第一章 完璧なポトフ
水島亮平の世界は、一冊のノートを中心に回っていた。クリーム色の表紙が少しばかり煤けた、分厚いリングノート。二年前に逝った妻、沙耶が遺した手書きのレシピブックだ。几帳面で美しい、彼女らしい丸みを帯びた文字が、百を超える料理の作り方を細やかに記している。亮平にとって、それは聖書であり、羅針盤だった。
妻を失って以来、彼の時間は止まったままだ。会社の早期退職勧奨に応じ、社会との接点をほとんど断った。朝、目が覚めると、まずそのノートを開く。今日は何を作るか。ページを繰る指先は、まるで神託を求めるかのように慎重だ。その日の料理が決まれば、彼は忠実な求道者となる。グラム単位で計量し、秒単位で加熱時間を守る。そうして完成した一皿を、沙耶が使っていた席の前に置き、自分も席に着く。まるで彼女が今もそこに座り、微笑んでいるかのように。それが、亮平が喪失という巨大な穴をやり過ごすための、唯一の儀式だった。
今日のメニューは「思い出のポトフ」。沙耶が特に気に入っていた料理だ。レシピのページには、彼女の書き込みがいくつもある。
『じゃがいもは少し大きめに。煮崩れる寸前が、亮平さんの好きな食感だから』
『ローリエは必ず二枚。香りが全然違うの』
そして、赤ペンで引かれたアンダーラインと共に、ひときゆわ強い言葉でこう書かれていた。
『塩は必ず「海の恵み」を小さじ二杯きっかり。絶対に間違えないで』
「海の恵み」とは、彼女が生前、健康を気にして選んだ減塩タイプの塩だった。亮平は、近所のスーパーを何軒も探し回り、ようやくそれを見つけ出した日のことを覚えている。
寸胴鍋に、大きく切った野菜とソーセージ、骨付きの鶏肉を入れる。水からじっくりと煮込み、アクを丁寧にすくい取る。部屋に満ちていく温かな香りは、記憶の中の沙耶の匂いと重なる。コトコトという鍋の音だけが響く静寂の中、亮平は目を閉じる。瞼の裏に、キッチンで楽しそうに鼻歌を歌う妻の姿が蘇る。それでいい。この時間が、彼を生かしていた。
やがて、タイマーが完成を告げた。レシピ通り、完璧な手順で作り上げたポトフ。鶏肉は骨からほろりと外れ、じゃがいもは理想的な柔らかさだ。彼は深めの皿に盛り付け、最後にパセリを散らす。そして、いつも通り向かいの席に一皿置き、自分の分をスプーンですくった。
黄金色のスープを、そっと口に運ぶ。野菜の甘みと肉の旨味が溶け合った、優しい味。完璧な味だ。しかし、その完璧さの中に、ほんの僅かな、しかし無視できない異物のような感覚が舌に残った。
(……本当に、これが沙耶の味だっただろうか?)
それは、心の奥底にずっと沈めていた小さな疑問だった。この二年、何度も感じては、すぐに打ち消してきた違和感。記憶の中にある、沙耶が作ったポトフの味は、もう少しだけ、何かが違ったような気がするのだ。もっと、こう……曖昧で、不器用で、それでいて忘れがたい温かみがあったような。
「いや、違う」。亮平は首を振って、その疑念を追い払った。「レシピは完璧だ。俺の記憶が、悲しみで曇っているだけだ」。
彼はそう自分に言い聞かせ、再びスプーンを口に運んだ。聖なるレシピに疑いを挟むことなど、許されるはずがなかった。
第二章 聖域のひび割れ
亮平の儀式は、より完璧さを求めてエスカレートしていった。沙耶が使っていたのと同じメーカーの包丁、同じ柄の鍋敷き、同じ形のコーヒーカップ。彼は週末になるとフリーマーケットや古道具屋を巡り、妻の聖域を再現するための「聖遺物」を探し求めた。それは、空虚な心を満たすための、終わりのない巡礼だった。
その日も、彼は隣町の骨董市を訪れていた。目的は、沙耶が愛用していた北欧ブランドの、今は廃盤になったスープ皿だ。雑多な品々が並ぶ中、不意に背後から声をかけられた。
「もしかして、水島さん……ですか?」
振り返ると、そこにいたのは見覚えのある女性だった。ショートカットが似合う、快活な印象の女性。沙耶の友人だった、確か、千尋さんだ。
「ああ、どうも……ご無沙汰しています」
