短二度のクラスター・コードとなって頭蓋を苛む。譲は、いつからか備わったこの呪いのような能力のせいで、音楽を、そして人を信じることをやめていた。かつてチェロで喝采を浴びた指は、今やニカワの匂いと木屑にまみれ、狂った音程を修正するだけの道具に成り下がっていた。

ある雨の日の午後、工房のドアベルが澄んだ音を立てた。現れたのは、セーラー服を着た小柄な少女だった。雨に濡れた黒髪が頬に張り付き、大きな瞳が不安げに譲を見つめている。

「あの……これ、お願いできますか?」

その声が耳に届いた瞬間、譲は息を呑んだ。

視界に楽譜が広がらない。いや、違う。広がったのだ。しかしそれは、これまで見てきたどんなものとも異なっていた。一点の曇りもない、完璧な純正律のハーモニー。まるで、磨き上げられたクリスタルが共鳴するような、澄み切った長三和音。

少女が抱えていたのは、使い込まれた古いヴァイオリンケースだった。譲は言葉を失ったまま、震える指でそれを受け取る。

「祖父の形見なんです。どんな音がするのか、聴いてみたくて」

再び、完璧な和音が響く。彼女の言葉は、まるで厳格な対位法に則って紡がれる旋律のようだ。そこには微塵の偽りも、躊躇いも、裏もない。ただ、純粋な願いだけが音となって存在していた。

譲はこれまで、何千、何万という人間の言葉を「聴いて」きた。親しい友人でさえ、気遣いの言葉の裏には微かな不協和音が見えた。愛を囁いた恋人でさえ、その楽譜には時折、不安や欺瞞を示す変化記号が混じった。だが、この少女は違う。

「……名前は?」

ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。

「海(うみ)、です」

海の言葉は、静かで穏やかなニ長調の響きを持っていた。

譲は眩暈を覚えた。この騒々しく、不誠実な世界に、こんな人間が存在するのか。彼は、この少女が放つ清らかな音楽に触れていたいという抗いがたい衝動と、いつかこの完璧な和音が崩れるのを見ることになるだろうという恐怖の間で、身動きが取れなくなっていた。とりあえず、彼は黙ってヴァイオリンの修理を請け負うことにした。それが、呪われた日常に差し込んだ、あまりにも美しい一筋の光から目を逸らせない、彼の精一杯の選択だった。

第二章 不協和音の記憶

海は、それから週に二、三度、工房に顔を見せるようになった。ヴァイオリンの修理の進捗を尋ねるという名目だったが、彼女はただ、譲の仕事ぶりを隅の椅子に座って静かに眺めていることが多かった。

「譲さんの指、魔法みたいですね。木のかけらが、歌いだすみたい」

彼女がそう言うたび、譲の世界は優しい弦楽四重奏に包まれた。彼女との時間は、譲にとって唯一の安息だった。澱んでいた工房の空気が浄化され、ニスの匂いさえもどこか甘く感じられる。譲は、何年も触れていなかった自らのチェロケースに、無意識に指を滑らせることが増えていた。

しかし、安らぎが深まるほど、過去の痛みが鋭く疼いた。

譲が音楽の道を断念するきっかけとなったのは、彼が心から尊敬していたチェロの師だった。あるコンクールの直前、師は譲の肩を叩き、「君の音は神に愛されている。私が保証する」と言った。その言葉は、譲の視界に、かつてないほど複雑で荘厳なフーガとして映った。譲は師の言葉を信じ、全身全霊で演奏した。

だが、結果は惨敗だった。後に知ったことだが、師はコンクールの審査員である旧友に多額の金を渡し、自分の別の弟子を優勝させるよう裏取引をしていたのだ。譲への激励の言葉は、彼を安心させるための、巧妙に構成された偽りの音楽に過ぎなかった。

真実を知った日、師と対峙した。師が口にした言い訳の数々は、譲の視界の中で、全ての秩序を破壊する無調音楽の暴力的な楽譜となって炸裂した。グリッサンド、クラスター、不規則な打楽器音。鼓膜が破れるような幻の轟音に、譲はその場で崩れ落ちた。以来、彼は美しい音楽を聴くことさえできなくなった。美しい旋律ほど、その裏にある不協和音を想起させ、彼を苛んだからだ。

「譲さんは、どうしてチェロを弾かないんですか?」

ある日、海が純粋な好奇心で尋ねた。その言葉は、非の打ち所のないハ長調のアルペジオだった。しかし、その問いが引き金となり、譲の脳裏には師の裏切りの楽譜がフラッシュバックする。

「……音楽は、嘘をつくからだ」

吐き捨てるように言った譲の言葉は、彼自身にも刺々しい減五度として見えた。海は少し悲しそうな顔をしたが、それ以上は何も聞かなかった。ただ、澄んだ和音でこう言った。

「私は、譲さんの音、聴いてみたいです」

その言葉に、譲は胸を締め付けられた。この少女の純粋さを信じたい。だが、信じた先に待っているのが、またあの耳を裂くような不協和音だったら? 彼は、海の完璧なハーモニーが崩れ去る瞬間を想像し、身を震わせた。人間である限り、心に揺らぎや矛盾が生まれるのは当然だ。いつか彼女も、些細な嘘をつくかもしれない。その時、自分はこの美しい幻想の崩壊に耐えられるだろうか。譲は、海の存在がもたらす癒しと、それに比例して大きくなる恐怖との間で、心をすり減らしていた。

