忘却の刃、追憶の鞘

忘却の刃、追憶の鞘

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第一章 宵闇の依頼人

江戸の片隅、神田の裏通りに、惣(そう)の仕事場はあった。夜のしじまが深くなる頃、そこは油煙と鉄の匂いで満たされる。彼は研師だった。しかし、彼が研ぐのはありふれた刀ではない。父の代から受け継いだ一振りの刀、『斬憶刀(ざんおくとう)』。人の記憶を斬るという、呪いとも祝福ともつかぬ力を持つとされた奇妙な刀だ。

惣自身は、その力を信じていなかった。それは寂れた家業を糊口をしのぐための方便、父が遺した空虚な伝説だと思っていた。彼の本当の望みは、名のある侍が佩くような、人を斬るための鋭い刃を研ぎ上げること。しかし、生活はそれを許さない。「記憶を消したい」という奇特な客が、時折、藁にもすがる思いでこの薄暗い仕事場を訪れるのだ。

その夜の客も、そうだった。

障子戸が静かに開かれ、音もなく一人の女が現れた。藍色の小袖に身を包み、顔は市女笠で隠されている。細く白い指が、震えながら畳に置かれた。

「こちらで…忘れたい記憶を、斬っていただけると伺いました」

鈴を転がすような、しかし水底から響くようなか細い声だった。

惣は砥石を動かす手を止め、無愛ゆそうに顔を上げた。「戯言だ。帰ってくれ」

「お願いにございます。この通り…」

女は笠を脱いだ。月明かりが障子越しに差し込み、その横顔を白く照らし出す。息を呑むほどに整った顔立ちだったが、その瞳には底なしの沼のような怯えと悲しみが澱んでいた。小夜(さよ)、と彼女は名乗った。

「忘れたいのです。ある男の…顔を」

惣の心が一瞬、揺らいだ。彼女の瞳は、ただの迷信に縋る者のそれではない。魂の奥底から救いを求める者の色をしていた。父の言葉が脳裏をよぎる。『惣、この刀はな、人を斬るためのものじゃない。人の苦しみを、断ち切るためのものだ』。馬鹿馬鹿しい、と心で呟きながらも、惣はいつものように高額な値と、決して他言しないという条件を告げた。小夜はこくりと頷き、懐からずしりと重い巾着を差し出した。

惣はため息をつき、桐の箱から斬憶刀を取り出した。刀身は闇を吸い込んだように鈍く黒光りし、不気味なほどの静けさを湛えている。父の遺した秘伝書に従い、惣は刀を研ぎ始めた。シャッ、シャッと砥石と刃が擦れる音が、張り詰めた空気を震わせる。それはいつもの音のはずなのに、今夜に限っては、まるで誰かの嗚咽のように聞こえた。

準備が整い、惣は小夜の前に立った。

「…斬るぞ」

小夜は目を閉じ、かたく体をこわばらせた。惣は斬憶刀を振り上げる。馬鹿げた芝居だ。そう思いながら振り下ろした瞬間、刀身が淡い燐光を放った。惣の手の中で、刃が生き物のように脈動する。光が小夜の額に吸い込まれると、彼女は糸の切れた人形のように崩れ落ちた。

惣は、自分の手を見つめて立ち尽くした。これは、本当に…? 疑念と畏怖が、冷たい汗となって背中を伝った。

第二章 忘れ貝の嘆き

翌朝、小夜は仕事場の片隅で静かに目を覚ました。惣が差し出した白湯を、彼女はゆっくりと口に運ぶ。その瞳から、昨日までの深い絶望の色は消え、代わりに不思議なほどの空虚さが漂っていた。

「…何か、思い出せるか」

惣の問いに、小夜は小さく首を振った。「いいえ。ただ…胸のあたりが、ぽっかりと穴が空いたようです。悲しい夢を見て、その内容だけを忘れてしまったような…そんな心地がいたします」

彼女は本当に、忘れていた。惣は畏怖と当惑を覚えながらも、斬憶刀の力が本物であることを認めざるを得なかった。小夜は約束の金を払い、誰に会うこともなく、暁の光の中に静かに消えていった。

その一件がどこからか漏れたのか、惣のもとには「記憶を消したい」と願う人々が次々と訪れるようになった。不正に得た富への罪悪感に苛まれる商人。叶わぬ恋の痛みに夜毎涙する芸者。戦場で友を手にかけた過去にうなされる浪人。彼らは皆、心の奥底に癒えぬ傷を抱え、その記憶という名の重荷を下ろしたがってやって来た。

惣は淡々と依頼をこなした。斬憶刀を振るうたびに、依頼人の顔からは苦悩が消え、代わりに空っぽの微笑が浮かんだ。惣の懐は潤ったが、心は逆に乾いていくようだった。彼は人々の最も深い部分に触れ、それを己の手で切り捨てている。その行為は、まるで魂の一部を殺しているかのような、得体の知れない虚しさを惣に与えた。

そんな日々の中、惣は時折、小夜のことを思い出していた。彼女は今、どうしているだろうか。記憶を失い、ぽっかりと空いた心の穴を抱えて、ちゃんと生きているのだろうか。町で見かける藍色の小袖の女がいると、つい目で追ってしまう自分がいた。