「本当にお久しぶりです。お元気そうで……」
千尋はそう言いかけて、少し言葉を濁した。無理もない。妻を亡くしてからめっきりと痩せ、生気の失せた今の自分は、「元気」とは程遠い姿だろう。
ぎこちない会話が数分続いた後、亮平が手にしていたレシピノートの話題になった。彼は、まるで自分の功績を語るかのように、このノートに書かれた料理を毎日作っていることを話した。沙耶の味を寸分たがわず再現しているのだと。
すると、千尋は一瞬、困惑したような、そしてどこか悲しそうな表情を浮かべた。
「そうだったんですね……。沙耶、本当に料理が好きでしたもんね」
「ええ。彼女の右に出る者はいませんよ」
亮平が誇らしげに言うと、千尋は視線を落とし、小さな声で呟いた。
「でも……彼女、いつも言ってたんです。生前、一緒に料理教室に通っていた時も。……『私、本当は味オンチみたい。美味しいの基準が、自分じゃよく分からないの』って」
その言葉は、静かな水面に投げ込まれた石のように、亮平の心に波紋を広げた。
「……何かの冗談でしょう。あの沙耶が? あり得ません。このノートを見てください。こんなにも繊細な味付けを、味が分からない人間が書けるはずがない」
彼の声には、自分でも気づかぬうちに棘が混じっていた。聖域を土足で踏み荒らされたような、不快感。
「ご、ごめんなさい。変なことを言ってしまって……」
千尋は慌てて謝罪し、そそくさとその場を立ち去った。
亮平は一人、その場に立ち尽くした。千尋の言葉が、悪意のある呪いのように頭の中で反響する。「味オンチ」。馬鹿な。沙耶が? あの、誰よりも美味しい料理で自分を幸せにしてくれた彼女が?
彼は衝動的に骨董市を後にし、家に逃げ帰った。そして、キッチンに立つと、半ば狂ったようにノートの別のページを開き、そこに書かれた「鶏のハーブ焼き」を作り始めた。レシピ通りに、一分の隙もなく。
だが、オーブンから漂う香ばしい匂いを嗅いでも、心は少しも安まらなかった。千尋の言葉が、完璧だったはずの世界に、修復不可能なひび割れを入れてしまったのだ。
第三章 優しい嘘のレシピ
千尋の言葉という名の毒は、ゆっくりと、しかし確実に亮平の心を蝕んでいった。何を料理しても、完成した皿を前にすると、あの声が蘇る。「私、本当は味オンチなの」。そのたびに、料理の味は砂を噛むように感じられなくなった。彼が信奉してきた聖域は、もはや拠り所ではなく、疑念を生み出すだけの苦痛の場所へと変わり果てていた。
その夜は、窓を叩く激しい雨音が、亮平の心の荒れ模様を映しているかのようだった。夕食に作ったクリームシチューは、ほとんど手を付けられずにシンクに流された。レシピ通りに作ったはずなのに、味がしない。いや、味が分からないのだ。自分の舌が、沙耶と同じように壊れてしまったのだろうか。
苛立ちと絶望が頂点に達した瞬間、彼はキッチン台に置いてあったレシピノートを、力任せに壁へと叩きつけた。
「どうしてなんだ、沙耶……!」
ノートは鈍い音を立てて床に落ち、無様に開いた。亮平ははっと我に返り、慌ててそれを拾い上げる。愛しい妻の分身を、自分は何という手で傷つけてしまったのか。
ノートを抱きしめ、許しを乞うように表紙を撫でたその時、彼は気づいた。長年の使用で少し歪んでいた分厚い裏表紙。そのボール紙が、壁に叩きつけられた衝撃でわずかに剥がれ、その隙間から、別の紙の端が覗いている。
なんだ、これは。
亮平は震える指で、慎重にその剥がれた部分を広げた。すると、そこにはノートの紙とは質の違う、一枚の便箋が丁寧に折り畳まれて挟まっていた。裏表紙の裏に、隠すようにして。
ゆっくりと、それを開く。そこには、走り書きのような、それでいて紛れもない沙耶の文字があった。
『亮平さんへ。
この手紙をあなたが見つけることがないようにと願うけれど、もし見つけてしまったのなら……。ごめんなさい。このノートは、あなたのための、私の最後の優しい嘘でした』
息が止まった。嘘? このノートが?
