追憶の保管庫

追憶の保管庫

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第一章 亡き妻の秘密

水島亮平の時間は、二年前に妻の沙希が息を引き取ったその日から、ほとんど進んでいなかった。リビングの棚には彼女が好きだった作家の文庫本が並び、クローゼットには彼女のワンピースが季節ごとに掛けられたままだ。まるで、持ち主が少し長い旅行に出かけているだけのような、静かで、埃っぽい不在が家を満たしていた。

三回忌を二週間後に控え、亮平は意を決して、これまで手をつけられずにいた沙希の書斎の片付けを始めた。彼女はフリーの翻訳家で、部屋には外国語の専門書や辞書が壁一面に並んでいる。その一冊一冊に、彼女の指先の温もりが残っているようで、亮平の胸は締め付けられた。

作業は遅々として進まなかった。本を段ボールに詰めては、不意に彼女の書き込みを見つけて手が止まる。インクの掠れた文字が、今はもう聞こえない彼女の声を脳裏に再生させた。「ここは、もっと優しい言葉がいいな」。そう言って悪戯っぽく笑う顔が浮かび、亮平は深く息を吐いた。

ほとんどの本を片付け終え、がらんとした部屋の中央で立ち尽くしていた時だった。書斎机の、普段は使われていなかった一番下の引き出しが、わずかに開いていることに気づいた。何度も開け閉めしたはずの机だ。だが、その引き出しには覚えがなかった。力を込めて引くと、奥で何かが引っかかり、カチリと小さな音がした。隠し底だ。亮平の心臓がどくりと鳴った。

現れた空間に収められていたのは、使い込まれた桐の小箱だった。蓋を開けると、防虫香の古い香りと共に、信じられない光景が目に飛び込んできた。銀色のヘッドバンドに、細いコードで繋がれた二つのイヤーパッド。まるで旧式のヘッドフォンのような、しかしどこか見慣れない奇妙な装置。そしてその隣には、ビロードの布に仕切られた区画に、指先ほどの小さなガラス管が何十本も、整然と並べられていた。

それぞれのガラス管には、手書きの小さなラベルが貼られている。『鈴木タケオ 8歳 夏の終わりの一日』『佐藤ユミ 22歳 初めての失恋の夜』『田中一郎 65歳 定年退職の日』――。見知らぬ名前と、人生のワンシーンを切り取ったかのような言葉が並ぶ。

混乱する亮平の目に、箱の底に敷かれた一冊のノートが留まった。表紙には、沙希の丸みを帯びた文字で『記憶保管マニュアル』と記されている。震える手でページをめくると、そこには装置の簡素な使い方と、彼女の哲学が綴られていた。

『記憶は、それを持つ者が忘れてしまった時、二度目の死を迎える。誰にも語られず、思い出されることもなく、宇宙の塵となる。でも、どんな些細な記憶も、誰かの人生を形作ったかけがえのない宝物のはず。だから、私はそれを預かる。忘れ去られる運命から、ほんの少しだけ守るために』

亮平は立ち尽くした。穏やかで、現実的で、時に彼の夢見がちな性格を優しく窘めることもあった妻。その彼女が、こんな非現実的な、まるでSF小説のような秘密を抱えていたとは。これは一体何なのだ。亮平は、自分が愛した女性の、全く知らない横顔を突きつけられたような衝撃に、ただ立ち尽くすしかなかった。

第二章 ガラス管の中の人生

その日から、亮平の日常は一変した。仕事から帰ると、彼は書斎に引きこもり、桐の箱と向き合った。沙希の遺した装置は、まるで禁断の果実のように、得体のしれない魅力で彼を誘惑していた。妻への理解を深めたいという想いと、人のプライバシーを覗き見る罪悪感が、心の中でせめぎ合う。

数日悩んだ末、彼はついに一本のガラス管を手に取った。『鈴木タケオ 8歳 夏の終わりの一日』。子供の記憶ならば、罪悪感も少しは和らぐかもしれない。マニュアルに従い、ガラス管を装置のソケットに差し込み、ヘッドフォンを装着する。ひんやりとした金属の感触が、こめかみに伝わった。

