第一章 鉛の老女
柏木湊(かしわぎ みなと)には、秘密があった。彼には、他人の心の重さがわかる。それは比喩ではない。誰かが深い悲しみや後悔を抱えていると、その周囲の空間が物理的に重くなるのだ。満員電車は、人々の肉体的な密集以上に、無数の小さな後悔や不安が積み重なり、まるで深海にいるかのような水圧で湊を押し潰す。だから湊は、東京の片隅にある古書店『時の葉書房』で、ひっそりと働いていた。古い紙の匂いと静寂は、彼にとって唯一の避難所だった。
その日、店のドアベルが、いつもより鈍く、沈んだ音を立てた。入ってきたのは、背を丸めた小柄な老婆だった。彼女が一歩店に足を踏み入れた瞬間、湊は息を呑んだ。空気が、まるで鉛の霧に満たされたかのように重くなったのだ。これまで感じたことのない、圧倒的な質量。棚の本が軋み、床が沈むような錯覚さえ覚える。湊はカウンターの陰で、思わず身を固くした。
老婆はゆっくりと店内を見回し、おぼつかない足取りで郷土史の棚へ向かった。彼女が指で背表紙をなぞるたび、その周辺の空気がさらに密度を増す。湊には見えた。彼女の周りだけ、陽光の粒子が重力に引かれて歪んでいるのが。あれは単なる悲しみや後悔ではない。何十年という歳月をかけて凝縮され、結晶化した、名付けようのない感情の塊だ。
やがて老婆は、一冊の古びた詩集を手に取った。そして、何も言わずにレジカウンターに置くと、震える手で皺くちゃの千円札を数枚出した。湊は恐怖に近い感情を押し殺し、本を受け取った。その瞬間、指先にずしり、と鉄塊のような重みが伝わる。たかだか百ページほどの文庫本が、辞書数冊分にも感じられた。
「……ありがとうございます」
声を絞り出すのがやっとだった。老婆は何も答えず、ただ深く、昏い瞳で湊をじっと見つめた。その瞳の奥には、語られることなく過ぎ去った長い長い物語が、深淵のように広がっているように見えた。彼女が店を出ていくと、あの凄まじい重圧は嘘のように消え去った。しかし、カウンターの上に残された詩集だけは、依然としてありえないほどの質量を保ち続けていた。湊は、自分の日常が、この小さな本によって根底から覆されようとしている予感を、肌で感じていた。
第二章 残された本の重み
老婆が去った後も、『時の葉書房』には奇妙な静けさと、あの詩集が放つ異様な存在感が残っていた。湊は恐る恐るその本を手に取る。桜井東子(さくらい とうこ)という、今では忘れられた詩人の名が記された『風の化石』というタイトルの詩集。だが、その物理的な重さは、まるで一人の人間の人生そのものを凝縮して閉じ込めたかのようだった。
湊は、これまで自分の能力を呪い、人との関わりを避けるための理由にしてきた。他人の心の重さに触れることは、自分まで引きずり込まれるようで怖かったのだ。しかし、この詩集が放つ重さは、恐怖だけでなく、何か強い引力のようなもので湊を惹きつけていた。これは一体、何の重さなのだろう。
彼はページをめくった。詩の言葉は、孤独や喪失を歌いながらも、どこかに凛とした光を宿していた。そして、最終ページに近い頁の間に、一枚の古い領収書が挟まっているのを見つけた。日付は昭和二十八年。発行元は『サエグサ写真館』とある。インクは掠れていたが、撮影料として支払われた金額と、但し書きに「お宮参り記念」という文字が微かに読み取れた。
この詩集の重さと、古い写真館の領収書。何か関係があるのだろうか。湊はいてもたってもいられなくなった。自分の能力から逃げるのではなく、初めてその「重さ」の正体に向き合ってみたいという衝動に駆られたのだ。彼は店の古い地図を引っ張り出し、『サエグサ写真館』の場所を探した。幸いにも、写真館は店から数駅離れた古い商店街に、今もなお存在しているようだった。
翌日、湊は店を先輩に任せ、電車に乗った。いつもは息苦しいだけの車内も、今日は不思議と気にならなかった。彼の意識はすべて、カバンの中であの異常な重さを放ち続ける詩集と、その先に待つであろう物語の断片に集中していた。商店街に降り立つと、潮の香りが混じった風が吹いていた。サエグサ写真館は、想像以上に古びた木造の建物で、ショーウィンドウには色褪せた七五三の写真が飾られていた。湊は深く息を吸い込み、軋むガラスの引き戸に手をかけた。
第三章 語られなかった幸福
「あの、すみません。この領収書について、何かご存知ないでしょうか」
湊が差し出した領収書を見て、カウンターの奥から出てきた白髪の店主は、分厚い眼鏡の奥の目を細めた。彼は三代目店主のサエグサと名乗り、領収書を手に取ると、懐かしそうに目を細めた。
「ああ、これはうちの先代の字だ。昭和二十八年…私がまだ子供の頃ですね。…桜井さん、というお名前ですか。少しお待ちください」