亮平は、憑かれたように文字の続きを追った。
『あなたは知らなかったけれど、病気の副作用で、私の舌はもうずっと前に味を感じなくなっていました。甘いも辛いも、しょっぱいも。何も分からなくなったの。料理を作っても、美味しいかどうかの判断が、自分ではできなかった。大好きな料理が、ただの作業になってしまうことが、とても怖くて、悲しかった』
『でも、そんな時、あなたの顔が浮かんだの。「沙耶の料理は世界一だ」って、いつも嬉しそうに食べてくれるあなたの顔が。だから、決めたんです。もう一度、あなたに美味しいって言ってもらいたい。その一心で、このノートを書き始めました。
ここに書かれているレシピはね、私の味じゃないの。私が昔作って、あなたが「美味しい」と言ってくれた料理の記憶。そして、味が分からなくなった私が、あなたのことだけを考えて、「きっとあなたは、この味を喜んでくれるはず」と想像して作り上げた、理想の味。これは、私の料理の記録ではなくて、あなたへのラブレターなんです』
『「塩は『海の恵み』を」と強く書いたのは、血圧を気にしていたあなたの体を心配したから。「〇〇を〇分煮込む」と細かく書いたのは、せっかちなあなたが火加減を間違えないように。味のためじゃない。全部、あなたの健康と、あなたの幸せのためだけの、私のお節介。
だから、もしこのノートの味に飽きたら、気にせずあなたの好きなように作ってね。あなたが笑顔でご飯を食べてくれること。それが、私のたった一つの願いだから。
愛を込めて。
あなたの沙耶より』
読み終えた瞬間、亮平の膝から力が抜けた。彼はその場に崩れ落ち、レシピノートを強く、強く胸に抱きしめた。頬を伝う熱い雫が、ノートのページに次々と染みを作っていく。
嗚咽が漏れた。二年分の涙が、堰を切ったように溢れ出した。
味オンチなんかじゃなかった。味覚を失ってもなお、彼女は自分のために、自分だけのことを見て、愛を注いでくれていたのだ。彼が固執していたのは、沙耶の「味」ではなかった。沙耶という「存在」そのものだった。そして彼女は、存在の証を、こんなにも温かい形で遺してくれていた。
第四章 君と僕の味
嵐が過ぎ去った翌朝、空は嘘のように晴れ渡っていた。窓から差し込む柔らかい光が、キッチンの床に落ちたままの亮平を照らす。彼は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。腕の中には、しわくちゃになった手紙と、涙の跡が残るレシピノートがあった。もうそれは、彼を縛る聖書ではなかった。沙耶からの、世界で一番温かい手紙だった。
ゆっくりと立ち上がり、彼はシンクに向かう。そして、昨夜流してしまったシチューの鍋を洗い始めた。ごしごしとスポンジを動かしながら、彼の心は不思議なほど穏やかだった。喪失の痛みは消えない。だが、その痛みを包み込む、大きな愛情の存在を知った。
鍋を洗い終えた亮平は、再びキッチンに立った。そして、あのレシピノートを開く。選んだページは、「思い出のポトフ」。彼はそこに書かれた分量や手順には目を向けず、ただ、赤ペンで書かれた『塩は必ず「海の恵み」を』という一文だけを、愛おしそうに指でなぞった。
彼は、自分の記憶と感覚だけを頼りに、ポトフを作り始めた。じゃがいもを切りながら、昔、沙耶が「今日のじゃがいも、大きいわね」と笑った顔を思い出す。ローリエを鍋に入れながら、彼女のハーブの好みについて語り合った日を思い出す。一つ一つの工程が、レシピの再現ではなく、沙耶との対話になっていた。
最後に、塩を入れる番が来た。彼は棚から「海の恵み」を取り、小さじではなく、自分の手のひらに直接塩を振りかけた。そして、自分の舌を信じて、パラパラと鍋に振り入れる。
やがて、ポトフが完成した。
彼は深呼吸をして、スプーンでスープをすくう。それは、レシピノートの味ではなかった。かつて沙耶が作ってくれた、記憶の中の味とも少し違う。だが、口に含んだ瞬間、体の芯からじわりと温かさが広がった。野菜の甘みと、肉の旨味。そして、それらをまとめ上げる絶妙な塩加減。それは、沙耶の愛情と、亮平自身の想いが初めて一つの鍋の中で融合して生まれた、「二人の味」だった。
涙が、また一筋こぼれた。しかし、それはもう悲しみの涙ではなかった。
亮平は、窓の外に広がる青空を見上げた。まるで、空の上から沙耶が微笑んでいるかのようだ。
彼は食卓に戻ると、レシピノートの最後の、白紙のページを開いた。そして、傍らにあったペンを手に取り、慣れない、少し不器用な文字で、こう書き記した。
『今日、君と僕の、新しい料理が生まれたよ。とても、美味しかった』
もう、過去の幻影だけを追いかける必要はない。妻が遺してくれたのは、未来へと続く優しい嘘のレシピだった。そのノートは、彼のこれからの人生を照らす、愛の記憶が詰まった道標として、静かにそこに在り続けた。