目を閉じると、最初は何の変化もなかった。だが、数秒後。

――蝉時雨が、鼓膜を突き破るように降り注いだ。目の前には、自分の背丈よりも高く伸びたひまわりが、ぎらつく太陽に向かって咲き誇っている。むわりと立ち上る土の匂いと、青臭い草の香り。小さな自分の手には、汗をかいたラムネの瓶が握られていた。ビー玉がカラリと涼やかな音を立てる。

「タケオ、あんまり遠くへ行くなよ」。

しゃがれた、優しい声。振り返ると、縁側で麦わら帽子を被った祖父が、皺くちゃの笑顔で手招きをしていた。これは、俺の記憶じゃない。鈴木タケオという、見知らぬ八歳の少年の記憶だ。感覚も、視点も、感情も、すべてが彼のものだった。ラムネの強すぎる炭酸にむせ返る感覚。祖父の大きな手の、節くれ立った感触。やがて空が茜色に染まり、夕立が地面を叩く匂い。それは、何の変哲もない、けれど二度と戻らない、夏の終わりの一日だった。

装置を外すと、亮平は自分の書斎にいた。窓の外はとっぷりと暮れている。頬に、一筋の涙が伝っていた。なぜ泣いているのか、自分でも分からない。ただ、鈴木タケオ少年の満たされた心と、今はもう会えないであろう祖父への郷愁が、自分のことのように胸に流れ込んできていた。

亮平は、憑かれたように他の記憶も体験し始めた。『佐藤ユミ 22歳 初めての失恋の夜』では、雨に濡れたアスファルトの匂いと、公衆電話の受話器の冷たさ、止まらない嗚咽を追体験した。『田中一郎 65歳 定年退職の日』では、同僚から贈られた花束の重みと、空っぽになったロッカーを見つめる寂寥感を味わった。

喜び、悲しみ、後悔、希望。ガラス管に封じ込められていたのは、誰かの人生の、色鮮やかな断片だった。亮平は、沙希がなぜこんなことをしていたのか、その理由の一端に触れた気がした。彼女は、ただ人々の人生を覗き見ていたのではない。忘れられていく記憶たちを、まるで我が子のように慈しみ、その輝きが失われないように、静かに見守っていたのだ。

自分が知っていた妻は、彼女のほんの一面に過ぎなかった。その奥には、自分が想像するよりもずっと深く、広い優しさの世界が広がっていた。その事実に打ちのめされると同時に、亮明の心には、沙希への新たな思慕が泉のように湧き上がってくるのだった。

第三章 私が忘れた夜

何十本もの記憶に触れるうち、亮平の心境は徐々に変化していった。当初の混乱は薄れ、今は沙希と共に、他人の人生のささやかな輝きを分かち合っているような、不思議な連帯感さえ感じていた。この装置は、沙希が遺してくれた、世界と繋がるための窓なのかもしれない。

そんなある夜、彼は箱の底の方に、これまで気づかなかった一本のガラス管を見つけた。他のラベルとは少し違う、インクの滲んだ文字。その文字を読んで、亮平は息を呑んだ。

『水島亮平 妻の病室にて』

日付は、沙希が亡くなるちょうど一週間前のものだった。自分の名前。だが、亮平には全く記憶がなかった。この装置で、自分の記憶を預けた覚えなど微塵もない。一体どういうことだ。全身の血が逆流するような感覚に襲われた。これは、誰かが俺になりすましたのか? いや、そんなはずはない。この装置の存在を知っているのは、沙希と、今や自分だけのはずだ。

心臓が早鐘のように鳴り響く。知りたい。だが、知るのが怖い。逡巡の末、彼は震える手でそのガラス管を装置にセットした。もし、これが自分の知らない、自分の記憶なのだとしたら――。

ヘッドフォンを装着し、目を閉じる。

流れ込んできたのは、紛れもなく自分の視界だった。だが、その光景は、亮平が意識の底に無理やり沈め、蓋をしていたものだった。

――消毒液の匂いが充満する、殺風景な個室。窓の外は、冷たい雨が降っていた。痩せ細り、呼吸器に繋がれた沙希が、ベッドの上でか細い息をしている。その姿を見ているだけで、自分の存在が根底から削られていくような、耐え難い無力感。