ある雨の日の午後、惣が研ぎに集中していると、表で騒がしい声がした。奉行所の役人だという男が、数人の同心を連れて踏み込んできた。

「研師の惣だな。ちと、聞きたいことがある」

役人の鋭い目が、仕事場に置かれた刀を舐めるように見る。惣の心臓がどくりと跳ねた。斬憶刀のことが明るみに出たのか。

「近頃、この界隈で辻斬りが横行しているのは知っているな」

辻斬り。その言葉に、惣はわずかに安堵した。自分には関係のない話だ。

「犯人は、ただ人を斬るだけではない。斬られた者は一命を取り留めても、皆、何か大切な記憶を失っているのだ。『記憶盗人』と呼ばれておる」

記憶を、失う? 惣の背筋に冷たいものが走った。

「我らは、お前の父親、惣右衛門(そうえもん)を殺した男を追っている。七年前の事件だ」

役人は一枚の似顔絵を突きつけた。そこには、険しい目つきの、頬に古い切り傷のある男の顔が描かれていた。

惣は息を呑んだ。それは見覚えのある顔だった。何度も、何度も、夢の中でうなされた顔。父の血だまりの中に立っていた、あの男の…。

そして、惣はもう一つの事実に気づき、全身が凍りついた。

この顔は。

小夜が、「忘れたい」と願った男の顔と、瓜二つだったのだ。

第三章 双つの刃、交わる宿命

役人の言葉が、惣の頭の中で轟音となって響いていた。

「七年前、お前の父親を殺し、惣右衛-門が打った一振りの刀を奪った元弟子、辰蔵(たつぞう)。奴が『記憶盗人』の正体だと我らは睨んでいる」

惣は呆然と立ち尽くすことしかできなかった。父の元弟子。そんな男がいたことすら、彼は知らなかった。

「惣右衛門が打った刀は、一対だったと聞く。お前の持つ『斬憶刀』と、辰蔵が奪ったもう一振りの…」

役人の言葉を待たず、惣は父の遺した秘伝書が仕舞われた棚に駆け寄った。震える手で巻物を開く。その最後の頁に、これまで気にも留めなかった記述があった。

『我が刀は双つにして一つ。陰と陽。記憶を斬り、悲しみを断つ『斬憶刀』。そして、記憶を奪い、力を喰らう『奪憶刀(だつおくとう)』。後者は決して人の手に触れさせてはならぬ…』

全身の血が逆流するような感覚に襲われた。辰蔵は、父を殺して奪憶刀を手にし、その力で人々の記憶を奪っていたのだ。そして、小夜は…。彼女はその辰蔵に襲われた被害者だったのだ。おそらく、彼女は辰蔵にとって不都合な何かを目撃した。だから辰蔵は彼女を襲い、その記憶を奪おうとした。だが、何らかの理由でそれは叶わず、恐怖に駆られた小夜が、俺の元へやってきた。

そして俺は、彼女の最後の希望を、唯一の証言を、この手で斬り捨ててしまったのだ。

「どうした、顔色が悪いぞ」

役人の声が遠くに聞こえる。惣は、自分が犯した取り返しのつかない過ちに打ちのめされていた。善意のつもりだった。人の苦しみを救うためだと、どこかで父の言葉を言い訳にしていた。だが、結果はどうだ。父の仇を追う手がかりを消し、罪なき女の正義を踏みにじった。研師としての誇りも、息子としての務めも、すべてが足元から崩れ落ちていく。

「…その女は、事件の唯一の目撃者だったかもしれんのだ。犯人の顔を覚えていた、たった一人のな。だが、数日前に見つけた時には、辻斬りに遭った前後の記憶をすっかり失っていた。これで事件はまた振り出しだ」

役人は忌々しげに吐き捨て、去っていった。

仕事場に残された惣は、床に膝をついた。桐の箱に納められた斬憶刀が、まるで自分を嘲笑うかのように静かに横たわっている。父はなぜ、こんな呪いのような刀を遺したのか。人を救う力とは、何なのか。答えの出ない問いが、彼の心を締め付けた。