サエグサ氏は店の奥へと消え、しばらくして埃をかぶった分厚い台帳を数冊抱えて戻ってきた。パラパラと黄ばんだページをめくる指が、やがてぴたりと止まる。
「…ありました。桜井トキさん。赤ん坊のお宮参りの写真ですね。ええ、覚えていますよ、この方のことは。先代である父から、何度も聞かされましたから」
サエグサ氏の口から語られた物語は、湊の想像を遥かに超えるものだった。老婆、桜井トキさんは、戦争で家族を亡くし、天涯孤独の身だった。終戦間際、彼女は敵国の兵士だった若い男を、家の床下に匿っていたのだという。周囲の厳しい目から彼を守り、乏しい食料を分け与える日々。二人の間にはやがて愛情が芽生え、終戦後、男が故国へ強制送還される直前に、トキさんのお腹には新しい命が宿っていた。
「トキさんは、たった一人でその子を産んで、育て上げたんです。父親が誰かなんて、もちろん誰にも言えやしない。非国民と罵られ、指をさされながらも、彼女はたった一つの宝物である我が子を、必死で守り抜いた。このお宮参りの写真の時も、彼女は『この子が私にとっての、戦争が終わった証です』と言って、それはそれは幸せそうに笑っていたと、父は言っていました」
湊は、雷に打たれたような衝撃を受けた。彼が感じていたあの鉛のような重さは、罪悪感や悲しみだけではなかったのだ。それは、誰にも語ることのできなかった秘密の恋。世間の冷たい視線に耐えながら、愛する人の忘れ形見を育て上げた誇り。そして、その子を腕に抱いた時の、途方もないほどの幸福。それら全ての感情が、何十年という歳月の中で混ざり合い、凝縮されて生まれた「想いの質量」だったのだ。
重さとは、必ずしも負の感情の重みではない。愛や喜びもまた、深く、強いものであればあるほど、魂に確かな重さを与える。湊は初めて、自分の能力が捉える世界の、もう一つの側面を垣間見た気がした。詩集『風の化石』は、トキさんが唯一、心を許せる友人だったのだろう。彼女の人生の全ての重さを、その小さな本だけが受け止めていたのだ。
第四章 軽くなる世界
サエグサ氏の助けを借り、湊は桜井トキさんの息子が、今はどうしているのかを調べ始めた。息子は数年前に亡くなっていたが、その娘、つまりトキさんの孫にあたる女性が、この町の近くで小さなカフェを営んでいることが分かった。
湊は迷った。自分がこの物語を彼女に伝えて良いものだろうか。部外者である自分が、家族の静かな歴史をかき乱すことになるのではないか。カバンの中の詩集が、答えを促すようにずしりと重みを増した。
カフェのドアを開けると、カラン、と軽やかなベルの音が鳴った。店主の女性は、どこか面影がトキさんに似て、優しそうな目をしていた。湊は意を決して事情を話し、トキさんから預かった(と彼は言った)詩集と、サエグサ写真館で複写してもらったお宮参りの写真を彼女に手渡した。
彼女は驚いたようにそれらを受け取ると、祖母の若き日の姿と、自分が生まれる前の父親の赤ん坊の姿を、食い入るように見つめた。湊は、トキさんの人生を、サエグサ氏から聞いた言葉を借りて、静かに語り始めた。秘密の恋、匿われた兵士、そしてたった一人で子供を育て上げた、誇り高い母の物語を。
話が終わる頃には、彼女の瞳には大粒の涙が浮かんでいた。
「祖母は…自分の過去をほとんど話してくれませんでした。ただ、いつも寂しそうに、でも、とても強い人でした。そうだったんですね…そんな物語があったなんて…」
彼女が震える手で詩集を抱きしめた、その瞬間だった。湊は、はっきりと感じた。ずっと彼の腕に重くのしかかっていた詩集の質量が、ふわりと、羽根のように軽くなったのだ。物語が、語るべき相手に届いた。トキさんの魂に澱のように沈殿していた重い想いが、孫の涙によって解き放たれ、昇華されていく。
湊は悟った。自分のこの能力は、呪いなどではなかった。それは、言葉にならない想い、忘れ去られた物語の「重さ」を感じ取り、それを次の誰かへと繋ぐための、特別な才能だったのだ。重さを分かち合うことは、その魂を軽くすることに繋がるのかもしれない。
『時の葉書房』に戻った湊は、いつもより世界が少しだけ軽く、明るく感じられた。もう、人混みも怖くないかもしれない。彼は受話器を取り、実家の番号をダイヤルした。電話の向こうで、ぶっきらぼうな父親の声がする。湊はいつも、父親の周りに漂う、鈍く重たい空気から逃げてきた。だが、今は違う。
「父さん、俺だけど。…あのさ、今度、ゆっくり話さないか。何か、ずっと抱えてることがあるんじゃないかって…思って」
電話の向こうで、父が息を呑む気配がした。湊は、初めて他人の重さから逃げずに、それを受け止めようと、静かに決意していた。窓から差し込む西陽が、古書の背表紙を金色に照らしていた。