「……もう、疲れたよ、沙希」

聞こえてきたのは、自分の声だった。ひび割れて、嗚咽が混じった、聞いたこともないほど情けない声。

「君がいなくなったら、俺はどうやって生きていけばいいんだ。一人でなんて、無理だ。意味がないんだよ、何もかも」

記憶の中の亮平は、子供のように泣きじゃくり、ベッドに突っ伏していた。そうだ、思い出した。あの夜、彼は絶望のあまり、崩壊してしまったのだ。医者から余命宣告を受け、日に日に弱っていく妻を前に、気丈に振る舞うことに限界が来ていた。見苦しい、あまりにも見苦しい自分の姿。

すると、記憶の中の沙希が、おぼつかない手つきで、彼の頭をゆっくりと撫でた。その手は驚くほど冷たかったが、確かな温もりがそこにはあった。

「亮平さん……」

か細い、けれど芯の通った声が、彼の耳に届く。

「大丈夫。あなたは、強い人だから。ちゃんと一人で歩いていける。私が、保証する」

彼女はそう言うと、枕元に置いてあった例の装置を手に取った。

「この辛い記憶は、私が預かってあげる。あなたの足枷になるものは、全部。あなたが、ちゃんと前を向いて歩き出せるように。これは、私からの最後のお願い。そして、贈り物」

記憶の中の亮平は、泣きながら頷くことしかできなかった。そして、沙希がヘッドフォンを彼の頭に装着したところで、記憶は途切れた。

第四章 愛という名の記憶

装置を外し、現実に戻った亮平は、声を上げて泣いていた。それは、二年前の葬儀の日とは全く違う種類の涙だった。絶望や悲しみではなく、あまりにも大きく、あまりにも深い愛に触れたことへの、魂の震えだった。

妻は、自分の死を嘆き悲しむだけではなかった。死の淵にありながら、遺される夫の未来を、その心のことだけを、案じてくれていたのだ。彼が前を向いて歩き出せるように、最も辛く、彼の心を苛むであろう記憶を、自ら引き受けてくれた。これは「保管」などではない。彼の魂の負担を、自分の魂に移し替える、愛の儀式だった。

自分が忘れていたあの夜。それは、彼の弱さと絶望の記憶であると同時に、沙希の究極の愛の記憶でもあった。沙希は、亮平が忘れている間も、ずっとその記憶を抱きしめ、天国へ旅立っていったのだ。

亮平は、桐の箱に残されたガラス管たちを、改めて愛おしげに眺めた。見知らぬ人々の、ささやかな人生の断片。これら一つ一つもまた、沙希がその深い慈愛をもって「預かった」宝物なのだ。彼女は、世界に忘れ去られていく小さな光を、ただ懸命に集めていた。

翌朝、亮平は二年間閉ざし続けていた書斎の窓を、勢いよく開け放った。ひんやりとした朝の空気が、淀んだ部屋の匂いを洗い流していく。まるで、止まっていた彼の心に、新しい時間が流れ込み始めたかのようだった。

彼は机の上に、自分の記憶が入ったガラス管をそっと置いた。箱には戻さない。

「ありがとう、沙希。でも、これはもう大丈夫だ」

亮平は、窓の外の青空に向かって、静かに語りかけた。

「この辛さも、君がくれた愛も、全部が俺の一部だ。これからは、ちゃんと俺が引き受けて、生きていくよ」

妻が預かってくれていた記憶は、もはや彼を苛む棘ではなかった。沙希の愛に包まれたことで、それは彼の人生を支える、温かい礎へと姿を変えていた。

この『追憶の保管庫』をこれからどうするべきか、彼にはまだ分からない。持ち主を探して返すべきか、あるいは沙希の意志を継いで、自分が新たな管理人となるべきか。答えはすぐには出そうにない。

だが、確かなことが一つだけあった。彼はもう、過去の喪失に囚われただけの男ではない。妻が遺してくれた無数の記憶と、その記憶に宿る究極の愛を胸に、彼は今日、未来へと続く新たな一歩を踏み出すのだ。記憶とは、単なる過去の記録ではない。それは、誰かによって愛され、意味を与えられた時、未来を照らす光になる。亮平は、そのことを、身をもって知ったのだから。

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