その時、ふと小夜の言葉が蘇った。『胸のあたりが、ぽっかりと穴が空いたようです』。

記憶は消えても、魂に刻まれた痛みは消えない。忘れ貝のように、心の奥底で静かに嘆き続けているのだ。

俺は、本当に彼女の苦しみを断ち切ったのか? いや、ただ蓋をしただけではないのか。

惣はゆっくりと立ち上がった。その瞳に、今までなかった昏く、しかし確かな光が宿っていた。

間違えたのなら、正せばいい。俺の手で。この、斬憶刀で。

それはもはや、家業のためでも、金のためでもなかった。彼が初めて、自らの意志で握る刃だった。

第四章 追憶の残響

惣は小夜を探し出した。彼女は小さな茶屋で、針子として静かに暮らしていた。惣の突然の来訪に驚きながらも、彼女は静かに彼を迎え入れた。

惣は、すべてを話した。斬憶刀と奪憶刀のこと。父の仇である辰蔵のこと。そして、自分が彼女の記憶を消してしまったこと。彼は畳に額をこすりつけ、何度も詫びた。

小夜は黙って聞いていた。その顔に怒りや絶望の色はなかった。ただ、静かな湖面のような瞳で、惣を見つめていた。

「…そうだったのですか。どうりで、時折、理由もなく胸が締め付けられるように痛むはずです。私の心は、覚えていたのですね。忘れてしまった悲しい出来事を」

彼女はそっと自分の胸に手を当てた。「あなたを恨んではおりません。むしろ、感謝しています。あの男の顔を思い出さずに済むのなら、その方が…」

「だが、このままでは奴の思う壺だ。それに、俺は父の仇を討ちたい。あんたを苦しめた男を、俺自身の手で裁きたいんだ」

惣の目に、決意の炎が燃え盛っていた。

「お願いだ、力を貸してほしい。記憶はなくとも、あんたの心が覚えている何かが、辰蔵を見つけ出す手がかりになるかもしれない」

小夜はしばらく逡巡していたが、やがて静かに頷いた。「わかりました。私のこの、空っぽの心が役に立つのなら」

それから数日、二人は辰蔵の足跡を追った。小夜は記憶を頼りにするのではない。胸騒ぎがする場所、不吉な気配を感じる辻、かつて辰蔵が人を襲ったであろう場所を、魂の疼きを頼りに探し当てていった。惣は、そんな彼女の姿に、人の記憶というものの不可思議さと、魂の強さを感じずにはいられなかった。

そして、満月の夜。小夜が「ここです…一番、胸が痛む」と呟いた柳の木の下で、彼らはついに辰蔵と対峙した。

「ほう、親父の忘れ形見か。その刀を渡してもらおうか」

辰蔵は、腰に差した奪憶刀を抜き放った。それは斬憶刀と対をなすように、月光を妖しく反射していた。

「父の仇…!」

惣も斬憶刀を構える。だが、彼は人を斬ったことのないただの研師。対する辰蔵は、幾人もの記憶と命を弄んできた手練れだ。勝負は、火を見るより明らかだった。

辰蔵の刃が、惣に襲いかかる。惣は必死に受け止めるが、一撃ごとに腕が痺れ、呼吸が乱れる。

「貴様の最も大切な記憶を喰らってやろう! 父親との記憶は、どんな味かな!」

辰蔵が嗤い、奪憶刀の切っ先が惣の額を掠めた。その瞬間、惣の脳裏から、優しかった父の顔、共に槌を振るった日々の思い出が、急速に色褪せていくのがわかった。恐怖が全身を支配する。

薄れゆく意識の中、父の最後の言葉が、心の奥底から響き渡った。

『この刀は、斬るものではない。断ち切るものだ。悲しみの連鎖を…』

そうだ。俺は、辰蔵を斬るためにここに来たのではない。この男が生み出し続ける、悲しみの連鎖を断ち切るために来たのだ。

惣は最後の力を振り絞り、辰蔵の体ではなく、彼が持つ奪憶刀そのものに狙いを定めた。

「断ち切れよ、斬憶刀!」

惣の叫びと共に、二つの刃が激しく打ち合わされた。キィン、という耳をつんざくような金属音と共に、双つの刀が共鳴し、凄まじい光を放った。光に包まれた辰蔵は、まるで大切な何かを失った子供のように、呆然と膝から崩れ落ちた。奪憶刀の力は霧散し、これまで彼が奪ってきた人々の記憶が、無数の光の粒となって夜空に舞い上がり、それぞれの持ち主へと還っていった。

事件は終わった。しかし、小夜の記憶だけは、戻らなかった。惣が斬った記憶は、奪われたものとは違う。それは完全に、この世から消え去ってしまったのだ。

だが、惣が駆け寄ると、彼女は穏やかな顔で微笑んでいた。

「もう、胸は痛くありません。何があったのかはわかりませんが…何か重いものから、解き放たれた気がします」

その笑顔を見て、惣は静かに涙を流した。失われたものは戻らない。だが、確かに救われた魂がここにあった。

惣は、二振りの刀を鞘に納め、二度と抜かぬよう固く封印することを決めた。彼はもう、人の記憶を斬ることはない。これからは、人の暮らしを支える、名もなき刃を研いで生きていく。

数年後。神田の裏通りには、小さな鍛冶屋があった。トテン、トテン、と響く槌の音は、過去を断ち切り、実直な未来を鍛え上げる希望の響きを持っていた。仕事に励む惣の元へ、小夜が熱い茶を運んでくる。二人の間に、過去を語る言葉はない。彼女は記憶を取り戻してはいない。

しかし、茶碗を受け取る惣の手と、それを見つめる小夜の眼差しには、言葉よりも深く、記憶よりも確かな、温かい絆が通っていた。空っぽになったはずの心に、新しい物語が静かに紡がれ始めている。人は記憶だけで生きるのではない。魂で、今この瞬間を、共に生きていくのだ。惣が打つ槌の音は、そんな二人の未来を祝福するように、いつまでも江戸の空に響き渡っていた。

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