残響する鼓動
第一章 墨痕の来訪者
玄斎(げんさい)のアトリエは、常に墨の香りに満たされていた。それはただの炭の匂いではない。千年を生きた古木の、深く湿った土と、長い歳月を記憶する樹脂が混じり合ったような、鎮魂の香りだった。雨の日は特にその香りが濃くなり、壁に掛けられた数多の肖像画が、まるで呼吸を始めるかのように微かに揺らめく。
その日も、障子の向こうで降りしきる雨が、世界の輪郭を滲ませていた。
「玄斎先生。お客人でございます」
控えめな声と共に襖が開き、冷たい空気が流れ込む。そこに立っていたのは、高貴な家柄で知られる椿小路(つばきこうじ)家の当主だった。絹の羽織は雨に濡れ、その顔には深い疲労と焦燥が刻まれている。
「急な来訪、非礼を詫びる。先生に、描いていただきたい者がおります」
男の声は低く、重かった。まるで、その喉に石でも詰まっているかのように。
玄斎は無言で男を見つめ、硯に水を注いだ。彼の使う墨は『生木墨(いきずみ)』と呼ばれ、描いた対象の生命を写し取ると噂されていた。事実、玄斎の描いた絵は、完成すると微かな鼓動を打ち始める。それは、絵の中に封じ込められた、その者の心臓の音だった。
「娘の、桔梗(ききょう)だ。原因不明の病で、日に日に衰弱していく。医者も匙を投げた。せめて、最も美しい姿だけでも、この世に残してやりたい」
男の言葉の裏に、別の響きを感じた。それは懇願でありながら、どこか逃れようとする者の必死さにも似ていた。玄斎は墨をする手を止めず、静かに問う。
「絵は、生命を削りますが」
「構わぬ」
当主は即答した。その瞳の奥に宿る昏い光に、玄斎は不吉な予感を覚えずにはいられなかった。
第二章 生を写す和紙
椿小路家の屋敷は、しんと静まり返っていた。通された桔梗の部屋には、薬草と、そして死の気配が混じり合った甘い香りが漂っていた。病床に横たわる桔梗は、噂に違わぬ美貌の持ち主だったが、その肌は陶器のように白く、血の気が失せている。彼女の身体からは、常人には感じられぬ微かな重圧が放たれていた。それは、人々がその身の内に溜め込むという『悔恨石(かいこんせき)』の気配だった。
玄斎は画材を広げ、桔梗に向き合った。
「……死神が来たのかと思った」
か細い声で桔梗が囁く。その瞳は虚ろだが、玄斎の持つ墨壺をじっと見つめていた。
「ただの絵師です」
玄斎は筆を執った。生木墨が硯で溶ける音が、部屋の静寂を際立たせる。筆先を和紙に落とすと、まるで紙が命を欲するかのように、墨がじわりと吸い込まれていく。桔梗の細い輪郭線、長い睫毛、固く結ばれた唇。そのすべてを写し取っていく。描くほどに、玄斎の指先から力が奪われ、代わりに桔梗の表情から苦悶の色が薄れていくのが分かった。彼女の瞳の奥に、安堵にも似た光が灯り始める。
数刻後、絵は完成した。筆を置いた瞬間、描かれた桔梗の胸元が、とくん、と微かに波打った。和紙に耳を寄せれば、確かに聞こえる。弱々しいが、確かな心臓の鼓動。
病床の桔梗は、その絵を見て、満足げに微笑んだ。
「……これで、ようやく」
その呟きは、玄斎の耳にだけ届いた。
第三章 悔恨の残響
三日後、桔梗が亡くなったという報せが届いた。安らかな最期だったという。しかし、街の噂は不気味な尾ひれをつけて広がっていた。椿小路家の一族が、ここ数ヶ月で何人も同じように衰弱死していること。そして、彼らの亡骸からは、ありえないほど重く、巨大な悔恨石が見つかっていること。
アトリエに戻った玄斎は、桔梗の肖像画に手を触れた。
その瞬間、絵の鼓動が激しくなる。ドクン、ドクン、と和紙が脈打ち、玄斎の脳裏に奔流がなだれ込んできた。それは桔梗の後悔だった。許されぬ恋、犯した裏切り、その罪の重さに耐えかねていた魂の叫び。
『この重荷さえなければ』
『誰か、この罪を取り去って』
後悔の渦の中で、玄斎は聞いた。絵に封じられた桔梗の最後の思いを。
「ありがとう、これで……楽になれる」
玄斎は愕然とした。彼女は死を恐れていなかった。むしろ、死によってもたらされる解放を望んでいたのだ。椿小路家の一連の死は、病ではない。彼らは自ら、玄斎の筆による「救済」を求めていたのだ。だが、これは救済などではない。己の能力が、彼らを死に追いやったのではないか。疑念が、冷たい楔のように心を打ち抜いた。
第四章 古木の囁き