第三章 世界で最も美しい嘘

ヴァイオリンの修理は最終段階に入っていた。本体のニスを塗り直し、魂柱を立て、新しい弦を張る。息を詰めて作業に没頭する譲の背後で、海が静かに見守っていた。あと数日で、この奇妙で穏やかな関係も終わる。そう思うと、胸にぽっかりと穴が空いたような気分だった。

最後の仕上げに、ヴァイオリンの内部を小型のライトで確認していた時、譲はf字孔の奥に、何か紙片のようなものが見えるのに気づいた。ピンセットを慎重に差し込み、それを取り出す。それは古びた便箋で、折り畳まれた中には、万年筆による震えるような文字が記されていた。

『愛する海へ。この手紙を君が見つける頃、じいじはもうそばにいないだろう』

それは、海の祖父が遺した手紙だった。譲は、読んでいけないものだと分かりつつも、なぜか目を離すことができなかった。

『君があの事故で声を失ってから、じいじはずっと考えていた。どうすれば、もう一度君の美しい心を世界に響かせることができるだろうかと。そして、この小さな機械を作った。君が伝えたいと願う気持ち――喜び、悲しみ、感謝、愛情。それらを、じいじが録音しておいた「真実の言葉」の響きに乗せて、世界に届けるための装置だ。君がボタンを押せば、君の心が選んだ言葉が、じいじの声で紡がれる。それは嘘じゃない。君の心そのものだからだ。いつか、本当に君の心が通じ合う人と出会えたなら、この機械に頼らずとも、君の魂は歌うことができるだろう。じいじは、そう信じている』

手紙が、譲の手から滑り落ちた。

全身の血が逆流するような衝撃。彼女は、声を失っていた? では、自分が聞いていたあの完璧な和音は、彼女自身の声ではなかった?

譲はゆっくりと振り返った。海は、何が起こったのか分からず、ただ心配そうにこちらを見ている。彼女の首元には、小さなブローチのようなものが付けられていることに、今更ながら気がついた。あれが、音声合成装置なのだ。

譲が聞いていたのは、海の言葉ではなかった。彼女を深く愛した祖父が、孫娘の純粋な心を世界に届けるために遺した、「願い」そのものだったのだ。それは、人間の声でありながら、人間の揺らぎや矛盾を含まない、祈りにも似た音だった。だからこそ、一切の不協和音がなかったのだ。

譲は、自分の能力の限界を、その本質を、生まれて初めて理解した。彼の能力は、言葉の真偽を判別するものではなかった。それはただ、言葉に込められた発話者の「心の揺らぎ」を楽譜として可視化するだけのものだった。師の言葉は嘘だったから不協和音になったのではない。彼の心に「罪悪感」や「自己正当化」という強烈な揺らぎがあったから、あのような暴力的な楽譜になったのだ。

そして、海の「言葉」に不協和音がなかったのは、それが揺らぎようのない、完成された「愛情」そのものだったからだ。それは、この世で最も美しい嘘であり、同時に、何よりも純粋な真実だった。

譲は立ち上がり、海の前に膝をついた。彼女の瞳をまっすぐに見つめる。そこには、楽譜など見えなかった。ただ、深い海の底のような、静かで、どこまでも透明な光が揺らめいていた。彼は、音声装置にも、言葉にも頼らず、彼女自身と向き合おうと決めた。

彼はゆっくりと、修理を終えたばかりのヴァイオリンを海に手渡した。海は驚きながらも、それを受け取る。そして、譲は埃をかぶった自らのチェロケースを開け、何年も眠っていた相棒を手に取った。

彼は弓を構え、目を閉じた。そして、弾き始めた。

最初に響いたのは、不器用で、少し震えた音だった。しかし、それは紛れもなく、今の響譲の、ありのままの心の音だった。不安も、恐怖も、そして目の前の少女への感謝と愛しさも、全てが溶け合った、不完全で、だからこそ人間らしい旋律。

海は、声にならない声を漏らし、その瞳から大粒の涙をこぼした。彼女は、譲の音楽を全身で受け止めながら、おぼつかない手つきでヴァイオリンを構えた。

言葉も、楽譜も見えない。だが、二人の間には、確かに魂の対話が始まっていた。譲は、世界から不協和音が消えることはないだろうと知っていた。自分の心の中にも、それは常に存在し続けるだろう。だが、もう恐れはなかった。不協-和音を受け入れた上で、その向こう側にある、か細くも美しいハーモニーを探し続けること。それこそが、生きることであり、音楽なのだと、彼はようやく理解したのだった。工房に、二つの楽器が織りなす、拙くも温かい二重奏が静かに響き渡っていた。

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