足元がおぼつかないまま、玄斎は山奥へと向かっていた。生木墨を授かったという、打ち捨てられた古寺を目指して。答えはそこにあるはずだった。
雨に打たれ、苔むした石段を登りきると、朽ちかけた寺の堂守である老僧が、まるで彼の来訪を待っていたかのように静かに座っていた。
「……墨が、哭いておるかな」
老僧は茶を差し出しながら、穏やかに言った。
「あの者たちは、なぜ死を望んだのです。私の絵が、彼らを殺したというのですか」
玄斎の声は震えていた。
老僧は、庭にそびえる巨大な古木を見上げた。千年の風雪に耐えたその幹は、まるで黒い岩のようだ。
「あの木はな、古来より人々の悔恨を吸って生きてきた。生木墨は、その木の命を削って作られたもの。ただ生命を写すのではない。その者の最も深い後悔を、根こそぎ吸い上げるのじゃ」
老僧の言葉が、雷のように玄斎を貫いた。
「後悔を……吸い上げる?」
「悔恨石は魂の重り。あまりに重い石は、肉体を内側から砕いてしまう。あの者たちは、その苦しみから逃れるためにおぬしを頼った。墨は彼らの後悔を絵に封じ込め、罪の重圧から解放する。じゃが、その代償は大きい。後悔と生命は分かち難く結びついておる。後悔を失うことは、生命そのものを手放すことと同じなのじゃ」
玄斎は血の気が引いていくのを感じた。自分は救済者などではなかった。ただ、後悔という魂の核を抜き取り、人々を空っぽの器にして死に至らしめる、死神に過ぎなかった。無自覚のうちに、なんと多くの悲劇を生み出してしまったのか。
第五章 封じられた記憶
アトリエに駆け戻った玄斎は、取り憑かれたように奥の物置を漁った。そこには、描いてから一度も開いたことのない、埃をかぶった桐の箱がある。震える手で蓋を開けると、中から一枚の絵が現れた。
そこに描かれていたのは、優しい笑みを浮かべる妻と、その腕に抱かれた幼い娘の姿だった。
絵に指が触れた瞬間、これまで経験したことのない、激しく、そして悲痛な鼓動が玄斎の全身を打ちのめした。
ドクン、ドクン、ドクン――。
二つの心臓が、一つの絶望を奏でている。
そして、忘れようと固く閉ざしていた記憶の蓋が、こじ開けられた。
――流行り病で高熱にうなされる妻と娘。日に日に衰弱し、その小さな体には、苦痛に耐えるたびに悔恨石が生まれ、肉を苛んでいた。医者も見放し、ただ苦しみが終わるのを待つしかない日々。玄斎は、手に入れたばかりのこの不思議な墨に、最後の望みを託した。まだその力の意味も知らぬまま、ただ二人を苦しみから救いたい一心で、必死に筆を動かした。
絵が完成した時、二人の呼吸は穏やかになり、安らかな顔で眠りについた。そのまま、二度と目覚めることはなかった。
絵から流れ込んでくるのは、妻と娘の後悔だった。
『あなたを独りにしてごめんなさい』
『お父様を置いていってしまうのが、つらい』
彼女たちの後悔は、玄斎を想う愛そのものだった。そして玄斎の能力は、この最初の「罪」――愛する者を救おうとして、その命を奪ってしまった後悔によって、完全に覚醒したのだ。
第六章 三つの心臓
すべてを悟った。この力は、罰だったのだ。愛する者の後悔を永遠に感じ続けるという、終わりのない罰。椿小路家の人々も、そして自分も、この墨に救いを求めた亡者に過ぎなかった。
玄斎は、静かに新しい和紙を広げた。
生木墨を、ゆっくりと、祈るようにする。墨の香りが、妻の好きだった花の香りに似ている、と不意に思った。
彼は鏡を前に置き、自らの姿を描き始めた。
皺の刻まれた額。後悔に翳る瞳。固く結ばれた唇。
ひと筆ごとに、自らの心臓の鼓動が弱まり、体温が失われていくのを感じる。生命が、墨を通じて和紙へと流れ込んでいく。だが、心は不思議なほど穏やかだった。
ようやく、最後の線を描き終える。
玄斎はふらつく足で立ち上がると、妻と娘の肖像画の隣に、描き上げたばかりの自分の絵を並べて立てかけた。
とくん。
とくん、とくん。
三枚の絵が、まるで寄り添うように、それぞれの鼓動を打ち始めた。父と、母と、子の心臓が、長い時を経て、ようやく一つの穏やかなリズムを刻み始める。
玄斎はゆっくりと床に崩れ落ちた。薄れゆく意識の中、三つの鼓動が重なり合い、やがて一つの大きな静寂へと溶けていくのを感じていた。
アトリエには、ただ墨の香りだけが満ちていた。三枚の肖像画の前には、まるで涙の粒のように、小さな悔恨石が三つ、静かに転がっていた。